関ヶ原決戦地

さてさて、ここのところ、すっかりブログの更新が滞ってしまいました。
というのも、11月に入ってから、お仕事が急に忙しくなってしまい、
ブログにまで、なかなか手が回らなくなってしまいました。
(先月は比較的ヒマだったのですが…)
そんなわけで、新規投稿記事を書いている時間は、いま、なかなかとれないのですが、
とはいいつつも、ブログをあまりに放置すると、そのうちに、
冒頭部分に広告などが表示されてしまい、みっともないコトになってしまうので、
ちょっとネタが古いのですが、先月 (10月) から今月にかけて巡ってみた、
関ヶ原古戦場の各陣跡などについて、いまさらですが、ご紹介したいと思います。

今年は、この11月に入ってからは、比較的天候に恵まれているように思いますが、
先月は週末ごとに雨が降るなど、空模様にはついては、
ツイてないことが、とても多かったように思います。
今年の関ヶ原合戦祭りは、10月の14日(土)、翌日の15日(日)だったのですが、
両日とも晴れの予報はなく、15日にいたっては終日雨とのことでした。
というわけで、とりあえず雨を避けて、14日の土曜日に、関ヶ原へと行ってみました。

今年は、司馬遼太郎の『関ヶ原』が映画化され、
好調な成績を残しているとの情報がありますので、その勢いを受けて、
関ヶ原合戦祭りも、例年にも増して盛り上がるのでは、と、思っていました。
ですが、実際に関ヶ原に行ってみると、人出については、
例年通りか、もしかすると、ちょっと少なかったかもしれません。
これもやはり、お天気のせいだったのかもしれません。

もし、映画『関ヶ原』に出演している岡田准一さんあたりが、ゲストとして、
この関ヶ原に来てくれたなら、祭りの来場者数は、おそらく劇的に変わったかと思います。
実際、去年の祭りの際に、大河ドラマ『真田丸』で石田三成を演じた山本耕史さんが、
笹尾山で屋外トークショーを行なったさいは、かなりの見物客で賑わいました。

映画『関ヶ原』にちなんだイベントについては、今回の祭りのさいにも、
監督のトークショーや、島津義弘役の俳優がゲストとして招かれるなど、
それなりにあったのですが、来場者を大きく増やすほどの効果には、
至らなかったかと思われます。

合戦祭り会場

こちらは、祭りのメイン会場となっている陣場野のあたりです。
さすがにこのあたりは、多くの人で賑わっていました。
私が関ヶ原に到着したのは、お昼少し前だったので、去年と同じように、
今年もまた、こちらで『勝鬨カレー』をいただきました。

長野剛ポスター

関ヶ原合戦祭りといえば、この長野剛さんのポスターも、
必須アイテム的な存在といえるかもしれません。
各武将の旗指物や、これらイラストが展示されていると、気分も盛り上がります。

と、会場をあちこち見物したあとは、昨年と同じように、
徒歩で、各陣跡を巡ってみることにしました。

まず最初に行ってみたのは、東首塚と井伊直政陣跡です。
両者は、ほぼ同じ場所に位置しており、陣場野からもほど近いのですが、
祭りの賑わいが嘘のように、首塚は訪れる人は少なく、とてもひっそりとしています。
もっとも、天下分けめの合戦を偲び、かつての戦さ場を巡るわけですから、
もののふの霊に哀悼の意を表すのも礼儀かと思い、こちらにはいつも行くことにしています。

陣場野

その次に行ったのは、田中吉政の陣跡と、徳川家康の最終陣跡です。
徳川の陣跡には、厭離穢土欣求浄土の旗指物が翻っていました。
旗指物というのは、なにかしら心躍るものがあります。
この厭離穢土欣求浄土の旗指物もそうですが、
武田信玄の風林火山の旗指物なども、かっこいいですね。
昨年、武田信玄の葬儀が行われたという会の恵林寺に行って来ましたが、
そこでは、風林火山のミニチュアの旗指物が、お土産として売られていました。
いまさらですが、買っておけばよかったかも、と思うことがあります。

笹尾山

その後は、石田三成と島左近の陣があった笹尾山へ行き、そこからさらに、
島津義弘の陣跡へと徒歩で向かいます。

島津義弘陣跡

今年の合戦祭りのテーマは、この島津義弘だそうで、関ヶ原文化会館には、
島津義弘をモチーフにしたお土産屋さんもありました。
売り子さんたちは鹿児島の人たちだったようです。
関ヶ原合戦のさいには、積極的な参戦をしなかった島津勢ですが、
自らが与した西軍の敗北が決定的になると、薩摩へ帰陣するための撤退戦を開始します。
通常であれば、撤退とは、強力な敵を避けて後ろに下がるものなのですが、
島津勢は、徳川家康の本陣めがけて、前進するかたちで撤退します。
このような撤退は、軍事的に非常識なのでしょうが、島津勢は、
多大な犠牲を出しつつも、結局、この撤退を成功させ、薩摩へと帰るに至ります。
薩摩勢がいかに強かったか、推して知るべしですね。

宇喜多秀家陣跡

その後は、小西行長、宇喜多秀家の陣跡を巡り、大谷吉継の墓へと向かいました。
大谷吉継の墓のある場所は、いつ訪れても、すがすがしさを感じますし、
また、心が落ち着くように思います。

西軍から東軍へと寝返った小早川秀秋は、大谷隊への攻撃を開始しました。
しかし大谷は、この寝返りをすでに予見しており、小早川隊の猛攻を、
少ない手勢で何度も追い返すことに成功しています。
とはいえ、小早川にならって、脇坂安治をはじめ、赤座、朽木、などの諸隊も、
東軍への寝返りに転じたために、ついに大谷は、抗し切れなくなります。
四面楚歌となった大谷隊は崩れ、ひいては西軍そのものも総崩れとなってしまいます。
西軍の敗北を悟った大谷は、東西両軍の中でただひとり、自刃しました。

大谷吉継墓

自刃のさい、大谷の胸には、無念や失意の思いがあったかと思われます。
ですが同時に、重い病を患いながらも、日ノ本を分ける大いくさを成し得たこと、
そしてたとえいっときにせよ、東軍を劣勢に追い込めたことに、
本懐を遂げたといった心持ちもあったのかもしれません。

この場に来て、澄んだ空気のなかに身を置いていると、
最後の瞬間の大谷吉継の心情に、いつも、思いを馳せてしまいます。

その次に目指したのは、裏切り者として名高い小早川秀秋の陣があった、松尾山です。
前年にも登った山ですが、今回も、また挑戦してみることにしました。
が、体力が落ちたのか、とにかく、今年の松尾山登山は、本当にしんどかったです。

松尾山の苦しい道

道の途中までは、比較的スイスイとあがったのですが、途中の階段から、
どうにも息が上がってしまい、なかなか足が前にでなくなってしまいました。
う~ん、この日は、私の誕生日の1日前で、翌日には55才になろうとしていました。
やっぱり年なんでしょうか…。トホホです。

とはいいつつも、なんとか登り切りました。
陣跡には誰もおらず、まったくのひとりきり。
ちょっとさみしい気もしましたが、ゼイゼイと肩で息をしていたので、
人がいたら、恥ずかしかったかもしれません。

小早川秀秋陣跡

というわけで、記念撮影。
小早川の旗指物が翻っていました。

そんなわけで、この松尾山で体力を消耗してしまい、また、出発が遅かったため、
この日は、松尾山を最後に、関ヶ原をあとにすることとなりました。
島津勢が最後に壮絶な戦いを繰り広げたという『鳥頭坂』にも行きたかったのですが、
ここでギブアップです。

まあ、無理をすれば、鳥頭坂に行けなくもなかったのですが、
昨年の関ヶ原巡りのさい、全陣跡を巡ることに固執して無理をして歩いたため、
両足の爪を剥がしてしまう、という悲惨な事態になりました。

爪を剥がしてしまったとしても、結局は自然に治るのですが、
それまでには半年以上もかかり、できれば、もう二度と、爪は剥がしたくないものです。
というわけで、今年は早々に切り上げることにしました。
(とはいえ、ここで、西首塚にまだ行っていないことを思い出し、
急遽、向かうことにしましたが‥)

鳥頭坂

後日になりますが、鳥頭坂には、ヨメのクルマで連れて行ってもらいました。
前回きたときにはなかった、アクリル製と思われる立派な看板が立っていました。
この看板は、関ヶ原の各陣跡に、すべて立っていました。
しかも、たくさんの島津の旗指物も立てられており、
ずいぶんと様変わりしたように見受けられました。
関ヶ原町も、いろいろとがんばっているようです。

奥平貞治墓

また、こちらは、小早川隊のなかに目付として潜入していた、
徳川家康の旗本である奥平貞治のお墓です。

西軍についた小早川秀秋ですが、かねてから東軍の調略を受けており、
合戦時には徳川方に寝返ると密約を結んでいました。
ですが、ほんとうに寝返ってくれるのか、それを心配した徳川家康は、
自分の配下の者を、目付として、小早川隊に送り込みました。
それがこの奥平貞治です。

この場所は関ヶ原古戦場からは少し離れているため、いままで、
きたことはなかったのですが、鳥頭坂同様、ヨメに連れてきてもらいました。
ただ、こちらは、駐車場がなく、しかも周囲は民家が建て込んでおり、
ほんの一瞬の来訪でした。

桃配山

さらに後日、徳川家康最初陣地である、桃配山にもいってきました。
この場所は、今年の11月から、安全対策工事のため、来春まで閉鎖になるとのことで、
この機に行かねばと足を運びました。

閉鎖になるのは、桃配山だけでなく、大谷吉継の墓も含まれるそうです。
そんなわけで、大谷の墓にも、今年の見納めとばかりに、再訪しました。

このときはヨメとふたりでいってきましたが、ヨメも、
ここの空気は落ち着くね、などといっていました。
おそらく、誰がきても、そう感じるのかもしれません。

というわけで、今年も、417年前の関ヶ原合戦を偲び、
各陣を(といっても、すべての陣ではありませんが)、行脚しました。
来年の春にも、また、あちこち歩いてみたいと思っています。



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大和郡山でのMINI

さて、前回の続きです。
興福寺での阿修羅像見学を終えたあとも、奈良の街をあちこち見て歩きましたが、
天候は終日回復することはなく、傘をさしての観光は、なにかとたいへんでした。
その翌朝、まだ路面は黒く濡れていたものの、雨はあらかた上がっており、
どうやら、MINIを駐車場から出しても、濡らすことはなさそうです。
というわけで、傘なしで奈良をふたたび楽しみたいところでしたが、
名残惜しさを残しつつも、MINIに乗って帰路につきました。
とはいえ、このまま帰るのもちょっとさみしいですし、できれば買い物もしたい、
ということもあって、奈良の南にある大和郡山市のイオンにいってみることにしました。

私たちが現在拠点としている岐阜市の近郊にも、
各務原イオンや、カラフルタウンといった施設があるため、
大型のショッピングモールはとりたてて珍しいものではないのですが、
知らない街のショッピングモールは、やはり、ちょっと新鮮で、楽しく感じます。

と、ここで一時間半ほど過ごし、お昼もすませてしまうことにしました。
その後は、行きに通った道をそのまま帰ろうかとも思いましたが、
この機に、京都、大津を経由して、琵琶湖畔を通ってみようということになりました。
というわけで、大和郡山のイオンをあとにして、国道24号線をひたすら北上してみました。

お天気は、あいかわらずいまひとつですが、前日のように雨が降るようなことはなく、
当初予想した通り、MINIを濡らすことなくドライブすることができました。

国道24号線北上

MINIには、カーナビなどの装備はなく、したがって、
路上にある道案内用の青看板と、地図本をたよっての運転となります。
スマホを使って道案内をしてもらう、という手も、もちろんあるのですが、
それでは道路のカンが鈍ってしまうので、昔ながらのアナログ手法で走ります。

なので、ときどき看板を確認するのを失念して、道に迷ったりします。
宇治のあたりでは、いつのまにか国道から外れてしまい、リカバリーに苦労しました。
ですが、道に迷うのも、旅の楽しみ (?) のひとつだと思っています。

京都に入る

そうこうするうちに、MINIは京都市伏見区に入りました。
伏見といえば、秀吉が築城し、その後に家康が入った、
あの伏見城があるところかと思います。
もし、その遺構があるのなら、ちょっと見学したいな、と思いつつも、
それはまた今度にして、そのまま、北へと向かいます。

こうして、いよいよ京都の中心部に突入。
MINIを運転して京都にやってくるのは、今回がはじめてです。
(もちろん、MINIで奈良に行くのも、今回がはじめてでしたが…)
なんだか、京都にやってくると、テンションがあがります。
都の香りも感じる思いです。

道もおもいのほか混んできて、しかも、
国道24号はクランクすることが多くなってきました。
ですが、右左折を繰り返しながらも、比較的スムーズに、
京都の街を走ることができました。

おりしもこのとき、東本願寺を見つけ、
急遽、ちょっと寄ってみることにしました。

東本願寺前

が、駐車場の場所がわからない…。
どこかに大きな駐車場への入口があるのでは、と、思って捜したのですが、
見つけることができませんでした。
が、この路上の端がパーキングスペースとなっており、駐車が可能なようです。
すぐ近くにはパーキングメーターが設置してあり、
駐車料金の清算ができるようになっているみたいです。

パーキングメータにお金をいれると、時刻を記したシールが一枚出てきました。
このシールを、車内からウインドウグラスに貼れ、とのことです。
なるほど、これで、駐車しているクルマが、
お金を払って止めていることが、誰の目にもわかるわけですね。
それにしても、このようなシステムの駐車場を使うのは、
今回がはじめてで、いろいろ勉強になりました。

一回の入金で許される駐車時間は一時間までとのことです。
それを超える場合は、またここにきて、再度、お金を入れて、
シールを受け取らなければならないのでしょう。

東本願寺へ行ってみる

というわけで、とりあえず、憂いなくMINIを駐車させて、
いざ、東本願寺へと向かいます。
なにしろ、ヨメも、私も、浄土真宗大谷派ですので、
東本願寺は、この機にぜひとも参拝したい場所でもありました。

東本願寺

こちらが、東本願寺の御影堂です。
とても大きく、立派な建物です。
私は、二年前の京都出張のさいに、この場を訪れていますが、
ヨメと一緒にここにくるのは、じつに11年ぶりとなります。

御影堂のなかでは、読経が響いていました。
その声を聞いていると、気持ちが落ち着きます。

その後、阿弥陀堂でもお参りをさせていただき、
各所を見学し、お買い物広場 (境内売店) などにも寄ったりしました。

ふたたび出発

というわけで、ほぼ一時間、東本願寺で過ごしたあと、
ふたたびMINIに乗り、国道24号線を北上し、国道1号線に行き当たると、
右折して大津方面に向かいます。

もうちょっと京都を満喫したかったのですが、
帰宅時間があまりに遅くなるのも、どうかと思いましたので、
東本願寺のほかには寄ることなく、先を急ぎました。

こうして、国道一号線を走り、琵琶湖畔へ。
当初は琵琶湖の東岸側に入る予定でしたが、またしても道を間違えて、
西岸に入ってしまいました。

が、以前にも大津にはMINIできたことがあるため、
このときのリカバリーは比較的簡単にできました。
近江大橋を渡れば、すぐに東岸へと行き着くことができます。

近江大橋

こちらが近江大橋です。
ずっとお天気がイマイチだったのに、午後になってからは少しずつ回復し、
この頃になると、すっきりとした気持ちのいい晴天になりました。
前日がこのような好天であれば、もっと奈良観光を楽しめたのに、と、
ちょっと悔しい思いにもなりました。

というわけで、無事、家に帰り着きました。
来月、MINIは車検になりますので、この機に、いろいろと整備してもらおうと、
思っています。



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甲賀市でのMINI

今年の7月に、奈良へ小旅行に行ってきたと当ブログにも書きましたが、
おりしもこのとき、興福寺で行われている『阿修羅-天平乾漆群像展』は、
春と秋の展示期間のあいだの休会時期にあたっており、
残念ながら、阿修羅像を見ることができませんでした。

そんなわけで、リベンジ…というわけではないのですが、
今月のはじめに、阿修羅像を見学するために、
ふたたび、泊まりがけで奈良へと行ってきました。

前回はヨメのプジョーで奈良まで行きましたが、今回は、
私のMINIで奈良まで行ってみることにしました。
なにしろMINIは、オイル交換もしたばかりで、しかも、
夏の暑い時期はあまり乗ることもできなかったため、
MINIでの奈良行きは、いわば当然の成り行きといった感じでした。

ところが、9月末までさわやかな晴天に恵まれていたのに、
10月に入ってからは、ちょっとお天気が微妙な状態に…。
ですが、まあ、雨は降らないということで、予定通り、
ヨメとともにMINIに乗って出発しました。

今回、岐阜から奈良へ行くルートは、
前回とはまったく違うものにしてみました。
前回は三重県側から奈良県に至るルートを使いましたが、
今回は、まず国道21号線に乗って、西の滋賀県彦根市を目指し、
そこから国道306号線に乗り換えて南を目指してみました。
途中、国道307号線へと入り、信楽、滋賀県甲賀市を目指します。
その後も、そのまま国道307号線をひた走り、
京田辺市で国道24号線へとスイッチし、奈良市へと入る、というものです。

雲がちな空模様でしたが、やはり雨になることはなく、
しかも、道路も渋滞などはなく、比較的スムーズに奈良へと入ることができました。

奈良駅タイムズビエラ駐車場

ホテルには、宿泊客専用のタワーパーキングがあるのですが、
こちらにMINIを入れると、マフラーの触媒が床に接触しそうなので、
ホテルすぐそばの自走式駐車場を利用することにしました。
この駐車場は、高架化された駅のプラットホームの真下に作られており、
仮に雨になったとしても、クルマが濡れることはありません。
これは旧車乗りにとってはありがたいことです。

この日はすでに時間も夕方となっており、そのままホテルにチェックインし、
その後は、奈良の街をぶらぶらとしたりして、夕食をとることにしました。

そしていよいよ阿修羅像見学に出掛けるその日、天気は崩れ、
朝から本格的な雨になってしまいました。
これにはちょっとがっかりです。
まあ、MINIは雨に濡れていませんが…。

というわけで、気を取り直して、徒歩で出発。
いざ阿修羅見学へ、と、気持ちもはやるところですが、
まずは前回見ていなかった東大寺二月堂へと行ってみることにしました。

二月堂に向かうには、まず東大寺へと行き、そこから目指すのが、
一般的のルートかもしれません。
ですが、前回東大寺に行ったとき、
奈良名物の鹿たちが、そこかしこでフンをしていて、
それを避けて歩くことに難儀したため、今回は東大寺の裏(北側)を通って、
二月堂へと行ってみることにしました。

二月堂への道

雨といえども、休日の奈良は観光客がとてもたくさんいましたが、
このルートは、まったくといっていいほど人影もなく、それなのに、
写真のように美しく落ち着いた景観で、しかも、懸念した鹿のフンもなく、
こちらを選んで正解でした。

あいにくの空模様ですが、この景色に、雨は似合うように思います。

二月堂

そして二月堂に到着。
ここでも人影はまばらでしたが、しばらくすると、
大量の外国人観光客が入ってきました。

ここで、大和茶の茶粥をいただき、
(その茶粥の写真を撮り忘れてしまいました。残念です)
次に行ったのは正倉院です。

正倉院

こちらも、前回の奈良旅行では訪れることがなかった場所です。
ただ、この先へは行くことができませんでした。

いざ阿修羅像を見学に

というわけで、いよいよ、興福寺へと向かった見ることにしました。
さすがに、興福寺へ行くと、大勢の観光客がいました。
うえの写真では人がまばらに見えるかもしれませんが、実際には、
そんなことはなかったです。
なかでも、修学旅行生の姿を、多数見かけました。

興福寺仮講堂

そして、チケットを買って、興福寺仮講堂へ。
館内の撮影はもちろん許可されていませんので、
写真のご紹介ができるのは、この仮講堂の姿までです。
たいへん申し訳ありません。

仮講堂に足を踏み入れると、
赤みを帯びたスポットライトに照らされた、
二十体を超える仏像 (乾漆仏) と、向き合うこととなります。

まず、手前 (東側) に展示されているのが、金剛力士像です。
口を開けているこの像は、阿形(あぎょう)と呼ばれるそうです。
造形は極めてリアルで、大胸筋、三角筋、腹直筋などの、
各筋肉がはっきりと見て取れます。
それだけでなく、履いている袴状の衣類には、
強い風を示す流れるシワが表現されています。

中世から江戸時代に至る日本の絵画は、シンプルな線で対象を捉え、
ときにディフォルメも加えつつ描く、といったスタイルが多いように思いますが、
この金剛力士像は、正確に筋の隆起の描写がなされています。
憤怒の表情には、たしかに誇張的なディフォルメがありますが、
それらも、顔面の筋の動きに沿った理にかなったものとなっています。

荒々しさのなかに繊細さがあり、また、
長い時間を経てまとったのであろう体表の質感が、
像の重厚さをさらに増大させているようにも思います。
最初の展示物であるこの像で、すでに圧倒されてしまう思いでした。

次は舎利弗(しゃりほつ)像、富楼那(ふるな)像、羅睺羅(らごら)像といった、
釈迦の弟子たちの像が展示されています。
金剛力士像とは対照的に、どの像もみなおだやかな表情で、
しかも、少年のような若々しさも感じます。

その次は、畢婆迦羅(ひばから)像といった、
甲冑を身に着けているかのような像が展示されています。

さらに次は、展示物の中央となる巨大な阿弥陀如来像が鎮座しています。
両脇には梵天像、帝釈天像が配置されています。

阿修羅展リーフレット表面

その左隣に、今回の目的であった阿修羅像が置かれています。
阿修羅とは、インド神話に登場する戦いの神だそうで、
本来であれば、激しい怒りの表情をした三つの顔を持つものだそうです。
ですが、この阿修羅像は、おだやかで知的であり、
少年のような年若い顔となっています。
また、身体は細く繊細で、六つある腕に至っては、
戦いの神とはほど遠い華奢なものです。
表情は内省的で、それでいて、目には強い力が宿っているようです。
閉じた口は、ほんのわずかにゆがめられおり、
見ようによっては、微笑みのようにも、静かな怒りのようにも、
どちらにも受け取れるように思います

腕は二本を対にして同じ動作をとっており、
その不思議なフォルムは、万能感を放ち、
どれだけ眺めても見飽きないものでもあります。

この像は、いまから1300年も昔に作られてものだそうです。
興福寺は何度も火災に見舞われてきたといいますが、これらの仏像は、
内部が空洞となっているため、持ち運びが容易で、そのために、
焼失を免れてきたのだといいます。

人の命ははかないもので、寿命が延びた現在となっても、
100年も生きればたいへんな長寿でしょう。
ですが、阿修羅像は、1300年ものあいだ、この国の歴史とともに生き、
また、多くの人々の目に触れてきたのです。
そしていまから1000年の後にも、いまと変わらず、生きながらえていることでしょう。
仏像とは、永遠の命を持っているのではないか…。
そう思うと、なにかしら不思議な気持ちにもなりました。

阿修羅展リーフレット裏面

阿修羅の隣には、
五部浄(ごぶじょう)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)の各像があり、
さらにその隣には、
須菩提(すぼだい)、目犍連(もっけんれん)、迦旃延(かせんねん)といった、
釈迦の弟子たちの像が、配置してあります。

そして最後は、金剛力士像があります。こちらは口を閉じた、
吽形(うんぎょう)と呼ばれる像です。

しばしのあいだ、これらの像と向き合い、その造形美に酔いしれるとともに、
静謐で敬虔な心持ちにもなってきました。
奈良まで来た甲斐があったというものです。

興福寺到着

というわけで、このあとのことは、また次回、ご紹介したいと思います。



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ユーモラスなビースト

三重県津市にある三重県立美術館で、7月15日から9月18日まで開かれていた、
企画展『テオ・ヤンセン展』に行ってきました。
このエキシビションは、
オランダのアーティストであるテオ・ヤンセン氏が、創造、製作した、
チューブの集合体による歩行体『ビースト』を、多数展示する企画展で、
期間中は、展示物のいくつかを実際に歩行させる、
実動デモンストレーションも行うといいます。

かねてから、ネットの動画などで、海辺をゆっくりと歩行する、
奇妙で魅惑的なビーストの動画に魅せられていた私は、
今回の企画展に「これは絶対に見に行かねば」と、期待に胸を膨らませていました。
ただ、情報によると、夏休みの期間中は、たいへんな人出となっており、
駐車場も満杯で別の場所に臨時駐車場を用意するなど、
かなり混雑しているとのことです。
というわけで、夏休みの期間が終わるまでじっと待ち、
先々週の平日に、満を持して、ヨメとともに津へといってきました。

とはいえ、決行日は平日ということで、
いっしょに行く予定のヨメも、片付けなければらない仕事があるなど、
出発は思いのほか遅れてしまいました。
津に向かったのは、結局、お昼近くになってからでした。

というわけで、ヨメのプジョーに乗って、国道23号線を伊勢方面へとひた走り、
途中昼食をとって、午後2時半頃に津に到着しました。

駐車場は満杯か…

混雑を避けるために、あえて平日を選んで、ここまできたわけですが、
やっぱりというべきか、意外というべきか、三重県立美術館に着くと、
駐車場に入ろうとするクルマがすでに並んでいました。
平日なのにこんなに混んでいるのか、と思ったのですが、
思いのほか早く、駐車場に乗り入れることができました。
土日だったら、きっと、これほどスムーズには行かなかったと思います。

念願のテオ・ヤンセン展見学へ

津には、プラモサミット見学のため、つい数ヶ月前にきましたが、
三重県美術館を訪れるのは、今回がはじめてです。
さすがに、立派な美術館です。

入口には巨大ビースト

というわけで、早々にチケットを買って、館内へ。
広いエントランスには、見物客を出迎えるように、
巨大なビーストがドンと鎮座していて、もう興奮度はマックスです。
こうした複雑な構造物が足を使って歩行するなんて、信じられない思いです。

テオ・ヤンセン展

こちらが会場風景です。
見学客の数は、決して少なくはないのですが、混雑しているというわけでもなく、
やはり、平日を選んできてよかったと思いました。
しかも、美術展には珍しく、撮影はどこもOK。
というわけで、もう、写真を撮りまくりです。

テオ・ヤンセン氏は、当初、コンピュータを使って、
線虫のような架空の生物を創造し、それが組み合わされることで、
どのような進化を遂げていくのか、見極めようと考えたようです。

この架空の生物は、やがてコンピュータという枠を飛び出し、
プラスチックのチューブに置き換わって、現実世界に現れます。
そしてチューブは、複雑に組み合わされて、
やがては『ビースト』と呼ばれる、無生命生物へと進化していきました。
それは生物の進化の追体験であり、神である創造主の試行錯誤を、
自ら体験する試みでもありました。

プラスチックチューブは、進化をたどるビーストの最小単位であり、
いわば細胞といってもいいものです。
ヤンセンは、このチューブをいくつか組み合わせることで、
もっともシンプルで効率の良い、歩行システムを見つけます。
このシステムは、ビーストの基本的な移動方法として取り入れられ、
以後、さまざまなかたちに進化していくのです。

プロペラを持つビースト

ビーストは、風を帆で受け止めて動力とし、
移動、歩行のシステムを獲得し、やがては、プロペラによって風を得たり、
また、帆で受けた風をペットボトルに蓄えて、それを動力とするなど、
さまざまなバリエーションを展開していきます。

ビーストの進化は枝分かれし、それぞれの進化の時期を、
ヤンセンは、グルトン、ホルダ、セレブラム、などと命名し、
さながら、古代生物の進化の体系のようにまとめました。

歩行システム

こちらは、歩行システムを説明する模型です。
実際にハンドルを回して、足を動かすことができます。
たしかに、単純な構造ですが、足を前に出して、踏み出すという、
一連の動作をしてみせます。
これがもっとも完成された、黄金比率的な構造といえるのかもしれません。

装甲型ビースト

ビーストの形態はさまざまですが、
どれもチューブを組み合わせていることに変わりありません。
ですが、例外的に、装甲のような外皮をもつものもあるようです。
それがこのビーストです。
模型の展示しかありませんでしたが、館内では、
このビーストが歩行する映像が流れており、それがとても強烈な印象でした。

と、そうこうするうちに、館内アナウンスが流れ、ただいまから、
ビーストの可動実演が行われるとのこと。
さっそく見学させていただくことにしました。

可動実践1

こちらは、強風に耐えられる方法を獲得したビーストです。
地面 (砂浜) に杭を打って、身体を固定するといいます。
ビーストを動かすのは、このために日本までやってきた、専門の技師の方です。

ビーストの求愛

またこちらは、求愛するビーストです。
いうまでもなくビーストには生殖機構はなく、かたちだけの求愛ですが、
この求愛の動作は、私たち人間を魅惑しているものだ、と、
アナウンスの方がおっしゃっていました。
鼻の動きが、なんとも生物的で、ユーモラスでした。

また、歩行システムを捨て去り、体を波状に動かすことで移動する、
キャタピラー型ビーストも、進化の過程で現れました。
そのキャタピラー型ビーストの可動実演も行われました。

これら専門の技師が可動させる実演と平行して、
ビーストを見学客が動かすこともできました。

ビーストを動かしてみた

というわけで、さっそく私も動かしてみました。
動かし方は、ビーストを押して進む、という感じで、
一定程度進んだら、今度は引いて戻します。

無数の足が整然と動く姿を、間近で見ることができました。
私が実演したあとは、ヨメも動かしてみました。

可動実践2

最後は、巨大なビーストの歩行デモンストレーションです。
このビーストは、帆で風を受け、それを無数のペットボトルに圧縮空気として溜め、
それを動力として、歩行します。
いわば、ペットボトルは筋肉であり、新しい動力源を得たビーストといっても、
いいのかもしれません。

見てるこちらに、ググッと歩いてきます。
会場からは、おおっ〜という歓声があがりました。
いままで、ネットの動画でビーストの歩行は何度か見てきましたが、
やっぱり、実物が歩くのを目にするのは、圧巻で、とても迫力がありました。

というわけで、テオヤンセン展をおもいっきり満喫してきました。

会場に入るさいに買ったチケットは、他の展示室への閲覧も許されており、
この機会に、三重県立美術館が所蔵している他の美術品や、
もうひとつの企画展を見学していくことにしました。
が、閉館は五時となっており、このときすでに四時過ぎ…。
ゆっくり見て回ることもできず、駆け足での見学となってしまいました。

三重県立美術館は、ルノアール、ダリ、ルドン、シャガールなど、
名のある画家の作品を多数所蔵しているようで、とても驚きました。
ですが、今回はそれらをゆっくり見て回ることができず、ちょっと残念でした。
次回、ここにくることがもしあったら、そのときは、
時間をかけて見て回りたいものです。



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賤ヶ岳からの眺め

9月に入ってから急に、朝晩はとても涼しくなり、
蒸し暑く寝苦しかった8月が嘘のように、とても過ごしやすくなりました。
このような気候になってくると、
いよいよ、MINIの季節がやってきたかな、という思いにもなります。
なにしろ、エアコンもなく、また、
オーバーヒート対策としてヒーターを入れつつ走る我がMINIは、
夏場にドライブするのはたいへんで、遠出する気にはなれませんでした。
(前回も書きましたが、一度だけ酷暑の日にMINIを出しましたが、
汗が目に入って苦労しました)
ですが、これからは、MINIでのお出かけもできそうな予感です。

そんなわけで、先週の日曜、久しぶりにMINIを走らせてみることにしました。
今回の目的地は、滋賀県の『賤ヶ岳 (しずがたけ)』というところです。 
この賤ヶ岳には、先月にもヨメのプジョーで立ち寄ってみたのですが、
夏休み期間中だったためか、駐車場に思うような空きがなく、
すぐに引き返してきてしまいました。
ですので、今回は二度目のチャレンジとなります。

というわけで、MINIの暖気とオイルチェックをすませ、出発。
まずは岐阜県垂井町、そして関ヶ原方面へと進みます。
関ヶ原では、石田三成が布陣した笹尾山を横目に見ながら、
国道365号線に乗り換え、その先の滋賀県長浜市を目指します。
長浜に到着してからはそのまま北上し、木之本町方面に向かって走ります。

空模様は絶好の好天で、空気もさわやか。
まさに絵に描いたようなドライブ日和です。
のんびりと走りつつ琵琶湖北部に到着。
ここから国道をそれて、賤ヶ岳へと向かいます。

MINIでお出かけ

前回は駐車をあきらめましたが、今回もクルマは多いものの、
無事、駐車することができました。

ここ賤ヶ岳は『賤ヶ岳の戦い』があった場所として、名を馳せています。

天正十年(1582年)、織田信長が、京の本能寺で明智光秀に討たれるという、
前代未聞のクーデターが発生します。
いわゆる『本能寺の変』です。
信長の家臣であった羽柴秀吉は、このとき、西国の雄である毛利を攻めており、
おりしも、備中高松城を囲んでいる最中でした。
京から遠く離れた地にいながら、信長横死の報にいち早く接した秀吉は、
すぐさま毛利側と和睦し、急激な勢いで、自軍を東へと戻します。
これが世にいう、秀吉の「中国大返し」です。

謀反の首謀者である明智光秀は、あまりに早い秀吉の東進に驚き、
山崎で秀吉軍を迎え撃ちますが、あえなく敗北してしまいます。
その後、信長亡き後の織田家の遺産を、
誰が、どのように継承していくのかを話し合うため、尾張の清洲城で会議がもたれます。

明智討伐によって発言力を増していた秀吉は、
本能寺の変のさいに信長とともに討たれた織田信忠の嫡男、
つまり、信長の孫である「三法師」を、織田家の後継者としてかつぎだします。
秀吉は、幼い三法師を旗頭にしつつも、
自らはその後見に収まることで権力掌握を目論みます。

が、秀吉の台頭に、織田家筆頭家老である柴田勝家が黙っているはずもなく、
翌年の天正十一年になると、両者の対立は戦へと発展していきます。
その戦の場となったのが、この『賤ヶ岳』なのです。

岐阜市に活動の拠点を写してからというもの、
私は、ここ賤ヶ岳探訪を熱望していましたが、
その夢は、ようやく達成された、という感じです。

旗指物

賤ヶ岳の戦いでは、秀吉配下の七人の兵が活躍しており、
『賤ヶ岳の七本槍』として名を馳せています。
賤ヶ岳登山道の登り口には、その名と家紋とを記した旗指物が、
並べられていました。

賤ヶ岳には、リフトで登るか、徒歩で登山道を登るか、どちらかが選べます。
距離は1.5キロだそうです。
1.5キロくらいだったら、登るのにそれほど苦労はなさそうですが、
ヨメと相談し、とりあえず登りについては、リフトを使おうということになりました。
リフト代は片道420円と、比較的リーズナブルです。

賤ヶ岳リフト乗り場

リフトは、スキー場にあるものとほぼ同じです。
こうしたリフトに乗るのは何年ぶりでしょうか…。
ただ、リフトの高さは、スキー場のあるもののように高くはなく、
伸ばした足の先は地面の草に触れそうです。

リフトでGO

こちらがリフトからの眺めです。
ほんとうはもっと気持ちのいい眺めなのですが、写真には草しか映っていませんでした。
ちょっと残念です。
いずれにしても、リフトでの山登りはなんだかワクワクしますね。
しかも天気がいいだけに、気持ちも高ぶります。

リフトは途中からかなりの急勾配になります。
ふりかえると、麓の景色がとてもきれいに見えましたが、
傾斜がきついだけに、高所恐怖症の私は、ビビってしまいました。
(なので、写真も撮れませんでした)

こうして無事、終点に到着。
が、リフトの終点は頂上にあるわけではなく、
このあとは徒歩行軍でさらなる高みを目指します。

すばらしい眺め

山道の途中からは、琵琶湖を見渡すことができました。
青い空に青い湖面、まさに胸のすくような眺めです。

近江側を見る

こうして歩くこと数分、無事、頂上に到着しました。
ここからは、近江側の大地を見渡すことができます。
目を凝らすと、浅井長政の居城『小谷城』のある小谷山や、
信長が小谷城を攻めるさい本陣を置いたという、虎御前山も見ることができます。
それにしても、この日は、ほんとうに気持ちいい晴天でした。

ちょうどそのとき、頂上にいた歴史ガイドの方が「解説しますよ~」と、
周囲に声をかけていたので、さっそく、お話を聞かせていただくことにしました。

余呉湖の古戦場を見渡して

解説は、琵琶湖の北にある余呉湖が見渡せる場所で行われました。
つまり、こちらが、賤ヶ岳の戦いの主戦場になるとのことです。

この戦いは、余呉湖からさらに北に位置する、
権現峠という峠から、東野山砦という場所を結ぶラインで、行われたようです。
私は、秀吉の本陣がふもとの木之本地蔵院にあったと聞いていたので、
秀吉は木之本周辺に陣を置き、勝家がこの賤ヶ岳に陣を敷いたのかな、などと、
勝手な解釈をしていましたが、それはまったくの間違いでした。
不勉強を恥じ入るばかりです。

ここ賤ヶ岳には、秀吉方の桑山春重という武将の陣が合ったそうで、
柴田勝家の本陣は、ずっと北の福井県との県境あたりにある、
玄蕃尾城という山城だったそうです。

戦いの様相としては、双方、要塞化した砦や城に籠って篭城する、というもので、
このようなかたちの戦闘は、日本史上的にも珍しいとのことでした。
双方が立てこもる篭城線においては、先に動いたほうが不利になるといいます。
ですので、両軍とも目立った活動を控え、よって膠着状態が続くことなります。
そんな折り、秀吉が岐阜方面へと兵を下げ、それを好機と見た柴田勝家側の武将、
佐久間盛政が攻勢に出ます。
この攻撃により、秀吉方の中川清秀が討ち死にし、
秀吉配下の他の武将も苦戦を強いられます。

ところが、岐阜への途上にあった秀頼は、この一件を知らされるとただちに転進。
賤ヶ岳へと取って返します。
そのスピードは佐久間盛政の予想を遥かに上回るもので、
いわば、中国大返しの再現をここでもやってみせた、ということになります。
後に、この秀吉の高速転進を『美濃大返し』と呼ぶようになったそうです。

佐久間盛政は、戻ってきた秀吉軍と激突します。
その戦闘の最中、柴田勝家側についていた前田利家が、独断で撤退してしまったため、
柴田側は総崩れとなってしまうのです。

じつは、このブログには書いていませんが、昨年、MINIで余呉湖を一周し、
その後、国道365号線を通って、福井県側に抜けたことがありますが、
このとき、知らず知らず、柴田側、秀吉側の最前線を横切っていたことになります。
今度同じ道を通るときは、そのことを念頭に入れておきたいですし、
できれば、周辺の砦跡も見てみたいものです。

というわけで、賤ヶ岳を思いっきり堪能し、いざ、下山しようと思ったのですが、
ショートカットの険しい坂道を通ろうとしたとき、ヨメが足をとられて大転倒。
足をくじいてしまいました。
まさに、賤ヶ岳で名誉の負傷です。

そんなわけで、帰りもリフトに乗っていこうかと思ったのですが、
ヨメによると、歩けるからだいじょうぶ、とのことなので、
登山道を歩いて下山することにしました。

下りの山道

こちらがその登山道です。
木漏れ日が美しく、また、つづら折れの道がなんとも楽しいです。
途中、登ってくる登山者と何度もすれ違いました。
歩いて登る人も、ことのほか多いようです。

リフトを仰ぎ見て

道は時折、行きに使ったリフトの軌道と交差していました。
座席の位置が低いので、がんばれば途中乗車できそうな気もしました。

こうして無事下山し、その後は、
MINIで琵琶湖畔をドライブしてみよう、ということになりました。
向かった先は、琵琶湖の西岸の高島市方面です。

すばらしい青空

このコースは、GWのときにもMINIでドライブしましたが、
湖畔道路は信号もなく、交通量もさほど多くはなく、それでいて眺めは素晴らしく、
まさに絶好のドライブコースです。

湖畔のMINI

MINIも快調で、とても気持ちよかったです。

ところが、ヨメの足首がまたしても痛みだし、
途中、薬局によって湿布を買って帰ることに。
でもそのまま帰るのはちょっとさみしいということで、
いま来た道を引き返しつつ、今度は琵琶湖の東岸へと向かい、
そのまま、彦根まで向かって走ってみました。

快適ドライブ

というわけで、賤ヶ岳古戦場見学に加え、琵琶湖湖畔をドライブするなど、
とても楽しい一日を過ごしてきました。
とくに、琵琶湖湖畔ドライブには、またぜひ、いきたいものです。



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