戸隠神社奥社参道

本ブログは、紹介する出来事が実際に起きた時と、
記事がアップされる日時とのあいだに、
けっこう大きなタイムラグが生じてしまっています。
というのも、記事を書くのにいつもかなりの時間がかかってしまって、
なかなか、リアルタイムに近いかたちで、アップができません。
今回も、御多分に洩れず、ご紹介する出来事が、
三週間もまえのことになってしまいます。
これからは、もっと素早くアップできたらいいなと思っています。
(といっても、なかなかそんなことはできないかと思いますが)

さて、今回は、今月の10日に、
長野県の戸隠神社に参拝に行ってきたことなどを紹介したいと思います。
戸隠神社といえば、私達夫婦にとって、大のお気に入りスポットで、
いままでにも、何度か、出かけています。
ところが、2014年の四月に戸隠神社参拝をしたあとは、
一度も行っておらず、今回、四年ぶりの戸隠神社詣でとなりました。
なぜ、この間、戸隠に行かなかったのか、というと、その理由は、
やはり、飛騨高山から岐阜市に活動の拠点を移したことと関係があります。
高山から戸隠神社までは、下道を使っても四時間ほどでいけますが、
岐阜市からとなると、そうはいきません。

というわけで、前日の夜にいったん飛騨高山の実家に入っておいて、
翌日、高山から戸隠に向けて出発することにしました。

そのルートは、まず高山から東の長野県境へと向かい、安房トンネルを抜けて、
安曇野、松本に至り、そこから国道19号を使って、長野市にはいり、
浅川ループ橋を通って、戸隠にはいるというものです。

安曇野周辺

出発の日は曇り。
とはいえ、途中の沢渡あたりでは、雲の間から太陽が顔を出し、
色づいた紅葉を照らすなど、この先、天候が回復するのかな、
という気配もあったわけですが……。

戸隠へ登る

ところが、国道19号線を北上するあたりから、なんとなく、
雲行きが怪しくなってきました。
長野市から戸隠へと向かう浅川ループ橋を越える頃には、
空は鈍色の雲に覆われてしまい、ほんのすこしですが、
ウインドウグラスにも雨滴がつくようになりました。
このときは、もう戸隠行きは中止して、長野の善光寺にでも、
行ったほうがいいのではないか、などと思うほどでした。

でも、気を取り直してそのまま進み、
まずは戸隠神社五社のひとつである、宝光社へと行くことにしました。
当初から、混雑する紅葉シーズンが終わってから戸隠へ行こうと思っていたので、
渋滞などもなくスイスイと走ってくることができましたが、
それでもそこはやはり戸隠神社、すでに駐車場は満杯でした。

ですが折良く出て行く車がありましたので、どうにか、
駐車をすることができました。

宝光社石段

というわけで、宝光社の長い石段を登ります。
それにしても、ほんとうに久しぶりです。
また、こうしてこの場所にくることができ、感無量です。

火之御子社

こうして、宝光社の参拝を終え、その次は、火之御子社へと向かいます。
ただ、この火之御子社は、坂の途中にあり、しかも駐車場は3台分しかありません。
(なにしろ、火之御子社はとても小さいので)
向かう道中、うまく駐車できるかなと思ったのですが、
行ってみると、駐車車両はなく、難なく駐車できました。

というわけで、それほど参拝客はいないのかと思ったのですが、
石段を上がると、なんとそこには大勢の参拝客が……。
いままで、この火之御子社で人を見かけることがなかったので、
この賑わいには驚きました。
どうやら、御朱印目当ての人が多数訪れているようです。

そして次に向かうのは、中社です。
こちらは広い駐車場が完備されていますが、それでも、
駐車場はいっぱいで、出て行く車を待っての駐車となりました。
(といっても、さほど待つことなく駐車できましたが)

中社

中社のあたりは、人も多ければ車も多く、
観光バスも行き来するなど、かなりの賑わいです。
しかもこのあたりは、そば屋さんなどのお店も多く、
食事をするにも便利なところです。

というわけで、まずは中社を、しっかりと参拝させていただきました。

気がつけば、まもなくお昼ということで、
この中社の周辺で、昼食をとることにしました。
お店は、戸隠にきたときにはいつも行く『岩戸屋』さんです。
岩戸屋さんの写真を撮ることを失念してしまいいましたが、
お店は坂道に面したところにあります。

しかしお昼時ということで、岩戸屋さんのまえには、
すでに何人もの人が待っていました。
これはなかなかに時間がかかりそう、とも思ったのですが……。
意外とすんなりと席に案内されました。

岩戸屋のお蕎麦

というわけで、温かいお蕎麦をいただくことにしました。
じつは私は、ざるそばよりも、こうした暖かいお蕎麦のほうが、
好みです。

天候回復

こうして無事昼食をとり、次に奥社へと向かいます。
当初は雨を心配していましたが、天候はしだいに回復。
時折、晴れ間も覗くようになりました。
道の途中、戸隠行きを中断しようかとも思いましたが、
(というのも、奥社への長い参道を傘をさして行くのはつらいですから)
やっぱり、こちらにきてよかったです。

奥社の駐車場に車を入れ、参道へと向かいます。
この駐車場のみ、いまは有料となっています。
(以前は無料だったんですけどね)

参道を行く

この参道を歩くのも四年ぶり。
ふたたびこうしてこの地を訪れ、この参道を歩くことができたことに、
またしても、感慨深い感情が湧いてきます。

ちなみに、写真では、さほど人がいないように見えますが、
実際には、多くの人が歩いていました。
森のなかの長い参道を行く人の姿は、
映画『十戒』の割れた海のあいだを行く人の群れのようです。

随神門

そしてこちらが、参道の途中にある随神門です。
この門を超えると、空気感が変わります。

杉並木

いきなり、林立する杉並木が現れます。
いちばん最初に戸隠神社に来たときには、この杉並木の壮麗さに、
圧倒されたものでした。

やがて坂道に

杉並木を過ぎると、次は坂道になります。
このあたりは息が切れるポイントともなりますが、
私は、関ヶ原の松尾山登山で鍛えられたせいか、なんの苦もなく、
踏破することができました。
(ヨメはかなりつらかったようです)

奥社石碑

こうして無事、奥社、九頭龍社に到着。
手水舎で手と口を清め、いざ参拝です。

奥社到着

ここにも、御朱印をいただけるところがあって、多くの人で賑わっていました。
私がはじめてこの場所にきたときは、御朱印をもらう人は、
ほとんどいなかったのではないかと思います。
ですがいまは、御朱印を目当てとする人が、とても多くなりました。

川の向こうへ

帰り道は、途中にある末社を参拝したり、屋敷のあとらしき場所に寄ったりと、
参道を満喫しました。

こうして、晩秋の戸隠を、思いっきり満喫してきました。
紅葉はすでに終わっていましたが、ところによっては、まだ、
色づいた木々を見ることもできました。

というわけで、最後に、戸隠の隠れた名物(?)、
ヨメのたっての希望で、七曲りの急坂に行ってみました。

恐怖の七曲り

この尋常じゃない坂と急カーブ、長野ならではですよね。
岐阜も山深いところですが、こういうところはありません。
交通の難所として知られる安房峠だって、もっと勾配はゆるやかですし……。

それにしても、戸隠は、心がリフレッシュされる場所です。
遠方ゆえに、おいそれとはなかなか行けませんが、また、ぜひ、
参拝したいものです。



コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking

三式戦 飛燕

さて、ちょっと前の話になってしまいますが、今月の4日に、
岐阜県各務原市にある、航空宇宙博物館に見学に行ってきました。
今回は、その時の模様などを、いくつか写真を交えて、紹介したいと思います。
4日の日曜は、あいにくの雨になってしまい、お出かけをするには不向きな日でした。
ですが、こんな日こそ、屋内施設に出かけてみよう、ということで、
急遽、航空宇宙博物館への見学を思い立ちました。
なにしろ、この博物館では、旧陸軍の戦闘機、三式戦『飛燕』の実機展示が行われており、
私も、この機体を見学に行きたいと思いつつも、なかなかその機会がなかったのですが、
この雨の日曜日に、満を持して出かけてみることにしました。

とはいっても、ここ岐阜市から、各務原市まではとても近く、
クルマであれば、およそ三十分くらいで着いてしまいます。
もっとも、この近さゆえに『いつでも行けるから』という思いがあって、
いままで、見学をする機会がなかったといえるかもしれません。

ただ、この日も、午前中はほかのことをしていたりと、ちょっとバタバタしていて、
結局、お昼ご飯を食べてから、各務原に出かけることになりました。
ところが、途中、渋滞に引っかかるなどして、思いのほか、
現地到着までに、時間がかかってしまいました。
(国道21号線は、いつも混み合ってしまうものなのですが……)

目的地の各務原航空宇宙博物館に着いたのは、すでに午後二時過ぎ。
予定よりもちょっと遅くなりましたが、さっそくチケットを買って入場してみました。
館内は、とても多くの人で賑わっていました。
この施設の人気はとても高いようです。

じつは私は、十年以上前、この各務原航空宇宙博物館には、一度、来たことがあります。
ですが、その当時といまとでは、展示の仕方などが大きく変わっているようでした。

サルムソン2A2

こちらは、サルムソン2A2という偵察機だとのことです。
実機ではなく、復元された模型とのことですが、この機体は、かつて、
この博物館を訪れたさいにも、見学した覚えがあります。
クラシックな複葉機は、味わいがありますね。

ライトフライヤー

そのうえには、ライト兄弟が飛行に成功させたという、
ライトフライヤーが展示されていました。
ただ、天井から吊るすかたちでの展示ですので、細部を間近で見ることはできません。
展示スペースが限られているので、こうした吊るし型展示も、
やむを得ないところではありますが、できれば間近でディティールを見たいものです。

飛燕展示室

そして、次の展示室に進むと、そこにはすでに飛燕の勇姿が……。
その姿が目に飛び込んでくると、なんともいえないオーラのようなものを感じました。

胴体

機体は無塗装状態です。なので、撮影すると、モノクロ写真のような、
色彩を欠いた不思議な印象になりました。

私は、飛行機のことは詳しくないのですが、
この機体のフォルムは、やはり、ドイツ空軍のメッサーシュミットMe109に、
とてもよく似ていると思います。
とくに、エンジンの排気管の位置や、キャノピーのあたりは、
非常に類似しているのではないかと思います。
もっとも、この機体のエンジンは、メッサーシュミットと同様、
液冷V型エンジンを逆さにして搭載していますので、
どうしても、形状において、メッサーとの類似が出てしまうのかもしれません。
(イタリアのマッキも、似ていますよね)
ただ、メッサーの脚の折りたたみ方式と、飛燕の折りたたみ方式は逆になっており、
また、機体下端のラジエーターの空気取り入れ口も、メッサーと違って、
大きく張り出しており、このあたりは、この機の独自性のようなものを、
感じさせるかと思います。

機首部分

こちらは機首部アップ。鋲の位置などがよくわかります。
また、主脚格納庫はライトアップされていました。

キャノピー部分

キャノピー部は、一部、最近になって改修されたところなどもあるようです。
しかし、機体の多くの部分は、当時作られたオリジナルのようです。

上方から

施設には階段であがる中二階部分もあって、
優美な機体を上部からも見学できるようになっています。

倒立V型エンジン

こちらが、飛燕に搭載されていた、液冷のV型エンジンです。
逆さに搭載(倒立)されるので、カムカバーがしたにきています。

それにしても、なぜ、このように、逆さ状態でエンジンを搭載したのか。
そのあたりを、館内にいた職員の方に聞いたのですが、
このように、逆さ状態にすることによって、エンジン上部に、
機銃の銃座を取り付けることができるという利点があり、
また、機体の下方からエンジンの整備ができる利点もあったといいます。
しかも、被弾にさいしても、メリットがあったといいます。

さらに、張り出してしまうカムカバー部分がしたにくることで、
コクピットからの視界を確保するという利点、
加えて、排気管がしたにくるため、仮にオイルなどが漏れても、
キャノピーを汚す可能性が低くなるという利点までもあったといいます。

そうした点を考えると、倒立によるエンジン搭載は、いいことづくめのように、
思われていまします。

ただ、液冷エンジンは、当時の日本の技術力では、生産も整備も、
難しかったようで、機体の稼働率という面において、思惑通りにはいかなかったところも、
あったようです。

また、エンジンの生産は思うようにはかどらず、一方で機体だけは、
計画通り生産が進んでしまい、一部の飛燕の機体は、
空冷エンジンを積んだ『五式戦』として、生産されることになりました。

ちなみに、この飛燕を含む戦闘機には、
木製の増槽(予備燃料タンク)が搭載されていたといいますが、
その生産の多くは、私の出身地である、飛騨高山で多くが生産されたといいます。
実際、私も、高山で木製の増槽を作っていたという話は、子供の頃に聞いたことがあり、
木工製品の製造を得意とした高山らしいエピソードといれるかもしれません。

その増槽の実物の展示もされていたのですが、
職員の方とのお話に夢中になってしまって、撮影するのを忘れてしまいました。
残念です。

計器板

また、こうした計器類の展示や、飛燕に付随する展示も多くなされていました。

水上機

次の展示ブースは、大型の格納庫となっており、たくさんの機体が集められていました。
こちらは、大型の水上機のようですが、名称はわかりません。
こんな機体があったんですね。

F-104

こちらは、最後の有人戦闘機と呼ばれた、ロッキードF-104です。
すでに退役して久しい戦闘機ですが、いま見ても、直線的なフォルムはかっこいいですね。
また、機体のあちこちに書かれた注意書きも、メカ感をより高めているような、
そんな気がします。

T-2

こちらは、自衛隊の練習機T-2だったかな。
以前、浜松の航空自衛隊の基地で、コクピットに乗せてもらった機体かと思います。

飛鳥

STOL実験機の飛鳥の実機も展示してありました。
多大な研究費を投じて開発されたにもかかわらず、STOL機の需要がなくなり、
実験機の一機のみの生産で終わったという機体です。

P-51用エンジン

こちらは、アメリカ軍のP-51ムスタングなどに搭載されたという、
液冷エンジンです。こちらは、飛燕と違って、倒立にはされず、
カムカバーが上部にきています。
なんとなく、このほうが、見ていて安心しますね。

宇宙服

この時期は、宇宙関係の展示も広くされていました。
小惑星探査機のはやぶさや、宇宙実験室の展示などもありました。

というわけで、館内の見学を一通り終えて、そのあとは、屋外の展示物を、
見てみることにしました。

YS-11

こちらは、YS-11です。
ただ、屋外展示ですので、機体のコンディションは、
あまりよいものとは言えないようでした。

こうして、雨の日曜は、飛燕をはじめとする航空機見学で終わりました。
なかなかに有意義な一日でした。



コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking

島左近陣跡

一昨年、去年と、岐阜県関ヶ原町で行われる、関ヶ原合戦祭に行ってきましたが、
今年も、いつものように、出陣してみることにしました。
もっとも、過去に二回も行き、各武将の陣も回っていますので、
(といっても、まだ南宮山の、毛利秀元、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、吉川元春、
の各陣には、いまに至るも、まだ行ってないままなのですが……)
さすがの古戦場好きの私でも、もう、今年は遠慮しておこうかな、と、
当初は思っていました。

ところが今年は、この関ヶ原合戦祭が、10月21日(日曜)に行われるとのことで、
それならばぜひ、行ってみなくては、考えを改めました。
というのも、関ヶ原の合戦が行われたのは、慶長五年の九月十五日で、
これを今の暦に直すと、西暦1600年10月21日になるはずです。
ということは、今年の関ヶ原合戦祭の日は、まさに、関ヶ原の戦いがあったその日であり、
この戦場でただひとり腹を召した大谷吉継公にとっては、418年目の命日ということに、
あたるわけです。

となれば、気分も盛り上がるかも、ということで、
10月21日、私も、いざ、出陣することにしました。
といっても、午前中は野暮用などをしていて、関ヶ原に着いたのはお昼近く。
ちょっと遅がけの出陣となりましたが、それでも、
意を決して、各陣を回ってみることにします。

そのまえに、まずは陣場野そばに出ているお店で、例年のように、勝鬨カレーを食べます。
ちなみにこのとき、ひとりで屋外に座ってカレーを食べていると、
若い女の子が「いっしょに座ってもいいですか」といってきたので、
「ええっ、どうぞどうぞ」といったのですが、単に、食事する席が無いだけでした。
オジサン、ひとりで舞い上がってしましました。

そのあとは、さっそく各地を回ってみます。

井伊直政陣跡

というわけで、まず最初に行ったのが、井伊直政と松平忠吉の陣です。

関ヶ原合戦のさいの東軍の先鋒は、福島正則と決まっていたようですが、
徳川方としては、福島のような豊臣恩顧の武将に、先鋒で手柄を立てられることを、
できれば避けたいと考えていました。
というのも、福島正則は、石田三成憎しの感情で東軍に与していましたが、
亡き太閤の息子、豊臣秀頼への忠誠心は、旺盛なものがありましたし、
同時に、このとき、徳川方の主力である徳川秀忠率いる軍が、
関ヶ原の予定戦場に到着できず、
徳川家康は、豊臣恩顧の武将ばかりを率いて戦うという、番狂わせも生じていました。
このまま福島正則が手柄を立ててしまうと、戦後世界における自らの権力掌握について、
徳川方は、思惑と違う展開を強いられるかもしれなかったのです。

そのあたりの事情をわかりつつ、うまく対応したのが井伊直政です。
井伊直政は、後見という立場で預かっていた徳川家康の四男、松平忠吉を伴って、
戦場の見物と称して、朝霧のなか、
福島正則の陣に迷い込んで入り込むかたちにとりながら、
成り行きのような展開を装って、先陣を切ることに成功しました。

抜け駆けによる先鋒破りは唾棄すべき行為とであったといいますが、
直政は、この成り行きの展開を装うことで、福島正則の逆鱗にも触れず、同時に、
先鋒の武勲を立てるという、きわどい政治的行動を成功させたといいます。

ちなみに、この陣跡のすぐそばには、討ち取られた将兵の首塚があります。
物見遊山で戦場を回るわけですから、礼儀として、亡き将兵の獅子奮迅の働きに敬意を表し、
お参りをさせていただきました。

というわけで、その後は、陣馬野を経由し
途中、田中吉政の陣跡などにも寄りつつ、
石田三成陣跡である笹尾山へと向かいました。

笹尾山ではイベントの真っ最中。
コスプレした各武将隊が、旗指物のまえで、槍や太刀をかまえ、ポーズを決めていました。

石田三成隊

こちらは、石田三成隊です。
石田三成を演じている人は、おそらく、去年と同じ人かと思います。

大谷吉継隊

大谷吉継隊は、いちばん人気があるようでした。
大谷吉継は、関ヶ原合戦のさい、重い病のため、たちあがることもままならず、
輿のうえで采配を振るったといいますが、こうして、堂々と立ち上がる吉継公は、
いかにもかっこいいです。白い頭巾がかっこいいです。

小早川秀秋隊

この鎌の旗指物は、小早川秀秋隊ですね。
関ヶ原では、大いなる裏切り者として、名を馳せていますが、
そこがダークヒーロー的な感じなのか、意外と人気があるようでした。
まあ、良くも悪くも、関ヶ原合戦のキーマンですから……。

笹尾山台上

こちらは笹尾山台上です。
418年前の同じ日、この大地のうえには、鬨の声が、響き渡っていたのでしょうね。
そう考えると、なんだか不思議な気がします。

笹尾山では、その後も武将隊によるパフォーマンスが行われていましたが、
私はひとり、各陣を回るため、この場をあとにしました。

島津義弘陣跡

次に行ったのは、薩摩の島津義弘の陣跡です。
一時は徳川方に与しようと思っていたのに、伏見城の鳥居元忠から拒絶されたりして、
成り行き的に西軍に加わることになった薩摩勢ですが、
石田三成からの冷たい処遇などもあり、合戦当日には、
陣を構えながらも積極的に戦うことなく、いよいよ西軍が総崩れになると、
薩摩勢は撤退を決意します。

が、撤退するといっても、周囲は敵だらけ。
とはいえ、伊勢街道に出て薩摩まで逃げ帰りたい島津義弘は、
なんと、徳川方に向かって、前進して戦って撤退する、という、
奇策に打って出ます。
薩摩勢、すごい。

宇喜多秀家陣跡

そのあと行ってみたのは、宇喜多秀家の陣跡です。
福島正則隊を大いに叩いた宇喜多勢ですが、小早川の裏切りで潮目が変わってしまった戦を、
ふたたび反転させることはできませんでした。

大谷吉継墓

そして、次に行ったのは、自分としては、今回の目玉といっていい、大谷吉継の墓参りです。
これまで、各陣を巡ってきましたが、小西行長の陣跡に人がいたのみで、
ほかの場所では、誰ひとりいませんでした。

ですが、大谷吉継のお墓のある場所には、次から次へと人が現れ、手を合わせていました。
吉継公の人気の高さを、ふと思い知る気がしました。
というわけで、私も、しっかりとお参りをさせていただきました。

ちなみに、お墓に不用意にカメラを向けるのは、不謹慎というか、
なんとなくためらわましたので、墓の写真はありません。すみません。

藤堂高虎陣跡

こちらは、藤堂高虎と京極高知の陣跡です。
前回はこなかったので、ひさしぶりの訪問です。
ちなみにこちらは、学校の敷地内にあります。

福島正則陣跡

福島正則の陣跡にも寄ってみました。
なにしろ、藤堂勢の陣跡から近いですし。

松尾山へ

そして、今回もいきます、松尾山の小早川秀秋の陣跡へ。
ここからはきつ〜〜い道のりになりますが、やっぱり、
関ヶ原にきたからには、いっておかないと。

坂道を登る

ひたすら山道を登ります。
このあたりはまだ傾斜もなだらかですが、終盤になると、
階段状になった道もあって、きついです。

松尾山小早川秀秋陣跡

でも、ヘロヘロになりながら、たどり着きました。
もちろん、誰もいません。
小早川秀秋の陣跡、独り占めです。

そのあとも、延々と、延々と歩いて、
薩摩勢が最後の決戦をしたという、鳥頭坂に向かいます。
これが長かった。

島津豊久墓

こちらも、なんとかたどり着きました。

徳川勢に向かって前進して撤退する道を選んだ島津義弘ですが、
当然のことながら、かなりの苦戦をしいられました。
薩摩勢は、要所要所に兵がとどまり、その兵が命を捨てる覚悟で、
追っ手と戦っているあいだに、本隊が逃げる、という戦法を、何度もとったといいます。
この戦法はステガマリと呼ばたといいますが、
実際に島津義弘は薩摩まで逃げ帰っていますので、
十分な効果を上げた戦法といえるかもしれません。
ただ、その犠牲は甚だしく、ともに戦っていた島津豊久は、
この地で討ち死にしたともいわれています。

ちなみに、このすぐそばに、立派な豊久公の墓碑があります。

その後は、関ヶ原の駅に向かいつつ、途中、本多忠勝の陣跡に寄ったりしてきました。

結局、今年も、ものすごく歩きました。
その結果、またしても、足の爪をひとつ剥がしてしまいました。
でも、こういうことでもない限り、長距離を歩く機会がありません。

健康のためにも、関ヶ原ハードウォーキングは、続けたほうがいいのかもしれません。



コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking
三千院庭園

10月になってから、比較的おだやかな天候が続いているかと思います。
それにしても、気がつけばすでに今月も半ば過ぎ……。
なんだかあっという間という感じですね。
さて、そんなおだやかな秋の日に、京都の大原まで行ってみました。

行ってみたのは先週末の日曜です。
このときの出動車はヨメのプジョーでしたが、じつはそのまえの週にも、
MINIで京都大原方面まで行こうとしていました。
が、この日は、出発の時間がとても遅くなってしまい、結局、
琵琶湖西岸の朽木のあたりまで行けませんでした。

しかも、朽木で、信長の隠れ岩なる場所に行ってみようとしたのですが、
クルマを停められる場所をみつけられず、
(看板のある路肩は、段差が激しくて、MINIだと入れない気がしたので)
結局、素通りしてしまうことに…。

この信長の隠れ岩なるものですが……。
元亀元年、織田信長が、越前の朝倉氏討伐のため、敦賀の金ヶ崎城を攻めましたが、
そのさい、信長と同盟関係にあった近江浅井氏が朝倉方に寝返り、
朝倉軍とともに信長を包囲しようとしました。

優勢に戦いを進めていた信長でしたが、浅井の寝返りで形勢は逆転。
信長は同盟軍の徳川家康や自軍を取り残し、京へと逃げかえろうとします。
そのさい、浅井の支配地域を避け、琵琶湖西岸の急峻な山道を通ったといいます。

信長の隠れ岩とは、そのさいに、追っ手をかわすため、
信長が身を潜めた場所のようです。

朽木資料館

そのあと、朽木の資料館へと行ってみたのですが、
こちらはなんと、予約しないと開館してくれないそうです。
そんなことは当然ながら知りませんでしたので、建物のまえで、
途方に暮れてしまいました。

ただ、この資料館のある場所は、朽木陣屋跡と呼ばれる公園となっており、
お散歩するには、ちょうどよい場所になっていました。
(ちょっと草ぼうほうで荒れた感じでしたが)

朽木にて

とにもかくにも、MINIは琵琶湖東岸の道を軽快に走り抜け、
好天のなか、楽しいドライブになりましたが、さすがに、
この日は、京都まで足を延ばすことはできませんでした。

というわけでその次の週、今度はヨメのプジョーで、
再度、琵琶湖西岸を通って京都に至るルートを辿ってみることにしました。
この日は、前週の日曜ほどではありませんでしたが、まあまあのお天気で、
しかも、渋滞などにも出くわすことなく、すんなりと、
京都の大原に到着することができました。

三千院駐車場

なにしろ、大原といえば、三千院などの有名寺院があり、
もしかすると、駐車場にクルマを止めるのに、
かなり難儀するのではないかと思いましたが、
意外と簡単に、しかも三千院に最も近い場所に、駐車することができました。

というわけで、さっそく三千院に行ってみます。
私にとっては、人生初の三千院見学です。

坂道を登って

駐車場から三千院に行くには、この細い坂道を上へ上へと登っていきます。
観光客は多くいましたが、ひどく混み合うこともなく、すいすいと、
歩くことができました。
ただ、これからは紅葉シーズンとなるため、このような、
快適な状態ではなく、大きく混雑するのではないかと思います。

紅葉が本格的になったら、また、この地を訪れたいとは思いますが、
あまりに混雑するようなら、ちょっと難しいかも…。

三千院

こちらが、三千院の山門です。
というわけで、拝観料700円を払って、いざ、三千院見学です。
といっても、院内の撮影は許されておらず、庭園や、一部の許可ポイントしか、
撮影できませんでしたが‥。

外に出て

院内の見学を終えると、庭園を通り抜け、次は往生極楽院を参拝し、
ついで、わらべ地蔵を見にいきました。

わらべ地蔵

こちらがわらべ地蔵です。
かわいいお地蔵さんがいつくも並んでいました。
カメラ女子のみなさんが、競って写真を撮っていました。

庭園で撮影

それにしても、この苔むした感じの庭園は、心が落ち着きます。
いい雰囲気ですね。
(ちなみにこちらは、わらべ地蔵ではありません)

というわけで、三千院をあとにして、今度は、
寂光院まで歩いて行ってみることにしました。
来た道を戻ります。

2018_10_14h.jpg

とりあえず、三千院そばのお店で買ったお土産を、
駐車場に止めてあるプジョーに置き、ふたたび歩いて出発です。
この駐車場から寂光院までは、少しばかり距離がありますが、
充分に徒歩圏内です。

田舎らしい風景

このあたりは、ほんとうに田舎で、川の水もとてもきれいです。
空は少し雲がかかることもありましたが、しだいに晴れてきました。

入館料を払って

こちらが寂光院の入り口です。
石段がいい感じですね。拝観料は600円でした。

寂光院は、平清盛の娘で、高倉天皇の妃であった建礼門院徳子が、
源平合戦の後、隠棲した寺ということで知られています。
(建礼門院徳子といえば、大河ドラマ『平清盛』で、
二階堂ふみさんが演じられていたかと思います)

清盛の娘ということで、この世の絶頂を味わい、
しかし、源平合戦では、敗戦の憂き目にさらされ、入水して自害しようとしたものの、
不本意ながら源氏側に助けられ、子である安徳天皇を失い、
失意のなか京に連行され、ここ寂光院で晩年を暮らしたといいます。
この世の喜び、悲しみ、すべてを経験した女性と言われています。

こちらは、三千院よりもさらに観光客が少なく、そのぶん、
静かな雰囲気がより味わえました。

ちなみに、三千院は、平成12年に、何者かの放火により焼失したといいます。
私はその事実を知らずに、ここにきて初めて、本堂が再建されたものと知りました。
犯人はいまだ捕まっていないということですが、ずいぶんと罰当たりな、
かつ、歴史的遺物に対する冒涜行為をしたものです。
建礼門院徳子の像も、このとき、焼けてしまったといいます。
徳子も草葉の陰からさぞ悲しんだことでしょう。

南蛮灯篭

こちらは、南蛮灯篭と称される金属製の灯篭です。
立て札には伏見城から持って来たものだとか……。
伏見城といえば、関ヶ原合戦の前に、西軍に包囲され、
徳川方の重臣鳥居元忠の奮戦虚しく、落城した城ですね。

建礼門院徳子墓陵へ

こちらは、建礼門院徳子のお墓に通じる石段です。
しっかりとお参りをしてきました。

というわけで、秋の一日、京都大原を思いっきり堪能してきました。
できれば、また、このあたりを散策したいものです。
(でも、やっぱり、混雑する紅葉の時期は避けたほうがいいかも)



コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking

オール讀物10月号

さて、九月ももう終わりということで、
早いもので、今年もあと三ヶ月ほどとなってしましました。
なんだか今年もあっという間で、きっと、気がついたらもう年末、
などということになってしまうのではと、ちょっと心配したりしています。
とはいえ、一年を振り返るのは、さすがにまだ早い…。
2018年はまだ三ヶ月も残されているのだと思いながら、
なんとか、いまという時間を、最大限、有意義に過ごしたいと思っています。
(といいつつ、ムダに時間を浪費することも多いんですが)

さて、今回は、今年の六月二十日に応募締め切りとなった、
小説公募『オール讀物新人賞』について、少し書いてみたいと思います。

娯楽性の強い文芸雑誌『オール讀物』が主催する公募小説といえば、
昔は、このオール讀物新人賞のほかに、もうひとつ、
オール讀物推理小説新人賞という賞がありました。

このオール讀物推理小説新人賞には、私も、かつて、
(といっても、かなり昔のことで、三十代の半ばくらいだったかと思いますが)
何度か挑戦をしたことがあり、そのさいには、二次選考通過まで、
駒を進めることができたかと記憶しています。

もっともその後、仕事が忙しくなったりと、いろいろとあって、
すっかり、小説の執筆から縁遠くなってしまいましたが、
三年前の岐阜県文芸祭で大賞をいただいてから、またふたたび、
文章を書く楽しさに目覚め、仕事に追われながらも、少しづつ、
書き始めるようになりました。

というわけで、今年、このオール讀物新人賞をターゲットにして、
小説を書き、応募をしてみようと思い立ったわけなのですが、
オール讀物新人賞の応募総数は、昨今、2,000を超えるとのことで、
かつて存在したオール讀物推理小説新人賞が、
応募総数500~600くらいであったことを思うと、
オール讀物新人賞は、極めて、競争率の高い公募賞といっていいと思います。

しかし、エンターテインメント系の短編小説という部門において、
(規定は原稿用紙50枚から100枚となっています)
私の思いつく限り、このオール讀物新人賞がもっとも知名度があるように思います。
ですので、極めて狭き門とはいえ、やはり、この公募賞への応募に、
大いに魅力を感じ、一念発起したわけです。

今回の小説では、岐阜文芸祭に応募した作品の設定などを流用しました。
というのも、岐阜文芸祭の規定は原稿用紙60枚と比較的短めとなっており、
そのために、説明が過多となってしまい、思うようなかたちで書き進めることができず、
大いに心残りだったからです。
ですが、文章の流用はまったくなく、すべて一から書き直し、
終盤部分では話の筋に重複はあるものの、別の作品になっています。

取材ノート

また、今回は資料の調べ込みにも、多くの労力をつぎ込みました。
それらは要点をノートに記してまとめましたが、
こうして調べた事柄をすべて作品内に生かすことができたかといえば、
決してそうではなく、その多くは切り捨てざるを得ないことになりました。
調べたことを生かせないのは残念ですが、そのために、
退屈な説明の連続になってしまっては、元も子もないのではないかと思います。
(ちなみに私は、プロットの構築も資料のメモも、すべて手書きでやっています)

いずれにしろ、充分な下ごしらえをして書き始めたわけですが、
どうしても、原稿用紙100枚をわずかに超えてしまい、そこから、
削りつつ、また加筆、ということを繰り返していきました。

ところが、この過程で、致命的なミスをしてしまい、
ストーリーの辻褄が、一部、合わないところが出てきてしまいました。
なのに、そんな重要なことに気づかず、結局、
応募作品を郵送した後になって、あらためて自分の作品を俯瞰して、
愕然としたという次第です。

推敲をしていると、つい描写の的確さやセリフの言い回しばかりに気を取られて、
近視眼的な状態になってしまい『木を見て森を見ない』状態に陥ってしまう、
ということなのでしょうか……。
あるいは、一番最初のプロット構築の段階で、
充分な目配り、吟味が足りなかったせいかもしれません。

そんなわけで、こりゃダメだ、と、その後はすっかり意気消沈してしまし、
書く気力も少々萎えてしまったわけですが…。

オール讀物新人賞中間発表

とはいいつつも、選考の中間発表が掲載されるオール読み物10月号が
22日に発売されると、なんとも気になってしまい…。
そんなものを見に行っても、がっかりするだけ、と、なかなか、
本屋さんにも行けませんでした。

しかし、もやもやとした気持ちはもうどうしようないわけで、
先日、本屋さんの店頭へと、結局、行ってみることにしました。

通過者氏名

店頭で平積みになったオール讀物を手に取り、
掲載ページを恐る恐る開くと、応募総数は、なんと2,170だったそうです。
ネットでの作品応募も可能となったためか、応募数は去年を200以上もうわまわっています。
そのうちの予選通過者が112ということなので、予選を突破できるものは、
5パーセント程度ということになるでしょうか。
ますますこりゃダメだ感が強くなったわけですが……。

名前がありました

な……、なんと、私の名前と作品名が、載っているではないですか!!。
ええっっ、ほんとうですか??。
というわけで、何度も見直したのですが、名前も作品名も、たしかに私のものです。

途端に意気があがりましたが、私の名は次の選考まで進める太字では、
印字されていませんでした。
予選通過112のうちには入りましたが、そこで終わりです。

しかし、辻褄の合わないところがある欠陥小説ですから、
次に進めるわけはないのです。
そんな作品でありながら、予選通過できたことは、このうえない喜びです。
が、次に駒を進めることができなかったことは、やはりたいへん残念です。

ただ、15年以上も出版社の公募から遠ざかっていたので、
この結果は、むしろ歓迎すべきことかもしれませんし、また、
学んだことも多かったのではないかと思います。

いずれにしても、私にとってのゲームはこれで終わりです。
来月には、新人賞の受賞者が誌面にて発表されます。
その発表を、一読者として、楽しみにしたいと思います。

また、これに懲りず、次回も、応募すべきターゲットを絞って、
地道に書いていきたいと思います。



コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking