講演会会場

先週の土曜 (9月7日)、岐阜市の西隣にある瑞穂市という街で
朝日大学公開講座2019 2020放送予定大河ドラマ『麒麟がくる - 明智光秀を学ぶ』
と題された、講演会が行われました。
場所は、瑞穂市の瑞穂市総合センターで、講師を勤めるのは、
テレビなどでおなじみの、東京大学史料編纂所教授の本郷和人先生です。
本郷先生は、歴史系のバラエティ番組にも広く出演しており、
また、NHK BSの『偉人たちの健康診断』では司会も勤めていますので、
歴史に興味がない方でも、お顔を拝見したことがあるのではないかと思います。
(歴史の先生というと、この本郷先生をはじめ、磯田先生、小和田先生、
そして城郭研究家の千田先生が有名かなと思います)

この公開講座は、受講は無料ですが、会場のキャパシティの関係で、
入場希望者は事前に申し込みが必要で、受講者にはハガキで通知するとのことでした。
申し込みがちょっと遅かったので、受講できるかどうか、ちょっと不安だったのですが、
八月末、無事、受講者通知が届き、晴れて会場に入れることとなりました。
(ただ、300人余りが抽選に漏れたそうです)

というわけで、7日当日、ヨメに会場まで送ってもらいましたが、
開演30分前にも関わらず、会場はすでに人でいっぱい。
一階の席はもうほとんどが埋まっている状態でした。

というわけで、講座資料をいただいたあと、仕方なく二階へ。
二階席があるのならさほど困らないのでは、と思われるかもしれませんが、
上階の席というのは、ステージからちょっと距離があるんですよね。

会場風景

でもまあ、仕方がないのでこちらでガマンします。
……と思っていた矢先、それまで封鎖されていた、
同じ二階にある左右の席が解放されたので、急遽、そちらに移ることにしました。

会場内移動

この席は、桟敷席のような状態で、なかなかに見晴らしがいいです。
ただ、講演者が手前の側 (向かって左側) に立つと、あまり見えないんですが……。
いずれにしても、席が一列しかなく、前後に人がいないので、けっこう楽な感じですね。

そうこうするうちに、開演時間となり、まずは朝日大学の学長が挨拶に立ちました。
講演が始まると、撮影は禁止となっていますので、
この先は、画像はありません。すみません。
学長の挨拶は、簡潔ながらもユーモアを交えていて、とてもよかったです。

そのあと、いよいよ本郷先生が登壇し、講演が始まりました。
(ただ、席の場所が影響したのか、ちょっと音声が聞き取りづらい部分がありました)
とはいえ先生は、壇上に立っても、すぐ本題に入るわけではなく、
まずはツカミにあたる小話をして、会場の笑いを大いにとって、
充分に場を和ませたところで、講義に入りました。
(さすが先生、お話することにとても慣れている感じです)

先生は、まず『歴史的事実とフィックションとは分けて考える必要がある」と、
おっしゃっていました。
明智光秀は、誰もが知るたいへんな有名人ですが、
じつは、多くの部分がまだわかっていないとのことです。
年齢ひとつをとっても、正確なところは、いまだに不明だそうです。
もちろん、本能寺の変をなぜ起こしたか、などということは、わかるわけがありません。

ただ、先生のおっしゃるお話のなかで、とくに興味深かったのは、
信長と光秀の関係が、ある女性を介することで良好な状態を保っていた、というくだりです。
この女性は、当時の文献によると『御ツマキ』と称されていて、
光秀の義理の妹と推察されています。
(光秀の正室である妻木煕子の妹か……)
同時に、この御ツマキは、信長の側室ではなかったかというのです。

この『ふたりの実力者がひとりの女性を調整役として良好な関係を維持する』というのは、
平清盛と後白河法皇の関係を彷彿とさせます。
平清盛は、後白河法皇と昵懇で、後白河の庇護を受けるかたちで、位人臣を極めます。
後白河は平氏一門の滋子を女御としており、この滋子を調整役とすることで、
清盛は、後白河との良好な関係を維持していたといいます。

信長と光秀も、おそらくこの清盛と後白河のように、
御ツマキを調整役として、良好な関係を築いていたのではないか……、
そう考えられなくもないというのです。

ところが、御ツマキは、天正九年八月に亡くなります。
天正九年といえば、本能寺の変が起こる前年です。

滋子が亡くなったことで、清盛と後白河の関係が悪化したように、
(このあたりのいきさつは、大河ドラマ『平清盛』でも描かれていましたが)
御ツマキが亡くなることで、信長と光秀の関係も、
しだいにぎくしゃくしていったのではないか、というのです。

もしかすると、来年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、
このあたりのいきさつが、描かれるのかもしれません。

また、明智光秀は極めて優秀な人物であったと、本郷先生は考えているようです。
なにしろ、丹波をわずか四年で攻略した、という一点からも、
その優秀さは明らかだといいます。

武田信玄は信濃を攻略するのにかなりの時間を要しました。
なにしろ、この攻略の過程で、信玄は、北の上杉謙信を刺激することとなってしまい、
結局、謙信とは十年にも渡って戦うこととなりました。
戦の神様のように称される信玄ですが、そんな信玄であっても、
信濃攻略は、決して容易ではなかったわけです。
ゆえに、光秀が行なった『四年で丹波攻略』という功績は、
光秀の並外れた力量を示していると言わざるを得ないというのです。

資料冊子

本郷先生の講演の後は、巽昌子先生による、
古文書からみる分国支配という講演が行われました。
こちらは、とくに光秀とは関係なく、武田信玄の甲州法度や、
今川家の今川仮名目録などについて、お話しされていました。

その後は、高校生による作文コンクールの表彰などが行われ、
特に優秀と判断された三つの作文が、作者本人によって朗読されました。
私は、高校生の頃は、歴史にまるで興味がなかったですから、
ただただ感心するばかりでした。

受講証明書

ちなみに、この講演の資料の中に、受講修了証が入っていました。
しかも名前入りです。
こんなの、もらえるんですね。

というわけで、土曜の午後を有意義に過ごすことができました。
今後も、同様の講演会や催しがあれば、また、出かけてみたいと思っています。



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美濃金山城

前回、岐阜県東濃地方にある山城『苗木城』に行ったことを紹介しましたが、
今回も、同じ岐阜県東濃地方にある山城について、少し書いてみたいと思います。
2回目の今回、行ってみた城は、美濃金山城という山城です。
この城は、信長に仕えた『森長可』の居城で、現在の岐阜県可児市に、
その跡が残っているといいます。
おりしもいま、これら山城で、スタンプラリーをやっており、先日行った苗木城で、
スタンプラリー用の用紙をもらってきたので、今回、
新たなスタンプを入手するためにも、この美濃金山城に行ってみることにしました。

もっとも、とてもアップが遅い当ブログですので、じつは、
美濃金山城に行ったのは、一週間以上前の、今月17日のことになります。
(なかなか迅速なアップができず、反省しています。すみません)
この日は、天候もよく、前回の苗木城同様、最高のお出かけ日和となりました。
目指す美濃金山城は、ここ岐阜市からは、方向としては、
苗木城とほぼ同じ、東になります。

ただ、距離としては、苗木城よりもずっと近く、
まさに、ちょっとお出かけ……、近場へのドライブという感じでした。
もっとも、出発が昼過ぎと遅かったので、
このあたりが、ちょうどよかった、といえるかもしれません。

ところが、道がよくわからず、結局、いくらか大回りをすることとなってしまい、
予定していた時間よりも、少し多めにかかってしまいました。
同じ岐阜県といえども、美濃金山城がある可児市のあたりは、地理がよくわからず、
なんだか無駄に走ってしまったようです。

交流館

と、いろいろありましたが、無事、美濃金山城の周辺地域へと到着。
まず最初に行ってみたのは、可児市観光交流館です。
こちらには、無料で入ることができます。

具足がいっぱい

室内には、具足を身につけた武将の姿が……。
大きな施設ではないですが、なかには、お客さんも多数いました。

この施設の隣には、可児市戦国山城ミュージアムという施設があります。
こちらは、入場料が必要となります。
というわけで、こちらにもさっそく入ってみることにしました。

たいへんお恥ずかしい話で恐縮ですが、美濃金山城というのは、
信長に仕えた、あの森長可の居城だったんですね。ぜんぜん知りませんでした。
森長可といえばビッグネームですよね。
信長に仕えた、というだけでなく、小牧長久手の戦いでは、
秀吉に与し、最後には、討ち取られたのではなかったかと思います。
たしか、大河ドラマ『真田丸』でも、本能寺の変のあと、
滝川一益などと同様、信濃で足止めされてしまう、森長可の姿が、
描かれていたように思います。

美濃金山城ジオラマ

ちなみにこちらが、館内にある美濃金山城のジオラマ模型です。
苗木城の資料館にも同様のものがありましたが、やっぱり、ジオラマは、
みていて楽しいですね。
というか、ジオラマ、作りたい……。

森蘭丸具足

そして、こちらが、信長に近習として仕えた美少年、森蘭丸の具足です。
この兜とか、みたことがあるんですが、森蘭丸のものだとは、
いままで、知りませんでした。ああ、不勉強。

そのほかにも、この施設には、鉄道にまつわる展示などもされていました。
歴史マニアだけでなく、鉄道マニアも楽しめる施設かと思います。

というわけで、ひととおり施設を見学したあと、いよいよ、
美濃金山城に登城してみることにしました。

絶好の好天

まず、金山城登山客のための駐車場に、プジョーを移動させ、そこから、
歩いて向かうことにしましたが、このとき、どうせ、道を歩けば、
案内看板などがあって、城の場所はわかるだろう、
と、たかをくくり、ガイドマップをクルマのなかに置いて行くことにしました。
そしてまずは、案内板にしたがって、米蔵跡へと進みます。

年貢米を収めた蔵跡

こちらがその米蔵跡です。
城があった当時、ここには、年貢米が保管されていたといいます。
残る石垣はかなり立派で、米蔵はとても規模の大きなものだったと推察できます。
また、この場所は、明治から戦後の時期まで、製氷池として使われていたそうです。
そのことからも、この場所は、意外と低温だったようです。

さみしい看板

そして、米蔵を過ぎると、このうらじろの径という看板が現れるのですが……。
あるのはこの看板のみで、どこにも、天守跡、とか、
美濃金山城、といった表記がありません。
しかも、なんだかさみしい雰囲気ですし、さっきまで戦国山城ミュージアムにいた、
ほかのお客さんの姿も見えず、あたりには、だれもいません。

この道でほんとうにあっているのか、不安になりましたが、
ガイドマップはクルマのなかに置いてきてしまいましたし、とりあえず、
このうらじろの径を、登ってみることにしました。

山道へ

まあ、道自体は、適度な幅もあり、それほど通行に支障のあるものではありません。
ただ、あたりは鬱蒼とした森の中で、なんとなく薄暗く、しかも、
看板はなく、登るにつれ、不安感が増してきました。
でも、気を取り直して進みます。
ところが、歩けども歩けども、なかなか着きません。
これならば、もっと山城然としていた、苗木城のほうが、はるかに登城が楽です。

やっとで看板が

そうこうするうちに、やっと、森の中の広場のような場所に行き当たりました。
ここで道が分かれており、ようやくにして、金山城跡という表記に行き当たりました。

階段状の道

その矢印看板の先は、延々と伸びる階段状の道のようです。
でも、間違いない道だと思うと、士気も上がり、木材を組んだ道を登り始めたのですが……。

これが、行けども行けども着きません。
もう、どこまで登るんだろう、という感じです。
ヨメは無口になり、どんどん遅れ気味になっていきます。
それでも、ひたすらに登り続けました。
ちなみにこの道は、途中あった看板によると、杉ヶ洞搦手道というそうです。

やっと到着

こうして、ようやくにして、金山城跡に着きました。
ほんとうにここまで長かった。
石垣は、苗木城にあった美しい石組みではありませんが、このほうが、
戦国の山城の気分がでますよね。

抜群の眺め

しかも、この場所からの眺めは最高です。
こうした、下界の景色を楽しむことができるのも、山城の醍醐味です。

美濃金山城は、天文六年に、斎藤道三の猶子であった、
斎藤正義という人物の名で、築城されたといいます。
(もっと古いものでは、と思っていました)

ちなみに、この場所には、見物客の姿がちらほらとあります。
とはいえ、うらじろの径から、杉ヶ洞搦手道では、人影は全くありませんでした。
いったいどういうことだろう、と思ったら……。

なんと、杉ヶ洞搦手道のちょうど反対側にも登山道があり、
そのすぐしたには、なんと、駐車場があるではないですか!。
ということは、こちらが、美濃金山城の、正式な登山ルートだったようです。

うらじろの径は、その名の通り、うらの道だったんですね。
それにしても、長くて苦しい道でした。
(でも、関ヶ原の松尾山登山道よりはマシですよ)

日露戦争戦没者の碑

ちなみに、駐車場に降りる道は、日露戦争の戦没者を祀る碑があったりしました。
なぜ、この場所に建てたんでしょうか。
いずれにしても、城とは別に、これも興味深いです。

破城の痕跡

また、こちらは、破城の痕跡と呼ばれる部分だということです。
一度築いた城を、故意に破壊して、新しい城が築かれることを防ぐことを、
破城というそうですが、こちらが、その破城のあった石垣のようです。

石垣自体は、野面積みのもので、こちらも、戦国時代のものではないかと、
思います。

こうして、いろいろありましたが、美濃金山城を満喫してきました。
山城は、ハイキング気分も味わえ、なかなかに楽しいものですね。



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苗木城

すでにもう、十日もまえのことになってしまいますが、
三連休の真ん中の日曜となった今月の10日、
岐阜県東濃地方にある『苗木城』へと行ってきました。
この城は、ネットなどの情報によると、
日本の山城ランキングで、1位になった、とのことで、
それならば、というわけで、今回、ちょっと足を運んでみることにしました。

もっとも、ここ岐阜市に拠点を移す前から、苗木城のあるあたりには、
過去に何度も行っており、苗木城への案内看板も、幾度となく見ているのですが、
そのときは、別の目的地があったということもあってか、
足を運んでみようと思うことがなく、今回、ついに決行と相成りました。

ここ岐阜市から、苗木城に向かうには、まず、国道21号をひたすら東に走り、
土岐市に入ったところで、今度は国道19号線に乗り換えて、さらに東へと向かいます。
中津川市に入ったところで、今度は、国道257号線に入り、北へと進路をとります。
木曽川を越えてしばらく走ると、道路の端に、苗木城への案内看板がでてきます。

今回の出動車は、ヨメのプジョーですが、
同じ岐阜県内ですので、距離もさほどではなく、
しかも、空は快晴で、気持ちのいいスムーズなドライブでした。

ただ、苗木城の駐車場に向かう道が、途中ちょっと狭く、
また駐車場手前の勾配もなかなかにきつく、けっこう難儀しました。
もし、MINIで来ていたら、車体下部を擦ったかも、と、怖気付きもしました。

プジョーでおでかけ

というわけで、なんとか無事に現地到着。
駐車場は、すでに満杯に近い状態でした。
おりしもこのとき、城へと向かう具足を身につけた人たちを発見!!。
どうやら今日は、なにかお祭りのような、イベントがあるのかしれません。

というわけで、さっそく、苗木城を目指して歩いてみることにしました。
私は、苗木城については、恥ずかしながら、まったく知識がないのですが、
このあたりは、天正の初期のころは、
織田と武田との最前線という状態ではなかったのでしょうか……。

山城の勇姿

というわけで、最初のビュースポットから、苗木城を見てみます。
もう、鉄壁の城塞という感じですね。しかも、石垣の保存状態もすばらしい。
山城ランキング1位というのも、大いにうなずける気がします。

苗木城への道

山城というからには、行くのもたいへんかと思われますが、
駐車場からは、さほど歩かずとも行くことができます。
難攻不落の城のわりには、楽に行くことができる、というのも、
なんともお手軽でいいですね。
実際、多くの見物客の方で、賑わってもいました。

○ ぎふの旅ガイド / 観光スポット 苗木城跡

実際に城のふもとに立つと、山城の雰囲気もありつつ、
なんだか、マチュピチュのような気配もあって、
ワクワク感が、さらに高まってきます。

天守への道

そして、いよいよ天守があったという山の頂へと登ります。
こちらがその道ですが、十分な道幅もあり、登城の難易度は高くありません。
ただ、なにぶんにも、山城ですから、場所によっては、
滑落、落下の危険性のあるところも、散見されます。
手すりなどの無粋なものは、極力排してあるようですので、
お出かけの際には、足元にくれぐれもご注意ください。

曲輪

道の途中からは、下方にある曲輪を見ることができます。
こうした曲輪はそこかしこにあり、礎石を見ることもできます。
土木機械のない時代、こうした山の上に、建築物を作ることは、
極めて大変な作業だったと思われます。

もう少しで天守

道はつづら折れになっており、登るにつれ、
なんだか、天へと向かっているような気持ちになります。
この城は、もともとあった巨石など、自然の地形を巧みに取り入れて、
作られたもののようです。
巨石は、いまもこうして残っており、おそらくは、
元亀天正の昔も、このままの姿だったのではと思われます。

すばらしい眺め

というわけで、頂上につくと、それはもう、胸のすくような眺めです。
天気もいいので、ほんとうに、すばらしい景観でした。
もう、最高です!。

最初に駐車場で見かけた、具足に身を固めた武将の方たちも、
ちょうどこの場所に集結していました。

天守部分にある櫓状構造物

天守のあった場所には、櫓のような格子状の木造建造物が設置されていました。
墨俣一夜城のような、ありもしないお城を復元するより、
このほうが、はるかに好感が持てますね。

ここで、観光ボランティアと思われる人に訊いてみたのですが、
武将の人たちは、趣味で武具を作って着用して楽しんでいる方たちとのことで、
とりたてて、この場でお祭りをやっているとか、そういうわけではなさそうでした。

というわけで、折を見て、武将の方のひとりに、声をかけてみました。
その方も、同じ岐阜県の方で、身につけている冑などは、
すべて手作りをしているということでした。
(清洲城にある信長の冑をもとに、自ら手作りしたといいます)

材料はアルミなどを用い、また、鎖帷子なども、すべて、手作りしたとのことで、
そのクオリティの高さに、たいへん驚いてしまいました。
近くでまじまじと見ても、破綻がありません。
こういう出で立ちで城にくると、また、気持ちも盛り上がるでしょうね。

記念撮影

というわけで、お話をうかがったあとに、記念撮影もしてもらいました。
(ほかにも、いろいろと撮影させていただきました。ありがとうございました)

マチュピチュのよう

こちらは、大矢倉という、三階建の矢倉のあとだそうです。
石垣の積み方がとても美しい。
戦国時代の石垣の積み方は、野面積みが一般的かと思いますので、
このような、精緻できれいな積み方ではなかったのではないかと思います。
もっと後の時代の、江戸時代に入ってから積まれたものかもしれません。
江戸時代、この地には、一万石ほどの苗木藩という小藩があったといいます。

というわけで、苗木城をさんざん歩いて散策し、満喫した後は、
ふもとにある、苗木遠山資料館に行ってみました。
JAF会員証を見せると、入館料を割引してもらえます。

資料館にある模型

こちらには、苗木城のかつての姿を偲ぶ、ジオラマが展示されています。
いま、歩いてきた城を、ジオラマで見るのは、とても興味深いです。
ああ、あのあたりは、昔、こうなっていたのか、と、身をもって知ることができます。
それにしても、山城って、楽しいですね。

というわけで、丸一日、苗木城を堪能してきました。
おりしもいま、山城スタンプラリーが行われているとのことで、
この翌週、今度は、美濃金山城に行ってきたのですが、その時の模様は、
また、次回、当ブログで、ご紹介したいと思います。
(ですので、今月は、山城特集みたいな感じになるかと思います)



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長命寺石段

早いもので、2019年の一月も終わろうとしています。
そんな一月最後の日曜日、ヨメのプジョーで、
近江の古刹である『長命寺』に、行ってみました。
このお寺、以前、MINIで琵琶湖畔をドライブしたとき、看板を見つけたのですが、
そのときはスルーしてしまい、その後も、何度も滋賀県にくることはあったものの、
行く機会がなく、今回、はじめて、参拝させていただくことになりました。

ここ岐阜市から長命寺に行くには、まず、西の関ヶ原方面へと向かって、
滋賀県へと入り、米原市から湖岸道路に入って、
そのまま、琵琶湖沿いに南進するかたちになります。
前日に冷え込みがありましたので、関ヶ原のあたりはやはり雪がありました。
新幹線も、関ヶ原に降る雪で悩まされたりすることもありますよね。

この日、天気予報では晴れだったのですが、実際には、
ときおり鈍色の雲が垂れ込む、あいにくの空模様。
しかも、わずかな時間でしたが、小雨もパラついたりして、ちょっと、
残念な感じでもありました。

じつはこのとき、目的地としていたのは、石山寺に行ってみようとしていたのですが、
距離的にちょっと遠いかな、という話になり、もっと近場の、
長命寺に目標を変更しました。
石山寺に行きたいのはやまやまでしたが、もともと長命寺にも行ってみたかったので、
まあ、これはこれでよかったかなと思っています。

というわけで、長命寺に到着したのですが、登り道には、
大型車の通行をさえぎるようなポールがたっていました。
おそらく、山道はとても細く、そのために、こうした措置がしてあるのだと思います。
さすがのヨメも、この先にプジョーを乗り入れる勇気がなかったようなので、
私がひとり、斥候として、坂道を徒歩で昇ってみることにしました。

さすがに細い道ですが、もともと飛騨高山に住んでいた私たちにとっては、
それほどの難所ではなかったかもしれません。
なにしろ、飛騨には、安房峠などといって、さらなる交通の難所がありますからね。
ちなみに、この間、写真を撮っていませんでした。
すみません。
でも、帰り道に写真を撮っておいたので、また、後ほど、ご紹介したいと思います。

というわけで、斥候として坂道を登り続ける私でしたが、
そんな私の帰りを待ちきれず、ヨメがプジョーで道を登ってきました。
途中で拾ってもらって、さらに坂を登って行ったのですが……。

長命寺駐車場

どうにか駐車場に到着。けっこう広かったです。
しかも、ほかにクルマの姿はまったくありません。

長い石段を登って

駐車場を奥に進むと、石段が。
じつはこの石段、ずっと下から続いていたようです。
登り口がしたにあったことを、このとき、初めて知りました。
こんなことなら、真剣に登り口を探したんですが。

もはやすでにクルマでここまであがってきてしまったので、
とりあえず、石段の途中からになりますが、登って行くことにしました。
ちなみにこの石段、したからだと800段を超えるそうで、
登るのは、なかなかにたいへんそうです。
でも、次回、こちらにくることがあったなら、ぜひ、この石段の全踏破をしたいところです。

さらに石段を登る

ようやくにして、長命寺到着。
急峻な山の斜面に立つお寺、ということで、うえに行けば、眺めも良さそうです。
それにしても、とてもいい雰囲気です。きてよかった!。

琵琶湖一望

さらに石段を登って、本堂へと行ってみます。
ここからは、琵琶湖が一望できました。
やっぱり、すばらしい眺めですね。

長命寺本堂

さっそく、本堂で参拝をさせていただきました。
また、本堂には、びんずるさまの像もあり、お身体を触らせていただきました。
(びんずるさまを見ると、長野の善光寺を思い出します)
渡り廊下を通って、三仏堂というお堂も参拝。
そのつぎに、護法権現社という社殿を参拝させていただきました。
(こちらは、神社になるのでしょうか)

建立はたしか永正だったでしょうか。
その後、永禄の時代に再建されたとのことでした。
信長の時代ですよね。
(ただ、寺の建立自体は、もっとずっと古いようです)

三重塔

こちらは三重塔です。
建立は慶長二年か、三年ごろだったかと思います。
秀吉が亡くなった頃ですよね。
そう思うと、極めて貴重な文化遺産、建築遺産かと思います。

というわけで、各所をしっかり参拝してきました。
(もっとも、奥のほうにあった神社は、足元が悪く、断念しました)

駐車場まで帰ってくると、どっとクルマが増えていました。

帰り道

ちなみにこちらは帰り道。
つづら折れの坂道を下っていきます。

こうして無事下山完了。
すぐそばには琵琶湖が広がり、曇っていた空も晴れ、
とても気持ちよかったです。

ほんとうの石段のはじまり

ちなみに、最初は気がつかなかったのですが、
八百八段の石段の入り口は、山のふもとの神社の横にありました。
最初に気がついていれば、この石段を登って、長命寺まで行ったのですが、
途中までクルマで行ってしまったことは、ちょっと残念でもありました。
次回は、この石段を最初から登ってみたいと思います。

琵琶湖

この日、お天気はいまひとつで、ときおり小雨もぱらつくことがあったのですが、
しだいに青空も垣間見えるようになり、下山してきた頃は、
なかなかの好天になっていました。
青空と湖、眺めていて気持ちいいです。

琵琶湖沿いを行く

帰りは琵琶湖畔をドライブ。
このあとは、ずっと好天が続くこととなりました。
琵琶湖は当然のことながら、淡水なので、車のボディにはやさしいですよね。
今度はまた、MINIできてみなくては。

こうして、一月の近江を堪能してきました。
ですが、次回こそ、石山寺にまで足を運んでみたいものです。



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島左近陣跡

一昨年、去年と、岐阜県関ヶ原町で行われる、関ヶ原合戦祭に行ってきましたが、
今年も、いつものように、出陣してみることにしました。
もっとも、過去に二回も行き、各武将の陣も回っていますので、
(といっても、まだ南宮山の、毛利秀元、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、吉川元春、
の各陣には、いまに至るも、まだ行ってないままなのですが……)
さすがの古戦場好きの私でも、もう、今年は遠慮しておこうかな、と、
当初は思っていました。

ところが今年は、この関ヶ原合戦祭が、10月21日(日曜)に行われるとのことで、
それならばぜひ、行ってみなくては、考えを改めました。
というのも、関ヶ原の合戦が行われたのは、慶長五年の九月十五日で、
これを今の暦に直すと、西暦1600年10月21日になるはずです。
ということは、今年の関ヶ原合戦祭の日は、まさに、関ヶ原の戦いがあったその日であり、
この戦場でただひとり腹を召した大谷吉継公にとっては、418年目の命日ということに、
あたるわけです。

となれば、気分も盛り上がるかも、ということで、
10月21日、私も、いざ、出陣することにしました。
といっても、午前中は野暮用などをしていて、関ヶ原に着いたのはお昼近く。
ちょっと遅がけの出陣となりましたが、それでも、
意を決して、各陣を回ってみることにします。

そのまえに、まずは陣場野そばに出ているお店で、例年のように、勝鬨カレーを食べます。
ちなみにこのとき、ひとりで屋外に座ってカレーを食べていると、
若い女の子が「いっしょに座ってもいいですか」といってきたので、
「ええっ、どうぞどうぞ」といったのですが、単に、食事する席が無いだけでした。
オジサン、ひとりで舞い上がってしましました。

そのあとは、さっそく各地を回ってみます。

井伊直政陣跡

というわけで、まず最初に行ったのが、井伊直政と松平忠吉の陣です。

関ヶ原合戦のさいの東軍の先鋒は、福島正則と決まっていたようですが、
徳川方としては、福島のような豊臣恩顧の武将に、先鋒で手柄を立てられることを、
できれば避けたいと考えていました。
というのも、福島正則は、石田三成憎しの感情で東軍に与していましたが、
亡き太閤の息子、豊臣秀頼への忠誠心は、旺盛なものがありましたし、
同時に、このとき、徳川方の主力である徳川秀忠率いる軍が、
関ヶ原の予定戦場に到着できず、
徳川家康は、豊臣恩顧の武将ばかりを率いて戦うという、番狂わせも生じていました。
このまま福島正則が手柄を立ててしまうと、戦後世界における自らの権力掌握について、
徳川方は、思惑と違う展開を強いられるかもしれなかったのです。

そのあたりの事情をわかりつつ、うまく対応したのが井伊直政です。
井伊直政は、後見という立場で預かっていた徳川家康の四男、松平忠吉を伴って、
戦場の見物と称して、朝霧のなか、
福島正則の陣に迷い込んで入り込むかたちにとりながら、
成り行きのような展開を装って、先陣を切ることに成功しました。

抜け駆けによる先鋒破りは唾棄すべき行為とであったといいますが、
直政は、この成り行きの展開を装うことで、福島正則の逆鱗にも触れず、同時に、
先鋒の武勲を立てるという、きわどい政治的行動を成功させたといいます。

ちなみに、この陣跡のすぐそばには、討ち取られた将兵の首塚があります。
物見遊山で戦場を回るわけですから、礼儀として、亡き将兵の獅子奮迅の働きに敬意を表し、
お参りをさせていただきました。

というわけで、その後は、陣馬野を経由し
途中、田中吉政の陣跡などにも寄りつつ、
石田三成陣跡である笹尾山へと向かいました。

笹尾山ではイベントの真っ最中。
コスプレした各武将隊が、旗指物のまえで、槍や太刀をかまえ、ポーズを決めていました。

石田三成隊

こちらは、石田三成隊です。
石田三成を演じている人は、おそらく、去年と同じ人かと思います。

大谷吉継隊

大谷吉継隊は、いちばん人気があるようでした。
大谷吉継は、関ヶ原合戦のさい、重い病のため、たちあがることもままならず、
輿のうえで采配を振るったといいますが、こうして、堂々と立ち上がる吉継公は、
いかにもかっこいいです。白い頭巾がかっこいいです。

小早川秀秋隊

この鎌の旗指物は、小早川秀秋隊ですね。
関ヶ原では、大いなる裏切り者として、名を馳せていますが、
そこがダークヒーロー的な感じなのか、意外と人気があるようでした。
まあ、良くも悪くも、関ヶ原合戦のキーマンですから……。

笹尾山台上

こちらは笹尾山台上です。
418年前の同じ日、この大地のうえには、鬨の声が、響き渡っていたのでしょうね。
そう考えると、なんだか不思議な気がします。

笹尾山では、その後も武将隊によるパフォーマンスが行われていましたが、
私はひとり、各陣を回るため、この場をあとにしました。

島津義弘陣跡

次に行ったのは、薩摩の島津義弘の陣跡です。
一時は徳川方に与しようと思っていたのに、伏見城の鳥居元忠から拒絶されたりして、
成り行き的に西軍に加わることになった薩摩勢ですが、
石田三成からの冷たい処遇などもあり、合戦当日には、
陣を構えながらも積極的に戦うことなく、いよいよ西軍が総崩れになると、
薩摩勢は撤退を決意します。

が、撤退するといっても、周囲は敵だらけ。
とはいえ、伊勢街道に出て薩摩まで逃げ帰りたい島津義弘は、
なんと、徳川方に向かって、前進して戦って撤退する、という、
奇策に打って出ます。
薩摩勢、すごい。

宇喜多秀家陣跡

そのあと行ってみたのは、宇喜多秀家の陣跡です。
福島正則隊を大いに叩いた宇喜多勢ですが、小早川の裏切りで潮目が変わってしまった戦を、
ふたたび反転させることはできませんでした。

大谷吉継墓

そして、次に行ったのは、自分としては、今回の目玉といっていい、大谷吉継の墓参りです。
これまで、各陣を巡ってきましたが、小西行長の陣跡に人がいたのみで、
ほかの場所では、誰ひとりいませんでした。

ですが、大谷吉継のお墓のある場所には、次から次へと人が現れ、手を合わせていました。
吉継公の人気の高さを、ふと思い知る気がしました。
というわけで、私も、しっかりとお参りをさせていただきました。

ちなみに、お墓に不用意にカメラを向けるのは、不謹慎というか、
なんとなくためらわましたので、墓の写真はありません。すみません。

藤堂高虎陣跡

こちらは、藤堂高虎と京極高知の陣跡です。
前回はこなかったので、ひさしぶりの訪問です。
ちなみにこちらは、学校の敷地内にあります。

福島正則陣跡

福島正則の陣跡にも寄ってみました。
なにしろ、藤堂勢の陣跡から近いですし。

松尾山へ

そして、今回もいきます、松尾山の小早川秀秋の陣跡へ。
ここからはきつ〜〜い道のりになりますが、やっぱり、
関ヶ原にきたからには、いっておかないと。

坂道を登る

ひたすら山道を登ります。
このあたりはまだ傾斜もなだらかですが、終盤になると、
階段状になった道もあって、きついです。

松尾山小早川秀秋陣跡

でも、ヘロヘロになりながら、たどり着きました。
もちろん、誰もいません。
小早川秀秋の陣跡、独り占めです。

そのあとも、延々と、延々と歩いて、
薩摩勢が最後の決戦をしたという、鳥頭坂に向かいます。
これが長かった。

島津豊久墓

こちらも、なんとかたどり着きました。

徳川勢に向かって前進して撤退する道を選んだ島津義弘ですが、
当然のことながら、かなりの苦戦をしいられました。
薩摩勢は、要所要所に兵がとどまり、その兵が命を捨てる覚悟で、
追っ手と戦っているあいだに、本隊が逃げる、という戦法を、何度もとったといいます。
この戦法はステガマリと呼ばたといいますが、
実際に島津義弘は薩摩まで逃げ帰っていますので、
十分な効果を上げた戦法といえるかもしれません。
ただ、その犠牲は甚だしく、ともに戦っていた島津豊久は、
この地で討ち死にしたともいわれています。

ちなみに、このすぐそばに、立派な豊久公の墓碑があります。

その後は、関ヶ原の駅に向かいつつ、途中、本多忠勝の陣跡に寄ったりしてきました。

結局、今年も、ものすごく歩きました。
その結果、またしても、足の爪をひとつ剥がしてしまいました。
でも、こういうことでもない限り、長距離を歩く機会がありません。

健康のためにも、関ヶ原ハードウォーキングは、続けたほうがいいのかもしれません。



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