石田三成公出生地

早いもので、気がつけば、すでに12月に突入してしまい、
2016年も、あと一ヶ月を残すばかりとなってしまいました。
今年は、どういうわけか、いつもの年よりも、
なんだかずっと時の経つのが早かったように思います。
(…というか、今年一年、いったいなにをしてたのか、と、いまさらながら思います)
いずれにしても、この年末も、書きたいネタはいっぱいあるのですが、
それらはまたおいおいアップすることにして、
そのまえに、まずは先月の出来事などをご紹介したいと思います。

今年の五月から、滋賀県内の各会場を使って行われていた、
石田三成にまつわる企画展『MEET三成展』について、
当ブログではすでに二回ほどとりあげていますが、この企画展が、
先月末をもって終了となりました。
メインとなる三つの展示会場については、すてに見て回っているのですが、
今回は、サブ会場を順に巡ってみることにしました。

なぜ、そうまでして展示会場を巡るのか…、というと、
この企画展では、スタンプラリーも行われており、
計九つのスタンプを集めると、コンプリートになるということで、
ここまできたら、全部のスタンプを集めてみたいという気持ちが、
日々強くなってしまったからでもあります。

というわけで、まずは、長浜市石田町にある「石田会館」という施設に、
いってみることにしました。
石田町は、かつては石田村と呼ばれていた地域だそうで、
石田三成の生誕の地でもあるそうです。

石田会館

こちらがその石田会館です。
岐阜市の我が家から車で一時間半ほどで到着しましたが、
途中、かなり道が細いところもあり、
この道に入っていってだいじょうぶ?、と、ちょっと戸惑ってしまいました。
(でも、ちゃんと無事にたどり着きました)

館の手前が駐車場になっており、普通車であれば、
六台くらいが止められるスペースがあります。

この場所は、かつて石田三成のお屋敷があった場所でもあるそうです。
住所をよく見ると『長浜市石田町治部』となっており、
なんと、三成の官職名である『治部』の文字がつけられています。
それだけでも、この地域が、三成ゆかりの地であることを、強く物語っています。

郷土の名士である三成を讃え、ゆかりの展示物を納める場所としては、
まさに、うってつけであるといっても過言ではありません。

三成公歌碑

しかも、石田会館の敷地内には、このような歌碑まで建てられていました。
横柄者 (へいくわいもの) と呼ばれ、極めて敵の多かった三成ですが、
その才能は領国経営においても遺憾なく発揮されており、
領民に対しては、温情といたわりのある政策をとったといわれています。
関ヶ原の戦い以後、天下の大罪人として、徹底的に名誉を落としめられた三成…。
しかし領民は、徳川の時代になっても、密かに、三成を慕い続けたようです。

おりしもこのときは、空模様こそいまひとつでしたが、紅葉が美しく、
秋の深まりを感じさせる一日でした。

石田会館展示室

館内には三成にまつわる展示や、ビデオ映像などが流されていました。
また、撮影は禁止されていましたが、三成の生涯を絵にまとめた、
巻物の複製なども展示されていました。

小学生の力作

また、小学生の女の子が書いたという、三成にまつわる研究記録もありました。
そのページ数は膨大で、関ヶ原の戦いの東西両軍の戦力や、その顛末なども、
詳しく記してありました。
おそらく、執筆者の女の子は、将来は立派なミツナリストになることでしょう。

会場に詰めていた地元の男性が、館内を案内してくれたり、
三成の逸話や地域の伝承を、いろいろとお話をしてくださいました。
聞けば、この石田会館は、もともとは地元の公民館だったそうなのですが、
三成にまつわる品などを展示するなどして、一般の方にも、
解放するようになったとのことです。

この場所は、決して、交通の便利なところではないのですが、
それでも、この石田会館には、全国から多数の人が詰めかけており、
私たちが館内にいたあいだにも、
若い女の子や、母子の来訪があったりしました。

というわけで、ひとしきり館内を見学させていただいただき、
MEET三成展のスタンプをもらって、そのあと、
すぐ近くにある、三成の産湯を汲んだという井戸へ行ってみることにしました。

三成公の産湯

こちらがその井戸です。
民家のあいだにひっそりと佇んでいました。
この井戸は、平成12年位、復元されたものだそうです。

その後は、石田一族の供養塔があるという八幡神社に行ってみました。
かつて、この神社の地中からは、
意図的に破壊されたらしい五輪塔などが発見されたそうで、
調べたところ、それらは三成にまつわるものであると推察されたといいます。
おそらく、関ヶ原以後、村人たちは、徳川方から目を付けられるのを恐れ、
やむなく、五輪塔などを破壊して埋め、隠したものと思われます。
それでもなお、長きに渡って、密かに供養をされてきたといいます。
というわけで、私たちも、供養塔のまえで手を合わせてきました。

石田神社

毎年11月には、ここで法要が営まれるそうで、
そのときには、全国各地から、三成に思いを寄せる人たちが、
多数集まるといいます。
私も、来年は、法要に行ってみたいと思ってしまいました。

佐和山のふもとの寺

その後は、彦根市の龍潭寺へと行ってみました。
こちらも、紅葉がちょうど見頃でしたが、時間的にちょっと遅くなってしまったので、
MEET三成展のスタンプをいただいたあと、早々に立ち去ってしまいました。
次回は、もっと早い時間にきて、できれば、佐和山城趾に登ってみたいものです。

そのあと、日を改めて、残るスタンプラリーポイントへと足早に行ってみました。
まずは、米原市の松尾寺へ。
そしてその足で、彦根市の治部少丸へと行ってみました。

彦根治部少丸

治部少丸は、メイン会場ではないのですが、展示については、
彦根城そばの開国記念館よりも、内容が濃いように思われました。
室内にはジオラマなどもあって、とても楽しいです。

最後はMINIで出発

そしてまた日を改め、最後のスタンプポイントである、
米原市の成菩提院へと行ってきました。
前の二回は、ヨメのプジョーで出掛けましたが、
この日は私のMINIでお出掛けしてみました。

成菩提院

というわけで、成菩提院でスタンプをゲット。
これで、九つすべてのスタンプがそろったことになります。

スタンプラリーをやってみたのは、今回がはじめてなのですが、
やっぱり、こうしてスタンプがそろうと、なんというか、
ちょっとした達成感みたいなものがありますネ。

ただ、この成菩提院では、スタンプラリーの記念品はもらえません。
というわけで、以前にも行った観音寺へと行ってみることにしました。
観音寺は、三つあるメイン会場のひとつであり、ここであれば、
記念品を受け取ることができます。

大一大万代吉クリアファイルゲット

というわけで、観音寺会場で記念品をゲット。
記念品は、大河ドラマ『真田丸』で石田三成を演じている、
山本耕司さん直筆の大一大万代吉が大書された、クリアファイルでした。
また、九つすべてのスタンプを集めた人には、
豪華賞品があたる懸賞に参加ができるとのことで、さっそく、
応募してきました。

その帰り道、関ヶ原を通ったので、まだ一度も行ったことがなかった、
桃配山へと立ち寄ってみることにしました。

桃配山は、関ヶ原の戦いのさい、徳川家康が最初に陣を置いたところです。
関ヶ原主戦場より、かなり東に位置するので、
関ヶ原合戦祭りのときも、この桃配山に行くことはできませんでした。
というわけで、念願の桃配山来訪です。

といっても、国道21号線のほんのすぐそばで、駐車場にMINIを止めたら、
徒歩二分ほどで着いてしまいます。

桃配山-徳川家康最初陣地

ここが桃配山徳川家康最初陣地跡です。

山内一豊陣跡

そのあと、すぐそばにある山内一豊陣跡にも行ってみました。
山内一豊は、南宮山に陣取った、
西軍の毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、ら諸隊の、
いわば『抑え役』として、この地に配されたようです。

しかし、吉川広家はすでに徳川方に内通して、不戦の約束をしており、
それどころか、山上に陣取る毛利秀元の軍勢が下山するのを阻止し、
結局、関ヶ原の戦いの当日、いかなる戦闘もしないままに終わりました。

よって、山内一豊の軍勢は、南宮山の西軍とは鉾を交えることはなく、
関ヶ原の戦いの終盤に至っては、この地を引き払っているようです。

というわけで、関ヶ原合戦祭り2016以後は、お休みがくるたびに、
石田三成にまつわる史蹟を見て回る秋でした。

来年は、真田の史蹟を見て回りたいなあ、などと、
いまから、夢見ています。



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長浜の街

ただいま滋賀県では、石田三成にまつわる企画展『MEET三成展』が、
いくつかの会場に分散されるかたちで行われています。
前回、この企画展の米原会場『観音寺』について、ご紹介をさせていただきましたが、
今回は、彦根市会場、長浜市会場に行ってきたことなどを、
少しばかり、書いてみたいと思います。

なにしろ滋賀県は、石田三成の生まれた地であり、
佐和山をはじめ、ゆかりの場所もたくさんあるということで、
今回、大河ドラマ『真田丸』の放映とも連動し、
こうした企画展を開催することとなったようです。
(それにしても、関ヶ原の投稿以後、当ブログは歴史ネタ、三成ネタが連発ですネ)

というわけで今回は、まず、彦根市会場へと行ってみることにしました。
彦根市は、ここ岐阜市のほぼ真西にあたり、クルマで行けば、
およそ1時間半というところでしょうか…。

今回の出動車は、前回の観音寺訪問に引き続き、私のMINIになりました。
ただ、前回の観音寺行きは、私ひとりでのドライブとなりましたが、
今回は、いつものように、ヨメとふたりで出掛けることにしました。

前回は、雨の気配こそなかったものの、
空模様は雲の多いどんよりとしたものでしたが、
この日はすこぶるよいお天気で、絶好のドライブ日和でした。

彦根のMINI

こうして彦根市到着。
町中は天気もよいということで、かなりの人出がありましたが、
なんとか、駐車場にも入ることができました。
それにしても、ホントにいい天気です。
そしてまずは、駐車場のすぐ近くにある、
彦根市の目抜き通りあたりから散策してみることにしました。

この通りは『夢京橋キャッスルロード』というそうで、
お城も近いということもあり、よりたくさんの観光客でにぎわっています。
このあたりを歩いているとき、ちょうどお昼となり、近くのお店で食事をとることに…。
その後、さっそく、MEET三成展会場へと行ってみました。
会場は、彦根城のすぐそばにある『開国記念館』というところです。
そういえば、何年かまえ、彦根旅行にきたさいにも、ここを訪れていましたね。

MEET三成展彦根市会場

会場は、この彦根会場を含め、どこも無料となっています。
この会場は『真田丸にみる石田三成と激動の佐和山展』という副題がつけられていました。
城へ行く人々が多いせいか、この会場にも、思いのほか多くの人がきていました。
しかも、若い女性が多いように思います。
この人たちも、いわゆる『ミツナリスト』なのでしょうか…。

真田丸と三成

展示は、大河ドラマ『真田丸』の、
山本耕史演じる石田三成に焦点をあてたものとなっていました。
(…というか、真田丸展と銘打ったほうがいいような感じでした)
展示品も、撮影に使用したものがほとんどで、
三成その人にまつわるものは、少なかったかもしれません。

ただ、撮影に使用された書状などは興味深く、
有名な『内府ちかひの条々』など、ドラマといえども、
小道具にこだわりを感じました。

また、MEET三成展とは関係のない、常設展のスペースでは、
江戸期の彦根の街のジオラマや、大老井伊直弼にまつわる展示などもありました。
井伊直弼といえば、安政の大獄によって政敵を粛正したということで、
現在においても、よいイメージを持たれにくい人かと思います。
ですが、ご当地であるここ彦根では、井伊直弼は郷土の英雄ということで、
人々から広く尊敬されているようです。

ちなみに、この会場に設置されていたモニターに、
石田三成を讃えるCMが各種流されており、これがとてもおもしろい…。
このMEET三成展彦根会場のなかで、このCMがいちばんのお気に入りかもしれません。
Youtubeにアップされているので、ぜひ、ご覧ください。

○ 石田三成を讃えるオモシロCM映像集 - You tube - ~

こうして、彦根会場を見物したあとは、北の長浜市にある、
MEET三成展長浜市会場へと向かってみます。
彦根市から長浜市までは、クルマでおよそ30〜40分でいくことができます。
せっかくですので、琵琶湖を横目に見つつ、ドライブしてみました。

長浜市では、豊国神社そばの駐車場にMINIを入れ、そのあと、
まずは黒壁スクエアのある通りへと行ってみました。

秀吉の街 長浜

長浜市には過去にも何度かきていますが、商店街を歩いたことはなく、
今回、はじめて、この黒壁スクエア界隈を散策してみましたが、
おもいのほか賑わっていて、驚いてしまいました。

アイドル

しかも、アイドルグループのコンサートも開かれていて、
賑わしさに拍車をかけていました。
(アイドルのユニット名はわかりません。すみません)

長浜会場

少し道に迷いましたが、ほどなくして、MEET三成展長浜市会場を発見。
これで、MEET三成展主要三会場は、コンプリートしたことになります。

展示物

会場は、湖北観光情報センターという、
古民家を改造した案内所のようなところでした。
こちらにも、やはり、歴女と思われる方たちが来場されていました。
ただ、展示そのものは、比較的簡単なもので、
もう少し、濃い内容がほしいように思います。
いずれにしろ、秀吉のお膝元であったこの長浜の街で、
秀吉の忠臣であった三成の企画展が行われているのは、なんとも、
感慨深い気もします。

大通寺

そのあとは、商店街を散策している途中でみつけた、
『大通寺』というお寺を参拝。
真宗大谷派のお寺ということで、作りも、京都の東本願寺を思わせるものでした。
また、ゴブラン焼きという、
リンゴを入れた小振りなどら焼きのようなお菓子を買ったりしつつ、
秀吉を祀った豊国神社にも参拝をしてきました。

ふたたびの観音寺

最後は、前回も行った『観音寺』に、寄ってみました。
というのも、長浜市から岐阜市に帰る道の途中に観音寺はあり、
しかも前回、ヨメはここにはきていないので、
せっかくなので、ちょっと寄ってみようということになりました。

観音寺の三成展会場

ここでまた、MEET三成展会場に立ち寄り、
またしても、お茶をごちそうになってしまいました。
(二度もきてしまって、すみません)

その後、観音寺に参拝し、せっかくの機会ですので、
拝観料を払って、寺のなかに入らせていただきました。
撮影は禁止なので、画像はありませんが、
ほんのりとした明かりに照らされた本堂は、
魅惑的で、とても心の落ち着く雰囲気でした。

というわけで、比較的短い距離のドライブでしたが、
近江路をたっぷりと堪能した一日でした。

スタンプラリー

こちらは、MEET三成展会場でもらえる、スタンプラリー用紙です。
主要三会場のスタンプはこれですべてそろいました。
あとは、サブ会場のスタンプがあれば、パーフェクトなんですが…。

ですので、また機会があれば、近江に行きたいと思っています。




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MINIで行く近江路

先月のことになりますが、滋賀県にある『観音寺』というお寺に、
MINIに乗って行ってきました。

天正の昔、このお寺には、少年期の石田三成が、小姓として預けられていたそうで、
秀吉と三成が始めて出会った場所でもあるとも言い伝えられているそうです。
折しもいま、この観音寺では、
石田三成にまつわる企画展『MEET三成展』が開催されており、
各種のパネル展示などが行われています。
(MEET三成展は、この観音寺のほか、彦根、長浜などの会場でも開かれています)
というわけで、今回、まさに絶好の機会に、この寺を訪れることとなりました。

それにしても、関ヶ原探訪以降は、
立て続けに「歴史ネタ」ばかりを連発してしまいましたが、
今回もまた、ご多分に漏れず、同様の話題をアップすることとなってしまいました。
岐阜市に拠点を移して、いま、一年と少しに経ちましたが、それからというもの、
当ブログで取り上げる話題は、急激に歴史ネタが多くなったかと思います。
なにしろ、飛騨高山にいた頃は、近場にそれほど歴史的な名所はなかったのですが、
ここ美濃にきてからは、比較的近い場所に、関ヶ原といった旧跡があり、
また、城なども多く、見所には事欠きません。
そんなわけで、自然と歴史ネタも多くなってしまいました。

さて、今回は、ヨメが仕事で忙しいため、
私ひとりで、MINIに乗って出掛けるということになりました。
こうした、単身のドライブはほんとうに久しぶりで、
お天気はいまひとつだったものの、それはそれでまた楽しいものでした。

岐阜市から、観音寺までの道のりは、まず国道21号線に乗って西の関ヶ原方面へ向かい、
そこからさらに西に進んで、国道365号線へと入ります。
やがて、滋賀県の米原市に入りますが、そこから脇道にそれて、
しばらく進むと、目的の観音寺に到着します。
所要時間は、一時間半弱といったところでしょうか。
途中、脇道に入るところで迷ったりもしましたが、
無事、観音寺に到着することができました。

観音寺

観音寺のある場所は、静かな山間の農村といったところで、
日曜にもかかわらず、あたりにはさほど人気はありませんでした。
こうした静かな雰囲気が、この古刹には似合うかもしれません。

寺の手前や、すぐ手前の道には、MEET三成展ののぼりと、
秀吉と三成の出会いの地であることを謳うのぼりが、それぞれ立ててあり、
寺としても、三成のことは多いに宣伝に使っているようでした。

観音寺参道

寺の門をくぐると、長い参道があります。
舗装もなく、石畳もなく、まさに土の道なのですが、
そのあたりも、質素で昔ながらといえるかもしれません。

案内看板

参道手前には、寺の案内図がありますが、その下に、
石田三成が秀吉のために茶を出した、その水汲みの井戸への看板がでていました。
というわけで、参拝の前に、まずはその井戸へと行ってみました。

三成の井戸

こちらがその井戸です。
はじめて城持ち大名となった秀吉は、
長浜の周辺にあたるこの付近まで、鷹狩りにきたといいます。
鷹狩りは、いま風にいえばスポーツのようにも思えますが、
実際には、領地を見聞するための、いわば偵察のようなものであったともいいます。

途中、のどの渇きを覚えた秀吉は、この寺に立ち寄り、茶を求めたといいます。
そこで茶を出したのが、寺の小姓であった佐吉、つまり、のちの石田三成だといいます。

三成は、秀吉ののどの渇き具合を推察し、
最初は、大きめの茶碗に、ぬるめのお茶を、たっぷりと出したといいます。
それを飲み干した秀吉が、再度、茶を求めると、
三成は、最初のものよりも少し小さい茶碗に、少し熱めのお茶を出したといいます。
秀頼が、またさらに茶を求めると、三成は、さらに小さい茶碗に、
熱いお茶を出したそうです。

秀吉は、この少年の明敏さに目を見張り、
寺からもらいうけ、自らのもとに召し抱えます。
少年はその期待に見事に応え、やがて天下人へと駆け上る秀吉を、
終生変わらず支え続けるのです。

このエピソードは『三献の茶』などと呼ばれており、
前回ご紹介した、司馬遼太郎氏の小説『関ヶ原』でも、
冒頭で取り上げられています。

観音寺の石段

こうして、三成ゆかりの場所を堪能したあと、お寺を参拝。
森のなかに建つ古いお寺でしたが、独特の味わいがありました。

MEET三成展会場

そのあとは、MEET三成展の会場となっている建物に行ってみることにしました。
こちらの会場は、見学無料で、しかも、場内に入ると、
三献の茶にちなんでか、お茶のサービスがあります。

場内は、主にパネル展示がなされており、設置された大型モニターには、
歴女アイドル小日向えりさんの、三成紹介VTRが流されていました。

パネル展示は、MEET三成展というだけあってか、三成びいきな感じでした。
また、島左近など著名な家臣についての紹介もありました。

というわけで、MEET三成展観音寺会場を、十分堪能してきました。

そのあとは、ふたたびMINIに乗り、今度は、滋賀県の北部である、
木之本というところに、ドライブがてら向かってみました。

木之本の街

こちらがその木之本の街です。
私はこの街について、ほとんど何も知らなかったのですが、
古い町並みがある、風情のあるところです。

木之本地蔵尊

こちらは、木之本地蔵院というお寺です。
じつは、あとになって知ったことですが、
このお寺は、本能寺の変のあと、
秀吉と柴田勝家が激突した『賤ヶ岳の戦い』のさいに、
秀吉の本陣になった場所だそうです。
(実際、この木之本から、賤ヶ岳はほど近いです)
寺はそのさいの戦火で焼けてしまったそうですが、
後に、豊臣家の重臣である片桐且元が再建したといいます。
が、寺はふたたび火災にあったそうで、江戸時代中期に再建されたといいます。

きのもと交遊館

そしてこちらは、きのもと交遊館という建物です。
明治期か大正時代に建てられたものかと思いましたが、
昭和初期に、銀行として建てられたものだといいます。
ここで、MEET三成展の部分展示が行われています。

大谷吉継の展示

こちらでは、大谷刑部吉継にまつわるパネル展示が行われていますが、
展示そのものは極めて小規模で、これですべてでした。
ちょっとさみしかったかも…。

それにしても、木之本はなかなか楽しいところです。
今度、またじっくりと見物したいものです。

というわけで、今回は、ヨメなしの単独ドライブ、単独歴史紀行でした。


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島左近隊の勇姿

前回、ジャズコンサートの話題を挟んでしまいましたが、
かねて予告していた通り、今回は、関ヶ原合戦祭り2016の、
第二日目の模様を、引き続き、ご紹介したいと思います。
この日 (16日) も、前日に引き続き、朝からさわやかな快晴となりました。
というわけで、前日と同じように、ふたたび、
ヨメに関ヶ原までクルマで送ってもらいました。

16日は日曜ということで、祭りの会場周辺は、
前日よりもさらに賑わっており、駐車場はどこも満杯。
道もすでにところどころ渋滞もしており、ヨメに送ってもらって正解でした。
ただ今回は、関ヶ原町の駅ではなく、直接、
石田三成が本陣を置いた、笹尾山近くまで行ってもらいました。
(歴史に興味のないヨメは、そのまま家に帰りました)

○ ちなみに、関ヶ原合戦祭り 2016(その1)はコチラです

時刻はすでに午前10時半。
このときすでに、笹尾山の祭り会場では、
今年の大河ドラマ『真田丸』で、石田三成を演じた、
山本耕史さんのトークショーがはじまっており、
そのためか、笹尾山周辺一帯は、もうたいへんな人だかりとなっていました。
ですがなんとか、トークショーの後半だけですが、見聞きすることができました。

山本耕史さん

そういえば、以前、NHKで放映された『鶴瓶の家族に乾杯』のロケでも、
山本耕史さんは、ここ笹尾山を訪れていました。
そのときは、観光にきていた一般の方が、堀北真希さんのファンということで、
堀北さんと結婚した山本さんに対して
「三成になって、やられちまえ、って思いました!」などと、いっていましたね。
そんなことを、トークショーを見ながら、ふと思い出してしまいました。
(もしかすると、このエピソードは、トークのなかでも語られたのかもしれません)

そのあとは、同じ会場で、火縄銃の空砲実演が行われるということで、
ひきつづき、カメラを構えて待機。
やがて、赤備えに六文銭の旗を掲げた具足姿の武者らと、
大一大万大吉の旗を掲げた一群の武者が、笹尾山手前の台上に現れました。
六文銭を掲げる武者らは、信州真田鉄砲隊の皆さんということで、
この日、上田から関ヶ原に駆けつけてくれたそうです。

火縄銃は、最初に銃口から火薬を入れ、棒を使って奥に押し込み、
玉を込め、火縄に火をつけ、と、発砲までにかなり時間がかかります。
この作業は立ったまま行うのが一番効率がよく、伏せた姿勢では不可能だそうです。
そのため、玉込め時には、敵に狙われやすくもあったといいます。

真田鉄砲隊

そして、かけ声とともに、射撃に移ります。
一斉射撃、連続射撃、と、立て続けに行い、また、
長篠の戦いで信長軍が行った、射手を交代をしつつの連続射撃も行われました。
発砲の音は凄まじく、戦場では、この音による威嚇効果もあったものと思われます。

火縄銃の射撃実演が終わると、ひきつづき、各武将隊の布陣パフォーマンスへと移ります。
手前の台上には、西軍の各諸将が、背後の広場には、東軍の各諸将が陣取ります。
そのあとは、床几タイムといい、各陣のあいだを自由に行き来できるようになります。

というわけで、さっそく、島左近隊、大谷吉継隊に行ってみようと思ったのですが、
意外というべきなのか、やはりというべきなのか、
敗北した側の西軍陣営のほうが人気が高いようで、なかなか近づけません。

黒田長政軍勢

というわけで、先に背後の東軍陣営に…。
まずは黒田長政隊を訪ねてみました。

逆行状態なので、ちょっと見づらいかもしれませんが、
配下の兵に扮している人のなかに、意外に多くの女の子がいるんですね。
いわゆる歴女の人なのでしょうか…。

黒田長政は、関ヶ原の戦いの前に起こった、石田三成襲撃事件にも参加していますが、
長政は、同じく徒党を組んだ仲間である、加藤清正、福島正則などとは違い、
かなりの智恵者という印象があります。
実際、黒田長政の調略がなかったら、
徳川方になびく諸将の数は、もっとずっと少なかったかもしれません。
このあたりは、さすがに、
父親である如水の血を引いているのかな、と思わせます。
それにしても、甲州殿の兜は、異様に大きいですね。

徳川家康布陣

こちらは、東軍の将である徳川家康の陣です。
赤備えの軍勢は井伊の隊でしょうか…。
よく見ると、外国の方も参加されているようでした。

…と、ほどなくすると、西軍の陣が少し空いてきたので、きびすをかえして、
反対側の台上へと向かってみました。

島左近軍勢

というわけで、まずはお目当ての島左近隊布陣の場所へ。
こちらも、他の隊と同じように、女の子が意外に多いです。
やっぱり、島隊はかっこいいですね。
島左近役の方も、まさに堂に入っている感じです。

宇喜多秀家隊

次は宇喜多隊です。
戦意旺盛で、東軍の先鋒である福島正則隊を痛撃した宇喜多隊ですが、
その獅子奮迅の活躍ぶりも、小早川秀秋の裏切りにより、
結局は無になってしまいます。
戦後、宇喜多秀家は八丈島に島流しになったといいますが、
なんと、彼の地で、八十過ぎまで生きたとか…。
家康も長生きでしたが、宇喜多秀家のほうが、もっと長生きだったんですね。

大谷吉継布陣

こちらは、大谷吉継の軍勢です。
この白頭巾が、なんかイカしていますね。
人気もすごく高かったです。
見物客のなかにいた初老の男性が「大谷はよくがんばった!」と、
叫ぶように声をかけると、隊の人たちからも、また取り囲む見物客からも、
ドッと笑いが起き、それでいて次の瞬間、そうだ!、といわんばかりに、
みなうなずく、みたいな感じになりました。

石田三成隊

そしてこちらは、西軍の事実上の将、石田治部少輔三成の陣です。
こちらは、島左近隊のさらに台上に位置していて、
しかも、馬防柵の向こう側ということで、あたりはせまく、
撮影はしづらく、しかも人気が高いために人は多く、というわけで、
カメラを向けるのにも、ちょっと苦労しました。

三成は、西軍が総崩れになったあと、単身、戦場を脱出し、落ち延びますが、
結局、田中吉政の手による捜索隊に発見され、
最終的には、家康の名により、京の六条河原で斬首されます。

無念の死を遂げた三成ですが、
豊臣政権を簒奪しようとする家康の横暴を臆することなくあばきたて、
内々に敵に寝返っている者もいたとはいえ、七万以上の兵を集め、
日本の中央で大決戦を挑むことができたのです。

佐和山十九万石の大名が、
関東二百五十五万石の大大名に正面切って挑み、
しかも、当初は優勢な戦いができたのです。

たとえ負けたとはいえ、この事実に、
三成は大いに満足であったかもしれませんし、
あの世で、堂々と太閤秀吉に、拝謁することができたでしょう。

福島正則隊

ふたたび東軍の陣に戻り、まずは福島正則の隊を撮影。
豊臣恩顧の武将の最右翼でありながら、小山評定では真っ先に家康についた政則。
武勇はあるが、大酒飲みでたいへんな乱暴者、というイメージの武将ですが、
この人物が、後に、二代将軍秀忠からいろいろと難癖をつけられ、
大幅な減封、転封されることを思うと、なんとも哀れを感じます。

小早川秀秋隊

さらにこちら。
もはや言わずと知れた裏切り者、小早川秀秋とその軍勢です。
おそらく、全軍勢のなかで、最も人気がなかったかもしれません。
コスプレしている方も、本意ではないのかもしれませんね。
ですが、関ヶ原の戦いにおいては、良くも悪くも、とても重要な人物ですので、
本イベントには、なくてはならない存在です。

細川忠興隊

最後に、細川忠興の陣を撮影して、全陣を撮影し終わりました。

今回のイベントは、多くの犠牲者を出した史実をテーマにしているわけですが、
会場は、なんともほのぼのとしていて、とても楽しい雰囲気でした。
おそらく、東西にわかれ戦った士卒も、あの世で、
あのときの御手前の戦いぶりは見事であった、
いやいや、御手前こそ、などと、
昔を懐かしんで談笑しているのかもしれません。

笹尾山は大盛況

さて、そのあと、各隊のパフォーマンスが行われるとのことでしたが、
昼食もとらなければなりませんし、前日に行くことができなかった、
小早川秀秋の陣である松尾山にも行きたいし、ということで、
とりあえず、この場をあとにし、ふれあい公園まで行ってみました。

が、こちらもすごい人出で、目当てにしていた勝鬨カレーはすでに完売。
仕方なく、東西巻という、いなり寿司と巻物のパックを買いました。

そのあとは、いよいよ小早川秀秋の陣、松尾山へと向かいます。
松尾山まではかなりの距離ですが、それでも、マメだらけの足をひきづって、
歩くことにしました。

小早川裏切りの地へ

松尾山は関ヶ原の南にあり、途中からは、まったくの山道になってしまいます。
しかも、祭り会場にはあれだけの人がいたのに、こちらはさみしいもので、
こんなところで、もし熊が出たら、どうしよう、などと、思ってしまいました。

が、松尾山への道は、想定していたほど険しいものでもなく、
また、さほど遠い気もしませんでした。
なんだか、すぐに着いてしまったようにも思いました。
過剰に覚悟を決めていたので、そんな感じがしたのかも知れません。

ただ、他の武将の陣に比べ、松尾山はやはり遠く、道も山道ですので、
もし、松尾山へ意向と思うなら、それなりの心構えはいるかもしれません。

松尾山小早川秀秋陣跡

こちらが、松尾山の台上です。
それにしても、こんなところに、
一万を越える兵が駐屯していたなんて、とても信じられません。
そんなに広い場所もないし、いったい、どんな状態だったのでしょうか…。

松尾山から遠く笹尾山を臨む。

松尾山台上からは、遠く笹尾山の三成の陣を臨むことができます。
関ヶ原の合戦当日、三成は、この台上に向かって、徳川を討て、と、
何度も狼煙を上げたといいます。

が、小早川秀秋は、それらをことごとく無視します。
とはいえ、秀秋は、徳川方への寝返りを完全に決定していたわけではないようで、
一時は、優勢に戦いを進めていた西軍の様子を見て、
寝返りをやめて三成側につくことも考えていたようです。

もし、秀秋が、三成側に立って参戦したなら、
西軍が勝利を収めていたことでしょう。
そうなれば、以後も豊臣政権は存続したのかもしれませんし、
ひいては、いまの日本の姿も、大きく様変わりしていたかもしれません。

こうして、小早川陣地をひとしきり見学したあと、
前日、立ち寄ることを失念してしまった、田中吉政陣跡に行ってみることにしました。

田中吉政陣跡

田中吉政は、三成と同じ近江の出身ということで、
三成とは不仲ではなく、むしろ三成のことを正しく評価していたと言います。
ですが、西軍には勝機はないと考え、自ら東軍に身を投じます。

この読みは正しかったわけですが、吉政は戦後、
先にも述べたように、逃亡した三成を捕らえるという、
東軍にしてみれば大功績を上げています。

田中吉政陣跡は、家康が陣を構えた陣場野に近く、
前日もこのあたりは通ったのですが、この石柱にはまったく気がつきませんでした。

さて次は、島津勢の脱出を成功に導いた、
島津豊久の戦功を讃えた碑を見学に行ってみることにしました。

が、この碑までが遠い…。
歩けど歩けど見えてこず、とうとう、関ヶ原町から出てしまい、
上石津町というところに入ってしまいました。

この上石津町に入ったところで、島津の旗を発見。
ようやくにして到着しました。

島津豊久の碑

島津は文禄慶長の役のさいに、朝鮮で多大の武功をあげ、
明や朝鮮の諸将は、島津兵を『石曼子』シーマンズーといって、
恐れたそうです。
そんな島津は、当初は、家康の東軍側に付く予定だったのですが、
さまざまな事情で、東軍に付きそびれてしまい、
その後、どこか煮え切らないままに、西軍側に与して出陣しました。
が、関ヶ原合戦のまえに起こった、福島正則らの岐阜城を攻めたおりには、
石田三成による大垣城防衛策のため、まるで捨て駒にされるように、
無情にも戦場に置いてきぼりにされてしまい、
さらには、夜襲の提案をしても、三成に一蹴されてしまったりと、
なんだか、冷遇されているかのような扱いを受けてしまいます。
(ただ、三成は、島津のために尽力したことも、この以前には多々あったのです)

そんなこともあってか、島津勢は、関ヶ原合戦が始まっても、
積極的に戦闘に参加せず、また、敵方も、島津を恐れて積極的に攻めることもなく、
やがて西軍は瓦解し、気がつけば、島津の周りは敵だらけになっていました。

このときになってはじめて、島津は撤退のための戦いに打って出るのですが、
そのさい、主君である島津義弘を逃がすため、決死の戦闘を行ったのが、
甥の島津豊久だったといいます。

看板によると、島津豊久の生死は不明とのことですが、
この周辺でなくなった可能性が高いとのことでした。
碑にも、島津豊久の墓と銘打たれていました。

島津は、800人から1000人ほどの軍勢だったとのことですが、
そのうち、無事、薩摩に帰り着いたのは、
わずか80人とも、50人ともいわれているそうです。

というわけで、この碑の見学をもって、私にとっての、
二日間にわたる『関ヶ原祭り』は、無事終了ということにしました。

とりあえず、ガイドマップに記されている各陣、各名所には、
奥平貞治の墓を除き、すべて行きました。

ただ、関ヶ原合戦場の東にある、徳川家康の最初の陣である桃配山や、
吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、長束正家、など、
傍観軍が陣取ったといわれる、南宮山にも行くことはできませんでした。

これらの陣跡には、いずれまた、日を改めて、行ってみたいと思います。
それにしても、この二日間の行軍で、ヘトヘトになってしまい、
ふだんの運動不足を、身をもって知ることになりました。

しかも、足にはマメどころか、
足の爪が皮下出血してしまい、たいへんなことに…。
新調した靴を履いていったことで、こんなことになってしまいました。
もう、大反省です。

それでも、これに懲りず、また、関ヶ原や各旧跡を、
巡ってみたいものです。



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天下分け目の関ヶ原

慶長五年九月十五日、徳川家康を将とする東軍と、
石田三成を事実上の将とする西軍とが、豊臣秀吉亡き後の天下の覇権を争った、
いわゆる『関ヶ原の戦い』が勃発しました。
先週の土日、日の本を二つに分けた、
この大いくさの部隊となった岐阜県関ヶ原町で、
合戦をテーマにした『関ヶ原合戦祭り2016』が開催されました。
関ヶ原町は、私がいま拠点にしている岐阜市から、クルマで40分ほどの距離で、
しかもここ数年来、こうした歴史の現場を訪ねることに、
熱を上げていることもあり、二日間にわたって、
この祭を見に行くことにしました。

なにしろ、ほんの少し前、司馬遼太郎の『関ヶ原』全三巻を読み終えたばかりで、
いやがうえにも、関ヶ原に強く惹かれてもいました。
(この『関ヶ原』のブックレビューと、関ヶ原の戦いに至る簡単ないきさつなども、
 近々、アップしたいと思います)
さらに、土日はこれ以上はないほどの好天に恵まれ、
まさに絶好の祭日和となりました。

というわけで、土曜日の朝、ヨメにクルマで関ヶ原町の駅まで送ってもらい、
そこから、各所を回ってみることにしました。
今回は、祭ということで、さまざまな場所で、
お店が出たり、イベントがあったりするようですが、
私にとっての第一の目的は、西軍、東軍の各武将の布陣跡を訪ねることにありました。

関ヶ原町の駅前には、関ヶ原駅前観光交流館という施設があり、
まずはここで、観光マップを手に入れ、モデルコースをもとに、
できるだけ効率よく、各陣を回ってみようと思いました。

井伊直政の陣跡

まず、駅のすぐそばにあるのは、井伊直政、松平忠吉の陣跡です。
あたりはたいへんにぎやかですが、この陣跡を訪れる人はまばらで、
なんだかちょっと拍子抜けししまいました。
また、この陣のとなりには『東首塚』という士卒の首を葬った場所があり、
こちらはもう、ほとんど人影はありません。
ですが、今回は、戦の場所を巡る旅ゆえ、
死力を尽くして戦った東西両軍のもののふに、まずは、
哀悼の意をこめて、手を合わせました。

細川忠興陣跡

その次に行ってみたのは、細川忠興の陣跡です。
こちらも祭の喧噪がうそのように、静かでひっそりとしていました。
細川忠興の妻は、玉といい、
本能寺で織田信長を討った謀反人、明智光秀の娘です。
ゆえに玉は、幽閉の憂き目に遭うなど、数奇な運命に翻弄されますが、
そうした苦難からの救いを求めてか、
デウスに帰依し、ガラシャという洗礼名を授かりました。

関ヶ原の戦いの前、西軍の事実上の将となった石田三成は、
各武将を自らの陣営に引き込むため、
ガラシャら名だたる武将の妻を人質に取ろうとします。
しかしガラシャは、人質になる前に、家臣に自らの胸を突かせ、死を選んだといいます。
細川忠興は、本能寺の変のあと、ガラシャには、
どこか屈折した愛情をもっていたように思われますが、
いずにれにしろ、この事件は、忠興の胸にある、
三成憎しの思いを倍加させたことでしょう。

黒田長政・竹中重門陣跡

次に足を運んだのは、黒田長政、竹中重門、両武将の陣跡です。
こちらは小高い山のうえにあり、関ヶ原の地を一望に見渡せます。
しかもこのとき、JRのさわやかウォーキングの人たちが大挙して詰めかけており、
さほど広くはない陣跡は、たいへんなにぎわいでした。

黒田長政は、秀吉を天下人へと導いた黒田官兵衛の嫡男であり、
竹中重門は、秀吉に三顧の礼で家臣に迎えられた、竹中半兵衛の子です。
黒田長政は早くから徳川方につき、西軍の諸将の調略に尽力しました。
また、竹中重門は、当初は西軍についており、犬山城に入っていましたが、
東軍の切り崩し工作に応じて東軍側に寝返り、関ヶ原合戦の折りには、
この場所に陣を張りました。
竹中重門は、関ヶ原周辺には土地勘があり、黒田隊を含めた東軍諸隊の、
道案内的な役目もつとめています。

決戦地

次に目指したのは『激戦地』と呼ばれる場所です。
東軍諸将は、どうせ敵の首をとるなら、
西軍の事実上の将である三成の首を、と意気込み、
三成の陣地である笹尾山を目指して、殺到したといいます。

この地での戦闘が苛烈を極めたのは、おそらく、
西軍が総崩れとなったあとではないかと思います。
いわばここは、関ヶ原の戦いの終盤の舞台、といえるかもしれなのですが、
効率的に名所を回ろうと思うと、どうしても、
早い時点で、この場所に立ち寄ることになってしまいます。

島左近陣跡

そして、歩くこと数分、
笹尾山の石田三成本陣まえの、島左近陣地へと入ります。
島左近の陣地は、今回、とくに訪れてみたかった場所のひとつですが、
左近は、さすがに三成の懐刀の武将ということで、
その陣は、三成の本陣のすぐ眼の前でした。

島左近は、主君である三成とほぼ同等の大禄を食む、
この時代きっての武将です。
関ヶ原合戦の前、
五大老の筆頭である徳川家康に媚をうってへつらう者があとをたたないなか、
三成はわずか十九万石ながら家康に敢然と立ち向かい、
島左近も、自分より年若の主君三成を最後まで忠実に支えます。
そして、戦にあっては、だれよりも勇敢で、
この島隊に攻めかかった東軍の黒田長政隊は、何度も押し返されてしまいました。
黒田家の家臣は、島左近の「かかれえぇ〜!」という怒声が、
戦後何年経っても耳についてはなれず、
夜にうなされて飛び起きるほどだったといいます。

『三成に、すぎたるものが二つある。島の左近と、佐和山の城』と、
謳われたほど、島左近の名は、
当時、他家にも広く知られる存在でした。

笹尾山石田三成陣跡

そしてこちらが、笹尾山の三成の本陣です。
ここからは、戦場となった関ヶ原一帯が一望のもとに見渡せます。
明治時代に、大日本帝国陸軍は、軍の近代化をするにあたって、
ドイツから、メッケルという将校を招きますが、
そのメッケルが、関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣を見たさい、
西軍の勝利を断言したといいます。
実際には、西軍は破れるわけですが、それほどまでに、西軍の布陣と、
この笹尾山陣地は、理想的なものだったのかもしれません。

この場に立って、416年前、眼下に見えたであろう、
東西両軍の軍勢の姿を…、こだましたであろう鬨の声を、ふと夢想し、
当時の三成の心持ちを心に思い描いたりしてみたりしました。

その後は、お昼ご飯を食べるために、イベント会場となっている、
関ヶ原ふれあいセンターへと戻ることにしました。

徳川家康最終陣跡

このふれあいセンターの近くにある、陣場野公園というところが、
徳川家康の陣地であった場所です。
もともと家康は、この陣場野からずっと東にある、
桃配山 - ももくばりやま - というところに、陣を張っていました。
ですが、桃配山は戦場から離れすぎていること、また、
合戦当初は西軍が優勢で、家康の率いる東軍は劣勢となっており、
その状況を打開する意味で、家康は陣を前進させ、ここ陣場野に移したといいます。

この日はお祭りということで、広場では生け花バトル、のような催しが開かれていました。

ともえ組

ふれあい公園のステージでは、アイドル三人組のショーが行われていました。
巴組というそうです。
向かって右端の女の子が織田秀信 (三法師) 、
左側の子が小早川秀秋、中央が宇喜多秀家だそうです。
なんちゅう組み合わせか…、と思ったのですが、
織田秀信は岐阜中納言、小早川は金吾中納言、宇喜多秀家は宇喜多中納言、ということで、
中納言つながりなのだそうです。

ここで、露店のカレー『勝鬨カレー』を食べて、そのあとは、
怒濤の各陣巡りに突入です。
(勝鬨カレーは300円税込み。とってもリーズナブルでした)

藤堂高虎・京極高知陣跡

まずは、西首塚に立ち寄り、こちらでもひとしきり手を合わせ、
次いで、東軍の藤堂高虎、京極高知の陣地跡に立ち寄ります。
なんとここは、中学校の敷地内でした。

福島正則陣跡

そしてこちらは、福島正則の陣跡です。
福島正則は、関ヶ原の戦いのキーパーソンのひとりといっていいでしょう。
賤ヶ岳の七本槍のひとりで、豊臣恩顧の武将の代表格のような人物ですが、
石田三成を極端に嫌っており、ゆえに徳川家康に与しました。
結果的に政則は、家康にさんざん利用され、最後は空しい結果となりました。

脇坂安治陣跡

こちらは脇坂安治の陣跡です。
西軍についていた武将ですが、もとより家康に内通しており、
合戦のさなか、西軍第二の戦力を誇った小早川秀秋の軍勢が東軍に寝返ると同時に、
見方を裏切りました。

平塚為広石碑

こちらは平塚為広の碑です、
為広は、大谷吉継とともに、敵に寝返った諸隊と戦いました。

大谷吉継陣跡

そしてこちらは、関ヶ原合戦において西軍の雄ともいうべき、
大谷吉継の陣跡です。
吉継は、三成と同じように、秀吉に小性として使え、賤ヶ岳の戦いで頭角を現し、
文禄慶長の役では、三成とともに兵站を担当するなど、
武勇、知略に優れた人物だったといいます。
関ヶ原合戦のさいには、当初、家康側につくかのようでしたが、
かねてからの友人である三成の説得を受け、西軍につくこととなりました。

大谷吉継は、西軍第二の戦力を有する小早川秀秋が、
家康側に寝返る可能性を察知し、陣の位置を変更。
もし万が一、小早川秀秋が裏切ったとしても、それに対応できるよう、
手をうちました。

そして、案の定、徳川家康の誘いにより、小早川秀秋は、いきなり、
味方である大谷隊を攻撃し始めたのです。

が、少ない兵力で大谷吉継は見事に秀秋を撃退し、松尾山に追い返してしまいます。
ところが、秀秋の裏切りに触発された他隊が雪崩を打って寝返り、
ついに、大谷隊も防ぎきれなくなり、ひいては、それまで優勢に戦いをすすめていた、
西軍そのものが総崩れとなってしまうのです。

敗北を悟った大谷吉継は、この山中で自刃します。
関ヶ原で自ら腹を切ったのは、この大谷吉継だけではなかったかと思います。
皮膚の病を患い、このときすでに失明に近い状態だった彼は、
そもそも、死に場所を捜していたのかもしれません。

大谷吉継の墓へ

陣跡の奥には、大谷吉継の墓と、
彼の首を命がけで守った五助という士卒の墓があります。
慶長の世から平成にまで、彼の武名は響き渡っています。

宇喜多秀家陣跡

こちらは宇喜多秀家の陣です。
宇喜多隊の士気は旺盛で、東軍先方の福島正則の軍勢を叩きにたたき、
壊滅寸前まで追い込みました。
もしかすると、五大老のなかで、もっとも反徳川だったのかもしれません。

西軍の戦力は、数のうえでは徳川の東軍を上回っていますが、
実際に戦っていたのは、その2割から3割だったといいます。
それでも、地理的な条件もあるのか、最初は優勢な戦いをしていたのですから、
ある意味、たいしたものです。

小西行長陣跡

こちらは小西行長の陣地です。
このあたりまで、ずっと徒歩行軍してきましたが、いよいよ疲れてきました。
足は豆だらけ。
右足の薬指の爪が青黒く変色してしまいました。
歩くと、もう、いたくて、いたくて。

開戦地

こちらは戦いがはじまった場所です。
戦いの時間的経緯を優先すれば、ここから各陣を回りたい気持ちですが、
広い戦場を効率よく回るためには、なかなかそうもいきません。

島津維新入道陣跡

こちらは、薩摩の島津維新入道義弘の陣跡です。
文禄慶長の役では、劇的な戦果をあげた島津勢ですが、
関ヶ原においては、消極的なかたちで西軍につくこととなり、
合戦の最中も、さしたる戦いはしないまま、いわば傍観状態でした。
かといって、敵に寝返ることもなかったわけですが…。

そうこうするうちに、西軍は瓦解。
島津のまわりは敵だらけになってしまい、このときになって、
初めて島津は、撤退のための戦いをはじめます。

撤退といえば、ふつうは後に退くのですが、島津は前に出て、
激闘しつつ、道を切り開いて逃げるのです。
それがまた、ものすごく強いわけで、多くの士卒を失いはしたものの、
結局、的中突破して、薩摩まで帰ってしまいます。

その後は、ふたたび笹尾山の石田三成の陣に戻り、
そこから、ふれあいセンターを経由して、駅に戻ってきました。

が、ここで、徳川の家臣である本多忠勝の陣へ行くこと忘れていることに気づき、
急遽、足をひきづるようにして、訪ねることにしました。
(こうなると、もう意地です)

本多平八郎忠勝陣跡

というわけで、夕日のなか、やっと到着。
本多忠勝の陣跡は、民家の庭みたいなところにありました。
これにて、関ヶ原合戦祭り第一の徒歩行軍は、終えることにしました。

パンフレットによると、各陣を効率よく回れば、総距離は13キロだそうですが、
途中、ご飯を食べにいったり、道に迷ったり、と、ホントにいろいろなことがあったので、
おそらくは、17〜18キロは歩いていると思います。
もう、ホントにたいへんでした。

が、それでも、関ヶ原の南西にある小早川秀秋の陣地『松尾山』には、
時間的な問題から、行くことができませんでした。
また、東軍の武将、田中吉政の陣地に立ち寄ることを、失念していました。
これらは、翌日に回ることにしました。
ふだん運動不足の私には、とてもこたえる陣地巡りでしたが、
司馬遼太郎の関ヶ原で読んだその場所を、目の当たりにできるのは、
まさに感動的でした。

というわけで、次回に続きます。ご期待ください。




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