賤ヶ岳からの眺め

9月に入ってから急に、朝晩はとても涼しくなり、
蒸し暑く寝苦しかった8月が嘘のように、とても過ごしやすくなりました。
このような気候になってくると、
いよいよ、MINIの季節がやってきたかな、という思いにもなります。
なにしろ、エアコンもなく、また、
オーバーヒート対策としてヒーターを入れつつ走る我がMINIは、
夏場にドライブするのはたいへんで、遠出する気にはなれませんでした。
(前回も書きましたが、一度だけ酷暑の日にMINIを出しましたが、
汗が目に入って苦労しました)
ですが、これからは、MINIでのお出かけもできそうな予感です。

そんなわけで、先週の日曜、久しぶりにMINIを走らせてみることにしました。
今回の目的地は、滋賀県の『賤ヶ岳 (しずがたけ)』というところです。 
この賤ヶ岳には、先月にもヨメのプジョーで立ち寄ってみたのですが、
夏休み期間中だったためか、駐車場に思うような空きがなく、
すぐに引き返してきてしまいました。
ですので、今回は二度目のチャレンジとなります。

というわけで、MINIの暖気とオイルチェックをすませ、出発。
まずは岐阜県垂井町、そして関ヶ原方面へと進みます。
関ヶ原では、石田三成が布陣した笹尾山を横目に見ながら、
国道365号線に乗り換え、その先の滋賀県長浜市を目指します。
長浜に到着してからはそのまま北上し、木之本町方面に向かって走ります。

空模様は絶好の好天で、空気もさわやか。
まさに絵に描いたようなドライブ日和です。
のんびりと走りつつ琵琶湖北部に到着。
ここから国道をそれて、賤ヶ岳へと向かいます。

MINIでお出かけ

前回は駐車をあきらめましたが、今回もクルマは多いものの、
無事、駐車することができました。

ここ賤ヶ岳は『賤ヶ岳の戦い』があった場所として、名を馳せています。

天正十年(1582年)、織田信長が、京の本能寺で明智光秀に討たれるという、
前代未聞のクーデターが発生します。
いわゆる『本能寺の変』です。
信長の家臣であった羽柴秀吉は、このとき、西国の雄である毛利を攻めており、
おりしも、備中高松城を囲んでいる最中でした。
京から遠く離れた地にいながら、信長横死の報にいち早く接した秀吉は、
すぐさま毛利側と和睦し、急激な勢いで、自軍を東へと戻します。
これが世にいう、秀吉の「中国大返し」です。

謀反の首謀者である明智光秀は、あまりに早い秀吉の東進に驚き、
山崎で秀吉軍を迎え撃ちますが、あえなく敗北してしまいます。
その後、信長亡き後の織田家の遺産を、
誰が、どのように継承していくのかを話し合うため、尾張の清洲城で会議がもたれます。

明智討伐によって発言力を増していた秀吉は、
本能寺の変のさいに信長とともに討たれた織田信忠の嫡男、
つまり、信長の孫である「三法師」を、織田家の後継者としてかつぎだします。
秀吉は、幼い三法師を旗頭にしつつも、
自らはその後見に収まることで権力掌握を目論みます。

が、秀吉の台頭に、織田家筆頭家老である柴田勝家が黙っているはずもなく、
翌年の天正十一年になると、両者の対立は戦へと発展していきます。
その戦の場となったのが、この『賤ヶ岳』なのです。

岐阜市に活動の拠点を写してからというもの、
私は、ここ賤ヶ岳探訪を熱望していましたが、
その夢は、ようやく達成された、という感じです。

旗指物

賤ヶ岳の戦いでは、秀吉配下の七人の兵が活躍しており、
『賤ヶ岳の七本槍』として名を馳せています。
賤ヶ岳登山道の登り口には、その名と家紋とを記した旗指物が、
並べられていました。

賤ヶ岳には、リフトで登るか、徒歩で登山道を登るか、どちらかが選べます。
距離は1.5キロだそうです。
1.5キロくらいだったら、登るのにそれほど苦労はなさそうですが、
ヨメと相談し、とりあえず登りについては、リフトを使おうということになりました。
リフト代は片道420円と、比較的リーズナブルです。

賤ヶ岳リフト乗り場

リフトは、スキー場にあるものとほぼ同じです。
こうしたリフトに乗るのは何年ぶりでしょうか…。
ただ、リフトの高さは、スキー場のあるもののように高くはなく、
伸ばした足の先は地面の草に触れそうです。

リフトでGO

こちらがリフトからの眺めです。
ほんとうはもっと気持ちのいい眺めなのですが、写真には草しか映っていませんでした。
ちょっと残念です。
いずれにしても、リフトでの山登りはなんだかワクワクしますね。
しかも天気がいいだけに、気持ちも高ぶります。

リフトは途中からかなりの急勾配になります。
ふりかえると、麓の景色がとてもきれいに見えましたが、
傾斜がきついだけに、高所恐怖症の私は、ビビってしまいました。
(なので、写真も撮れませんでした)

こうして無事、終点に到着。
が、リフトの終点は頂上にあるわけではなく、
このあとは徒歩行軍でさらなる高みを目指します。

すばらしい眺め

山道の途中からは、琵琶湖を見渡すことができました。
青い空に青い湖面、まさに胸のすくような眺めです。

近江側を見る

こうして歩くこと数分、無事、頂上に到着しました。
ここからは、近江側の大地を見渡すことができます。
目を凝らすと、浅井長政の居城『小谷城』のある小谷山や、
信長が小谷城を攻めるさい本陣を置いたという、虎御前山も見ることができます。
それにしても、この日は、ほんとうに気持ちいい晴天でした。

ちょうどそのとき、頂上にいた歴史ガイドの方が「解説しますよ~」と、
周囲に声をかけていたので、さっそく、お話を聞かせていただくことにしました。

余呉湖の古戦場を見渡して

解説は、琵琶湖の北にある余呉湖が見渡せる場所で行われました。
つまり、こちらが、賤ヶ岳の戦いの主戦場になるとのことです。

この戦いは、余呉湖からさらに北に位置する、
権現峠という峠から、東野山砦という場所を結ぶラインで、行われたようです。
私は、秀吉の本陣がふもとの木之本地蔵院にあったと聞いていたので、
秀吉は木之本周辺に陣を置き、勝家がこの賤ヶ岳に陣を敷いたのかな、などと、
勝手な解釈をしていましたが、それはまったくの間違いでした。
不勉強を恥じ入るばかりです。

ここ賤ヶ岳には、秀吉方の桑山春重という武将の陣が合ったそうで、
柴田勝家の本陣は、ずっと北の福井県との県境あたりにある、
玄蕃尾城という山城だったそうです。

戦いの様相としては、双方、要塞化した砦や城に籠って篭城する、というもので、
このようなかたちの戦闘は、日本史上的にも珍しいとのことでした。
双方が立てこもる篭城線においては、先に動いたほうが不利になるといいます。
ですので、両軍とも目立った活動を控え、よって膠着状態が続くことなります。
そんな折り、秀吉が岐阜方面へと兵を下げ、それを好機と見た柴田勝家側の武将、
佐久間盛政が攻勢に出ます。
この攻撃により、秀吉方の中川清秀が討ち死にし、
秀吉配下の他の武将も苦戦を強いられます。

ところが、岐阜への途上にあった秀頼は、この一件を知らされるとただちに転進。
賤ヶ岳へと取って返します。
そのスピードは佐久間盛政の予想を遥かに上回るもので、
いわば、中国大返しの再現をここでもやってみせた、ということになります。
後に、この秀吉の高速転進を『美濃大返し』と呼ぶようになったそうです。

佐久間盛政は、戻ってきた秀吉軍と激突します。
その戦闘の最中、柴田勝家側についていた前田利家が、独断で撤退してしまったため、
柴田側は総崩れとなってしまうのです。

じつは、このブログには書いていませんが、昨年、MINIで余呉湖を一周し、
その後、国道365号線を通って、福井県側に抜けたことがありますが、
このとき、知らず知らず、柴田側、秀吉側の最前線を横切っていたことになります。
今度同じ道を通るときは、そのことを念頭に入れておきたいですし、
できれば、周辺の砦跡も見てみたいものです。

というわけで、賤ヶ岳を思いっきり堪能し、いざ、下山しようと思ったのですが、
ショートカットの険しい坂道を通ろうとしたとき、ヨメが足をとられて大転倒。
足をくじいてしまいました。
まさに、賤ヶ岳で名誉の負傷です。

そんなわけで、帰りもリフトに乗っていこうかと思ったのですが、
ヨメによると、歩けるからだいじょうぶ、とのことなので、
登山道を歩いて下山することにしました。

下りの山道

こちらがその登山道です。
木漏れ日が美しく、また、つづら折れの道がなんとも楽しいです。
途中、登ってくる登山者と何度もすれ違いました。
歩いて登る人も、ことのほか多いようです。

リフトを仰ぎ見て

道は時折、行きに使ったリフトの軌道と交差していました。
座席の位置が低いので、がんばれば途中乗車できそうな気もしました。

こうして無事下山し、その後は、
MINIで琵琶湖畔をドライブしてみよう、ということになりました。
向かった先は、琵琶湖の西岸の高島市方面です。

すばらしい青空

このコースは、GWのときにもMINIでドライブしましたが、
湖畔道路は信号もなく、交通量もさほど多くはなく、それでいて眺めは素晴らしく、
まさに絶好のドライブコースです。

湖畔のMINI

MINIも快調で、とても気持ちよかったです。

ところが、ヨメの足首がまたしても痛みだし、
途中、薬局によって湿布を買って帰ることに。
でもそのまま帰るのはちょっとさみしいということで、
いま来た道を引き返しつつ、今度は琵琶湖の東岸へと向かい、
そのまま、彦根まで向かって走ってみました。

快適ドライブ

というわけで、賤ヶ岳古戦場見学に加え、琵琶湖湖畔をドライブするなど、
とても楽しい一日を過ごしてきました。
とくに、琵琶湖湖畔ドライブには、またぜひ、いきたいものです。



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引揚記念公園

梅雨にはいったばかりなのに、どういうわけかお天気に恵まれた先日の日曜、
ヨメのプジョーで、京都府の舞鶴へと、ドライブがてら出掛けてみました。
本来であれば、MINIでお出かけをしたいところでしたが、
先日、コイン洗車場でMINIを高圧洗浄機で洗車したさい、
前面ヘッドライト下部の塗装が、一部、塗膜内に侵入した錆によってはがれてしまい、
いまはまだ、その補修がまだ終わらないため、今回はプジョーでのドライブとなりました。
(MINIの補修の詳細についても、できれば後日、このブログで取り上げたいと思っています)

もっともこの日、当初から舞鶴に向かうという計画はなく、
なんとなく、愛知県の蒲郡方面に行ってみようということになっていました。
が、朝のうちは、空にはどんよりと雲がたれ込めていて、
こんなお天気のもとであっては、海岸沿いの景色も、
あまり楽しめないのではないのか、という思いがあり、
急遽、目的地を変更した、というわけです。
(このために、けっこう時間をロスしてしまいました)

というわけで、南の国道23号線に向かっていたところを反転し、
国道21号線に戻って西に向かい、その後、関ヶ原で国道365号線へと入り、
琵琶湖の北端を目指します。
そこから国道8号線に入って、福井県の敦賀市へ。
敦賀市からは国道27号線に乗り換え、ひたすら南東方向へと進みます。

道中、どんよりと曇っていた空ですが、日本海側に出ると、
雲がしだいに取り払われ、敦賀に到着する頃には、すっきりとした青空が、
広がるようになりました。
この日の天気予報では、愛知県の豊橋市は曇りとなっており、
その予報が正しいとすれば、近隣の蒲郡市も、お天気はよくなかったかもしれません。
やはり、目的地を日本海側に変更したことは、天候という面からいえば、
正解だったかもしれません。

五湖の駅

そして途中立ち寄った道の駅『五湖の駅』で昼食。
お天気がよいせいか、行楽客でとても賑わっていました。

その後も国道27号線を京都府方面に向かって進み、
いよいよ、舞鶴へと入ります。
私にとっては、人生初の舞鶴訪問となりました。

その舞鶴と聞いて、私の頭に真っ先に頭に浮かぶのは、
かつて旧満州に取り残された棄民が引き揚げてきた場所だということです。
また、シベリア抑留者たちも、この地に引き揚げてきたかと思います。

私の母、また母方の祖母は、満州からの引揚者ですが、
日本に到着した港は、佐世保だったと聞いています。
ですが、この舞鶴にも、引揚者を身内に持つ者として、
なにか特別な感情とでもいうべきものがあります。

ですので、舞鶴の港には、とても強く行ってみたいと思いましたし、
そこには、なにかしらの記念碑のようなものがあるのでは、と、推察しました。

そんなわけで、あまり気乗りしないヨメを説き伏せて、舞鶴港に向かおうとしましたが、
その道中、引揚記念館という看板が目に入りました。
やはり、舞鶴には、引揚者にまつわる資料館的な施設があるようです。

引揚記念館

というわけで、さっそく、記念館に行ってみました。
駐車場には大型観光バスなどが入っており、思いのほか見物客がきているようでした。
こうした施設に関心や興味を持ってくださる方がいることは、
私にとっては、うれしいことでもあります。

○ 舞鶴引揚記念館のサイトはこちらです ~

施設は、近代的なとても立派なものでした。
折しも、シベリア抑留者たちの記録が、ユネスコの記憶遺産に登録されたこともあり、
より多くの人の関心を集めているようでもありました。

抑留者の送られた地域

施設内に入るとすぐ、満州やモンゴルを含む、
ロシア (旧ソ連) 全土の地図を写した、大きな絨毯があります。
そこには、シベリア抑留者たちが送られた、
収容所のある地域が記されています。

満州とは、中国の東北部を指す言葉ですが、
ここにはかつて『満州国』と呼ばれた国家がありました。

日露戦争後、ロシアが満州にもっていた鉄道権益と、
遼東半島の先端部が、租借地というかたちで、日本のものとなります。
日本政府は、この鉄道を半官半民の特殊会社『南満州鉄道株式会社』として、
満州経営の足がかりとします。
また、この鉄道沿線と、租借地である関東州 (遼東半島先端部) を守るため、
『関東軍』と呼称される、日本の出先軍隊が組織されます。

ところが、南満州鉄道株式会社の権益は、
満州に台頭してきた地方軍閥などによって、たびたび侵されることになり、
この事態に業を煮やした『関東軍』は、自ら南満州鉄道の線路を爆破し、
それを相手の仕業だと宣伝する、いわゆる謀略工作をもって、
一気に満州全土を支配することをもくろみます。

関東軍はまたたくまに満州を占領。
その後、清国の廃帝『溥儀』を擁立して、独立国家『満州国』を建国させるのです。
もっとも、この国は、日本の支配下で作られた、完全な傀儡国家でした。

日本政府は、資源の供給基地として、満州国を開拓する必要に迫られます。
そのため、日本各地の農村などから、広く人を集め、満州へと入植させます。
同時に、満州国防衛の要として、関東軍を大幅に増強させ、
北の大国ソ連への守りとして、総勢70万の大精鋭軍へと成長させます。

昭和20年、ソ連は日本との条約を一方的に破棄して満州に攻め込みました。
このときすでに関東軍は弱体化しており、ソ連軍の侵攻の前になすすべもなく、
満州全土にいた日本の入植者は、塗炭の苦しみを味わうこととなります。
この日本の民間人たちが、いわゆる満州棄民であり、
満州からの『引揚者』と呼ばれる人たちになります。

また、ソ連軍に武装解除された関東軍将兵らは、
日本がポツダム宣言を受諾し敗戦したあとも解放されることはなく、
逆に、シベリアなどのソ連領内に移送され、
そこで、過酷な重労働を、数年に渡って強いられることになります。
この人たちが『シベリア抑留者』と呼ばれることとなります。

軍隊手帳などの資料

舞鶴の引揚記念館は、
これら満州引揚者と、シベリア抑留者の資料展示に特化した施設です。
その展示品は (資料的価値の高いものは) それほど多くはないと思います。
というのも、シベリア抑留者たちは、日本に返されるさい、
筆記されたものを持ち帰ることを許されませんでした。
そのようなものを持っていれば、即刻スパイ扱いをされ、日本への帰国は遠のきます。

それでもなお、決死の覚悟で、木の皮に記した収容所での記録を、
持ち帰った例もあり、実際に展示もされていました。

ラーゲリの様子

館内のスタッフの方から説明を受けたところ、収容所内では、就寝のさい、
およそ二畳の広さに、六人が寝かせられたといいます。
また、冬場の水不足は深刻で、川から水を汲んできても、途中で凍ってしまったといいます。
それがために、極端に不衛生で、ノミ、シラミが発生し、
チフスなどの疫病が蔓延したといいます。

厳冬のラーゲリ

食事も粗末なうえに、森林伐採などの重労働を課せられ、ノルマが達成できなければ、
さらに食事を減らされるというペナルティがあったといいます。
まさに、生き地獄のような様相であったかもしれません。

引き揚げ船の模型

展示品のなかには、引き揚げ船に使われた船の模型も多数展示されていました。
また、撮影は不可でしたが、抑留者が実際にシベリアで描いたという、
水彩画もありました。
実際に現地で、ソ連側から筆や絵の具を支給されて描いたとのことで、
奇跡的に持ち帰ることができたといいます。
いわば、現場での生の情報であり、極めて貴重な資料だといえます。
しかも、描いたご本人は、いまも存命中とのことで、たいへん驚きました。

舞鶴のジオラマ

こうして、スタッフの方から詳しいご説明をそれぞれいただき、
各展示物をつぶさに見学させていただきました。
とても意義のある時間を過ごすことができました。

その後、施設近くにある、
引揚者たちが上陸したという桟橋 (復元物) に行ってみることしました。

望郷の地

こちらが、その桟橋からみた光景です。
晴天ということもありますが、まさに、息をのむほどの美しさです。
戦後間もない頃と、いま現在とでは、あたりの景観は大きく違うでしょうが、
満州から引き揚てきた人たちや、シベリア抑留者の人たちは、
この同じ光景を船上から見て、恋いこがれた祖国に帰ってきたことを実感し、
涙したことと思います。

同時に、この光景を見ることなく、無念にも、
大陸の曠野で、また厳寒のラーゲリで、命を失った方も数多くいたのです。
それを思うと、私も胸が熱くなりました。

また、引き揚げ記念館のスタッフの方から教えていただいたのですが、
我が岐阜県にも、満州棄民をとりあげた資料展示施設が作られたとのことです。
おそらくは、私が以前行った、長野県の満蒙開拓記念館の創設に、
影響を受けたということもあったかもしれません。

○ 満蒙開拓記念館訪問の記事はこちらです ~

長野県は、満州への移民がもっとも多かった県ですが、
我が岐阜県も、私の祖父母をはじめ、多くの人たちを満州に送り出しています。

帰宅後、ネットなどで調べたところによると、どうやら高鷲村に、
たかす開拓記念館という施設があるようです。
私にとって、祖父母の満州行きについては、いまだにわからないことが多く、
(祖父は岐阜県の焼石というところで、役場職員をしており、
 人を集めて満州に送るという、そのような役目をしていたらしいです)
もしかすると、何か資料があるかもしれません。

いずれにしても、この施設もぜひ訪ねてみたいと思っています。
その暁には、またこのブログで紹介したいと思います。



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垂井町講演会

前回も少し触れましたが、びわこジャズ東近江に行った翌日の日曜、
岐阜県の垂井町 (たるいちょう) というところで開かれた、
『世界一受けたい “関ヶ原合戦”』という講演会に行ってきました。
この講演会の講師は、Qさま、鉄腕ダッシュ!といった、
テレビのバラエティー番組で活躍されている『河合敦』さんという方で、
開催場所の垂井町は、戦場となった関ヶ原のすぐ東隣に位置しています。

垂井町は、羽柴秀吉の軍師であった『竹中半兵衛』の生まれ故郷で、
町にはいたるところに、竹中半兵衛の名を大書したのぼりなどが立てられおり、
また、関ヶ原合戦の前、会津征伐に向かおうとしていた大谷吉継が、
石田三成の説得を受け、西軍への同心を決意した場ともいわれています。

加えて、この垂井町には、関ヶ原合戦のさいに、
毛利、吉川、長宗我部、安国寺恵瓊、などが布陣した、
南宮山があり、いうなればこの町は、
関ヶ原合戦にも、深い縁を持っているといえます。
そんなわけで、今回、この地で、
関ヶ原にまつわる講演会が開かれることとなったようです。

垂井町文化会館

この日は、前日の土曜に引き続き、まさに絶好の行楽日和。
講演会に行くには、ちょっともったいないような日でもありましたが、
せっかくの青空を少しでも満喫できればと、ひさしぶりにMINIで出掛けました。
(ヨメは歴史の講演には興味がないので、この日は別行動にしました)

MINIで行く

講演会は午後2時からの開催となっていましたので、それまで、
垂井町から関ヶ原にかけて、しばらくドライブしてみました。
ですが、この地域の主要道である国道21号線がけっこう混んでいましたので、
早々に会場である垂井町文化会館に行ってみることにしました。
会場到着は午後一時。
講演会のはじまりまでまだ一時間もありますが、
それでも、駐車場は混み始めていました。

看板

講演会の入場は無料で、整理券もとくに配られません。
告知はそれほど大きく行われなかったようですが、すでにこのとき、
会場の大ホールに続く入口には、長々と行列ができていました。
これはかなり意外でした。
しかも、列をなしているのは、年配の方々ばかりで、
若い方はほとんど見られませんでした。
(この時点では私が最年少だったかもしれません)

時間が経過するうちに列はどんどん長くなり、やがては、
建物の中に収まりきらなくなり、まさかこんなにたくさん人が来るなんて、と、
ちょっと意外な思いがしました。
(みんな歴史が好きなんでしょうか…)

講演開始30分前に開場となり、
ようやくにしてホールの中に入ることができました。
なにしろ一時間前に現場にきて並んでいたので、
ステージから近からず遠からずの、まあまあよい席に陣取ることができました。
こうして、講演会が始まる頃には、開場はほぼ満杯となってしまい、
立ち見も出るほどの盛況ぶりを見せることとなりました。
これなら、講師の先生も、講演のやりがいがあるというものでしょう。

大谷吉継を描いた墨絵

ちなみにこのホールの壁面には、見事な水墨画が掲げられています。
聞けば、大谷吉継と、大谷とともに戦った平塚為広の絵だそうです。
かっこいいですネ。

そして定刻通り講演は始まりました。
講師の河合敦さんは、まず最初に、ここは関ヶ原に近く、
また、歴史への関心も高い地域なので、関ヶ原合戦にとても詳しい方も、
多数いらっしゃるのではないかと思います。
そんな場所で講演をさせていただくというのは、なにやら、
ちょっと怖い気もします、といったような趣旨のことをおっしゃっていました。

講演開始

講演は、本能寺で織田信長が討たれるあたりから始まりました。
その後の、秀吉の中国大返し、清洲会議、
そして秀吉が織田家筆頭家臣であった柴田勝家を、賤ヶ岳で破り…、といった具合に、
秀吉が天下人になるまでのいきさつを、お話しされました。
講演はステージ上のスクリーン画面とリンクしており、
とてもわかりやすいものでした。

そのとき、ちょっと気になったのは、小牧長久手の戦いのお話です。
講師の河合さんは、織田信長の次男である信雄を『のぶお』と、
発音していらっしゃいました。
これは『のぶかつ』ではないかと思うのですが…。
たしかに河合さんも『のぶかつ』とも読みますが、
といった説明を入れていましたが、のぶおという発音は、
私としては、はじめて聞きました。

そして話は、秀吉の死後、五大老のひとりであった徳川家康が、
横暴を極めていく過程へとさしかかります。
このあたりの話をすると、どうしても、家康は悪者になりますよね。
河合さんのお話も、どうしてもその傾向を帯びるようです。

そんなわけで、関ヶ原の合戦に至る経緯に、多くの時間が割かれ、
関ヶ原合戦当日の詳細な話については、
今回の講演では、期待したほど触れられませんでした。
そのうえで、講演場所が垂井町ということもあり、
南宮山に布陣した、毛利、吉川、などについては、
比較的、ウエイトを置いてお話をされていたかと思います。

講演は全部で一時間半ですが、そのなかでも、
町長や観光協会の方などの挨拶、質疑応答があったため、
正味時間という点では、それよりも、短かったかと思います。
この時間の中で、関ヶ原の戦いに至る経緯や、
合戦当日の各武将の戦いの状況を話すのは、
ちょっと無理があったのかもしれません。
(七将による石田三成襲撃事件などは、まったく触れられませんでした)
なので、もっとポイントやテーマを絞った講演のほうが、
よかったのかな、とも思いました。
ただ、そうすると、マニアックになりすぎて、お客さんの集まりは、
悪くなってしまうのかもしれません。

とにもかくにも、盛況のうちに講演会は終了しました。
その後は、ふたたび、好天を楽しもうと、ひとりMINIに乗り、
滋賀県方面へと向かってみました。

木之本町の駅で

というわけで、以前にも行った木之本町まで行き、そこから、
浅井長政の小谷城跡をかすめつつ、帰ってきました。

こうした講演会があれば、また、ぜひ行ってみたいと思います。



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大樹寺山門と桜

先週末、徳川家康にゆかりのある『大樹寺』という寺に行ってきました。
大樹寺は、愛知県岡崎市にあり、浄土宗のお寺だといいます。

苦労人として広く世に知られる徳川家康ですが、
その世評の通り、家康は、幼少期の頃より、
尾張の織田の人質となったり、またその後は、
駿河、遠江を支配する守護大名「今川義元」の人質になるなど、
過酷な運命に翻弄されてきました。
この今川氏が、尾張を目指して侵攻すると、
若き家康 (当時は松平元康と名乗っていました) も、
今川方の名を受け出兵し、織田方の支城を落とすなど、
活躍を見せたといいます。

ところが、今川方の総大将である義元自身が、
桶狭間で、織田信長の奇襲攻撃によって打ち取られると、
大軍であったはずの今川軍はあえなく潰走…。
元康はこれを機に、今川方からの離反を決意し、
迫る織田軍の気配におびえつつも、
自らの領地である三河へと戻ることとなります。

元康は戻った三河の地で、まず最初にこの大樹寺に立ち寄り、
先祖の墓前の前で、織田方に打ち取られるくらいならと、
自害しようとしたといいます。
ところが、大樹寺の住職は、元康に「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説き、
早まった行為を思いとどまらせたといいます。

以後、元康 (家康) は、あらゆる戦場において、
この「厭離穢土 欣求浄土」の文字を旗指物として用い、
ついには、天下人秀吉に成り代わって、政権を握るに至るのです。

桜並木

この日は、春まっただ中の日曜だったわけですが、
前日の土曜から天候には恵まれず、一夜明けても、雨の気配が色濃く残っていました。
そんな、よろしくない日和にもかかわらず、取り敢えず出発。
途中、堤防道路を走りつつ、壮麗な桜の並木を見物したりしました。
(ちなみにこの日は、ヨメのプジョーにて出発しました)

その後、国道23号線に入り、名古屋市をすぎたあたりで国道1号線にスイッチ。
先日、MINIで岡崎市の味噌蔵を見学に行きましたが、そのときと、
ほぼ同じルートをとることになりました。

が、岡崎市を目前に道は大渋滞。
どうやら、岡崎城のある岡崎公園で、桜にまつわるイベントがあるらしく、
渋滞はそのためと思われました。

というわけで、少し時間をロスしてしまいましたが、
国道1号線から、国道248号線に入って北上。
ほどなくして、大樹寺に到着することができました。

大樹寺到着

が、やはりというべきか、大樹寺はかなりの人出で、駐車場は満杯。
かと思いきや、駐車場の奥にも、クルマが止められるスペースがあり、
なんとか、駐車することができました。

山門

こちらがその大樹寺の山門です。
建立されたのは、家康の孫である三代将軍家光の時代だそうですが、
大樹寺は火災で焼失しており、いまの建物は安政に再建されたものだといいます。
ですので、この山門も、後に再建されたものなのかもしれません。
(それとも、当時のオリジナルなのでしょうか…)

大樹寺

おりしも、ちょうど桜が咲いており、この地を訪れるには、
まさに絶好の時期だったかもしれません。
写真では、なんとなく青空っぽく見えますが、実際には、
けっこう曇っていて、このお天気だけがちょっと残念です。

というわけで、さっそく本堂のなかへ。
本堂には阿弥陀如来像が鎮座しており、その左右には、
金色の板に濃い緑の文字で「厭離穢土 欣求浄土」と大書してありました。
この文字を見るだけで、家康ゆかりの寺、という雰囲気が、
いやがうえにも醸し出されています。

本堂より先は拝観料が必要とのことですので、拝観料 (大人400円) を納めて、
奥へと見学に行くことにしました。

これより先は撮影が禁止されているため、
残念ながら、写真はまったくないのですが、
奥にある収蔵庫には、ふすま絵などが展示、保管されており、
また、宝物殿には、ご本人の身長と同じ寸法で作られた位牌が、
並べて展示されています。

昨年の夏、岡崎城公園にいったさい、案内をしてくださった観光ガイドさんから、
大樹寺の位牌のことを聞いていましたので、今回、こうしてようやく見学ができ、
感無量といった思いでした。

このなかで、とくに興味深かったのは『生類憐みの令』で知られる、
五代将軍綱吉の位牌です。
この位牌だけ、極端に高さが低いのです。
位牌の前に置かれた解説文によると、高さは約1メートル29センチとのこと。
(ほかの位牌は、ほぼ1メートル50センチ強といったところです)

これらの位牌は、きわめて正確な身長を再現していることが、
歴代徳川将軍の遺骨の調査結果と比較することで、証明されているといいます。
ということは、やはり、綱吉は、成人としては飛び抜けて小柄だったようで、
前出の解説文によると「綱吉の身長に対するコンプレックスが、
生類憐みの令につながったのではないか」とも記されていました。

また、最後の将軍である「徳川慶喜」の位牌がありません。
これはとても意外でした。
まあ、慶喜は、在位一年ほどでしたし、
もちろん、将軍として亡くなったわけでもないので、
唯一の「位牌がない将軍」ということも、納得できないわけではないのですが、
大政奉還を行った将軍として、極めて有名な人物ですし、
位牌がないというのは、なんとも解せない…、
というか、さみしい思いがしました。

ちょうどこのとき、位牌の展示室では、テレビ (NHK) のロケが行われており、
どうやら私は、撮影の邪魔をしてしまったようです。
それにしても、どんな番組のロケだったのか、聞いておけばよかったと、
いまさらながら、思うばかりです。
(もしかすると、大河ドラマの最後に流れる名所紹介かも…)

空も晴れて…

こうしてひととおりの見学を終えて、寺の外に出ると、
雲が晴れて、青空を見ることができました。
もっと早く晴れてくれればよかったのに、と、思うばかりです。

はるか彼方に岡崎城

このとき初めて気がついたのですが、ここ大樹寺からは、
山門を経て、まっすぐ前方に岡崎城が見えます。
近くにいた人たちも、みな、この景色を写真に収めたりしていました。
(もっとも、私が撮ったこの写真では、彼方の岡崎城は見えませんが…)

桜と青空

というわけで、そもそもの出発が遅かったがために、
このときはすでに夕方。
天候は尻上がりに回復してきましたが、結局その後は、どこにも立ち寄らず、
名古屋市を経由して、岐阜市へと帰ってきました。

それにしても、石田三成ゆかりの地にもずいぶん行きましたが、
家康ゆかりの地にも、思えばけっこう行っていますね。
岡崎城も行きましたし、浜松城や、関ヶ原の桃配山、陣場野、などにも行きました。
これからも、歴史に名を残している場所を、探訪したいものです。



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石田三成公出生地

早いもので、気がつけば、すでに12月に突入してしまい、
2016年も、あと一ヶ月を残すばかりとなってしまいました。
今年は、どういうわけか、いつもの年よりも、
なんだかずっと時の経つのが早かったように思います。
(…というか、今年一年、いったいなにをしてたのか、と、いまさらながら思います)
いずれにしても、この年末も、書きたいネタはいっぱいあるのですが、
それらはまたおいおいアップすることにして、
そのまえに、まずは先月の出来事などをご紹介したいと思います。

今年の五月から、滋賀県内の各会場を使って行われていた、
石田三成にまつわる企画展『MEET三成展』について、
当ブログではすでに二回ほどとりあげていますが、この企画展が、
先月末をもって終了となりました。
メインとなる三つの展示会場については、すてに見て回っているのですが、
今回は、サブ会場を順に巡ってみることにしました。

なぜ、そうまでして展示会場を巡るのか…、というと、
この企画展では、スタンプラリーも行われており、
計九つのスタンプを集めると、コンプリートになるということで、
ここまできたら、全部のスタンプを集めてみたいという気持ちが、
日々強くなってしまったからでもあります。

というわけで、まずは、長浜市石田町にある「石田会館」という施設に、
いってみることにしました。
石田町は、かつては石田村と呼ばれていた地域だそうで、
石田三成の生誕の地でもあるそうです。

石田会館

こちらがその石田会館です。
岐阜市の我が家から車で一時間半ほどで到着しましたが、
途中、かなり道が細いところもあり、
この道に入っていってだいじょうぶ?、と、ちょっと戸惑ってしまいました。
(でも、ちゃんと無事にたどり着きました)

館の手前が駐車場になっており、普通車であれば、
六台くらいが止められるスペースがあります。

この場所は、かつて石田三成のお屋敷があった場所でもあるそうです。
住所をよく見ると『長浜市石田町治部』となっており、
なんと、三成の官職名である『治部』の文字がつけられています。
それだけでも、この地域が、三成ゆかりの地であることを、強く物語っています。

郷土の名士である三成を讃え、ゆかりの展示物を納める場所としては、
まさに、うってつけであるといっても過言ではありません。

三成公歌碑

しかも、石田会館の敷地内には、このような歌碑まで建てられていました。
横柄者 (へいくわいもの) と呼ばれ、極めて敵の多かった三成ですが、
その才能は領国経営においても遺憾なく発揮されており、
領民に対しては、温情といたわりのある政策をとったといわれています。
関ヶ原の戦い以後、天下の大罪人として、徹底的に名誉を落としめられた三成…。
しかし領民は、徳川の時代になっても、密かに、三成を慕い続けたようです。

おりしもこのときは、空模様こそいまひとつでしたが、紅葉が美しく、
秋の深まりを感じさせる一日でした。

石田会館展示室

館内には三成にまつわる展示や、ビデオ映像などが流されていました。
また、撮影は禁止されていましたが、三成の生涯を絵にまとめた、
巻物の複製なども展示されていました。

小学生の力作

また、小学生の女の子が書いたという、三成にまつわる研究記録もありました。
そのページ数は膨大で、関ヶ原の戦いの東西両軍の戦力や、その顛末なども、
詳しく記してありました。
おそらく、執筆者の女の子は、将来は立派なミツナリストになることでしょう。

会場に詰めていた地元の男性が、館内を案内してくれたり、
三成の逸話や地域の伝承を、いろいろとお話をしてくださいました。
聞けば、この石田会館は、もともとは地元の公民館だったそうなのですが、
三成にまつわる品などを展示するなどして、一般の方にも、
解放するようになったとのことです。

この場所は、決して、交通の便利なところではないのですが、
それでも、この石田会館には、全国から多数の人が詰めかけており、
私たちが館内にいたあいだにも、
若い女の子や、母子の来訪があったりしました。

というわけで、ひとしきり館内を見学させていただいただき、
MEET三成展のスタンプをもらって、そのあと、
すぐ近くにある、三成の産湯を汲んだという井戸へ行ってみることにしました。

三成公の産湯

こちらがその井戸です。
民家のあいだにひっそりと佇んでいました。
この井戸は、平成12年位、復元されたものだそうです。

その後は、石田一族の供養塔があるという八幡神社に行ってみました。
かつて、この神社の地中からは、
意図的に破壊されたらしい五輪塔などが発見されたそうで、
調べたところ、それらは三成にまつわるものであると推察されたといいます。
おそらく、関ヶ原以後、村人たちは、徳川方から目を付けられるのを恐れ、
やむなく、五輪塔などを破壊して埋め、隠したものと思われます。
それでもなお、長きに渡って、密かに供養をされてきたといいます。
というわけで、私たちも、供養塔のまえで手を合わせてきました。

石田神社

毎年11月には、ここで法要が営まれるそうで、
そのときには、全国各地から、三成に思いを寄せる人たちが、
多数集まるといいます。
私も、来年は、法要に行ってみたいと思ってしまいました。

佐和山のふもとの寺

その後は、彦根市の龍潭寺へと行ってみました。
こちらも、紅葉がちょうど見頃でしたが、時間的にちょっと遅くなってしまったので、
MEET三成展のスタンプをいただいたあと、早々に立ち去ってしまいました。
次回は、もっと早い時間にきて、できれば、佐和山城趾に登ってみたいものです。

そのあと、日を改めて、残るスタンプラリーポイントへと足早に行ってみました。
まずは、米原市の松尾寺へ。
そしてその足で、彦根市の治部少丸へと行ってみました。

彦根治部少丸

治部少丸は、メイン会場ではないのですが、展示については、
彦根城そばの開国記念館よりも、内容が濃いように思われました。
室内にはジオラマなどもあって、とても楽しいです。

最後はMINIで出発

そしてまた日を改め、最後のスタンプポイントである、
米原市の成菩提院へと行ってきました。
前の二回は、ヨメのプジョーで出掛けましたが、
この日は私のMINIでお出掛けしてみました。

成菩提院

というわけで、成菩提院でスタンプをゲット。
これで、九つすべてのスタンプがそろったことになります。

スタンプラリーをやってみたのは、今回がはじめてなのですが、
やっぱり、こうしてスタンプがそろうと、なんというか、
ちょっとした達成感みたいなものがありますネ。

ただ、この成菩提院では、スタンプラリーの記念品はもらえません。
というわけで、以前にも行った観音寺へと行ってみることにしました。
観音寺は、三つあるメイン会場のひとつであり、ここであれば、
記念品を受け取ることができます。

大一大万代吉クリアファイルゲット

というわけで、観音寺会場で記念品をゲット。
記念品は、大河ドラマ『真田丸』で石田三成を演じている、
山本耕司さん直筆の大一大万代吉が大書された、クリアファイルでした。
また、九つすべてのスタンプを集めた人には、
豪華賞品があたる懸賞に参加ができるとのことで、さっそく、
応募してきました。

その帰り道、関ヶ原を通ったので、まだ一度も行ったことがなかった、
桃配山へと立ち寄ってみることにしました。

桃配山は、関ヶ原の戦いのさい、徳川家康が最初に陣を置いたところです。
関ヶ原主戦場より、かなり東に位置するので、
関ヶ原合戦祭りのときも、この桃配山に行くことはできませんでした。
というわけで、念願の桃配山来訪です。

といっても、国道21号線のほんのすぐそばで、駐車場にMINIを止めたら、
徒歩二分ほどで着いてしまいます。

桃配山-徳川家康最初陣地

ここが桃配山徳川家康最初陣地跡です。

山内一豊陣跡

そのあと、すぐそばにある山内一豊陣跡にも行ってみました。
山内一豊は、南宮山に陣取った、
西軍の毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、ら諸隊の、
いわば『抑え役』として、この地に配されたようです。

しかし、吉川広家はすでに徳川方に内通して、不戦の約束をしており、
それどころか、山上に陣取る毛利秀元の軍勢が下山するのを阻止し、
結局、関ヶ原の戦いの当日、いかなる戦闘もしないままに終わりました。

よって、山内一豊の軍勢は、南宮山の西軍とは鉾を交えることはなく、
関ヶ原の戦いの終盤に至っては、この地を引き払っているようです。

というわけで、関ヶ原合戦祭り2016以後は、お休みがくるたびに、
石田三成にまつわる史蹟を見て回る秋でした。

来年は、真田の史蹟を見て回りたいなあ、などと、
いまから、夢見ています。



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