北信濃の決戦の地

5月の連休が過ぎた後、非常に忙しくなってしまい、毎週土日も仕事に追われ、
いまやお出かけも、まったくままならなくなってしまいました。
MINIに乗ってドライブ、などということもできず、日々、事務所に缶詰…。
こういう生活は、ちょっとストレスがたまりそうです。
3月は暇だったわけで、お仕事が平均してくれるとありがたいんですが、
なかなかそうはうまくいかないようです。

そんなわけで、今月は思うようにブログも書けず、というよりも、
なによりネタがないわけですが、一応、前回も予告しましたように、
今回も「なにをいまさら」という感じですが、GWのことについて、
あらためて振り返ってみたいと思います。
(今回の記事も、少しづつ書いては中断し、また再開して、という感じで、
本日、どうにか、アップまでこぎつけました)

今年の連休は、前半は好天に恵まれましたが、その後、変わりやすいお天気になり、
後半の二日ほどは、ふたたび青空を見ることができたかと思います。
その最後の二日間のうちの土曜に、長野県の有名な古戦場『川中島』に、
行ってきました。

私は、独身の頃から、長野市には頻繁に行っており、
また結婚したあとも、善光寺や戸隠神社などに、何度となく行ったりしています。
(もっとも、戸隠神社はここ最近行くことができていませんが)
ところが、長野市近郊の川中島には、いままで一度も行ったことがなく、
今回がはじめての来訪となりました。

というのも、HHK-BSで放送されていた、大河ドラマ『武田信玄』や、
内野聖陽サン主演の『風林火山』などを見て以後は、一度は、
この北信濃屈指の激戦地である川中島に行ってみたいと思うようになっていました。
そしてようやく、今回の連休で、念願が叶ったという次第です。

目指すは、第四時川中島合戦の舞台となった、八幡原です。
とはいっても、当初はその位置がよくわからず、
大河ドラマの劇中に登場した双方の軍勢の布陣図を、頭に思い描きつつ、
道をたどることにしました。

八幡原は、たしか、善光寺平の南東方向で、千曲川の北になっていたかと思います。
というわけで、国道19号を進み、長野市の市街地の南を、東に向けて走りました。
そうこうするうちに、茶臼山、という案内看板が出て来ました。
茶臼山といえば、武田の軍勢が最初に布陣した場所のはずです。
ということは、上杉側が布陣した妻女山も近いはずです。
ルートはどうやらこれで正しそうです。

そうこうするうちに、川中島古戦場という案内看板が見えてきました。
やはり、これで正しかったようです。
というわけで、案内看板に沿って道を右折。松代方面へと向かいます。
松代は、八幡原に布陣する前の武田勢が入った海津城がある場所でもあります。

川中島古戦場駐車場

というわけで、思いのほかすんなりと、川中島古戦場に到着。
が、GWということもあってか、あたりは賑わっており、駐車場は満杯。
今回は待っていても、なかなか空きがでません。
が、どうにかこうにか無事駐車することができました。

佐久間象山像

あたりは公園になっており、幕末、松代藩の開明的な人物として名を馳せた、
佐久間象山の像が立っていました。
それにしても、雲ひとつない晴天ですね!。

いざ、川中島へ

というわけで、さっそく、海津城を出陣した武田勢が、
上杉勢との決戦に挑むため布陣したという、八幡原社へと行ってみます。

全極最強の名を欲しいままにした武田家は、
もともとは甲斐源氏の流れをくむ名家とのことで、
信玄 (信玄は出家してからの名で、それ以前は晴信と名乗っていました) の父の、
信虎 (のぶとら) の時代に、ほぼ甲斐国を統一していたといいます。
が、信虎は暴君の一面があり、同時に、嫡男である晴信とはソリが合わなかったようです。
家臣もそんな信虎を見限っていたようで、彼ら家臣団と、晴信は、
ともに結託して、信虎を駿河に追放してしまいます。
いわば、息子が父親を追い出すクーデターを行ったわけです。

こうして、武田家の家督を簒奪するかたちで相続した晴信は、
その後、隣国である信濃に目をつけます。
まず、もともと人質を出し合って同盟を結んでいた諏訪頼重を、
諏訪氏の配下にあった高遠頼綱とともに攻略し、
のちに、その高遠頼綱をも打ち破ります。
一方で駿河の今川や小田原の北条とは同盟を結んで、
南の安定を図りつつ、信濃に対しては、奥深くまで軍勢を差し向けます。

信濃の葛尾城主である村上義清などは、頑強に武田に抵抗し、
武田側も苦戦を余儀なくされますが、やがては村上も破り、
武田は信濃を平定するに至ります。
が、北の越後へ逃れた村上は、事実上の越後国主となっていた、
長尾景虎のもとに身を寄せたことで、
武田勢と越後とのあいだで、緊張が高まることになりました。

こうして、武田晴信、長尾景虎は、
北信濃の覇権をめぐって争いを繰り広げることになりますが、
双方とも、総力戦による決戦を避けており、
そのため、にらみ合いと小競り合いのような状態が続いていました。
が、永禄四年の第四次合戦は、ついに総力決戦に至りました。

このとき、長尾景虎 (この当時は上杉政虎という名を使っていたと思います) は、
善光寺平から、千曲川の南の妻女山に布陣し、あえて退路を絶って武田勢を迎えます。
武田も、最初は茶臼山に布陣しますが、その後、重臣の高坂弾正の城である、
海津城に入り、以後、膠着状態となります。

合戦図

この状態にしびれを切らした武田勢は、
自らの軍勢をふたつに分け、一方の軍を闇夜に紛れさせて妻女山に向かわせ、
そこに立てこもる上杉勢を山から追い落とし、北の八幡原へと追い詰める策をとります。
八幡原には、武田の残りの軍勢があらかじめ布陣しており、
そこで、妻女山を追われた上杉勢を挟み撃ちにして討ち取る、
という腹づもりだったといいます。
この作戦は、山にたてこもる敵を追い出してしまうことから、
『キツツキ作戦』と呼ばれたともいいます。

ところが、武田側のこの作戦は、上杉政虎に見破られてしまい、
上杉勢は武田の別働隊が攻めてくるまえに、自ら妻女山を降りて、八幡原に布陣しました。

武田の別働隊が妻女山に登った頃には、すでに山頂の陣地はもぬけの殻。
八幡原に布陣した武田勢は、半分の手勢で、
上杉側の軍勢を引き受けなければなりませんでした。

武田側は絶体絶命になりましたが、それでも、武田は戦線を維持し、
そこに妻女山から急遽駆け下りてきた武田の別働隊が、上杉勢の背後をつくこととなりました。
上杉政虎は、八幡原より兵を引き、善光寺平へと撤退します。

というと、まるで武田が勝ったかのような印象ですが、
武田側は、上杉側を上回る犠牲を出し、また、
武田典厩信繁、山本勘助、諸角豊後守、といった、重臣を失ってしまいます。
戦さ場に踏みとどまったのは武田なので、武田が勝ったといえば、そうなるかと思いますが、
損害の多さを考えれば、勝ち戦とはいえない結果に終わりました。
いってみれば、多大な消耗戦だったのかもしれません。

川中島合戦は、いわばローカルな争い、ともいえると思いますが、
それでも、知名度は抜群で、歴史になんの興味も関心もなかった頃の私でさえ、
その名やよく知っていました。

天下に行方を決めた戦である、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、などよりも、
川中島の戦いのほうが、はるかに有名かと思います。

信玄、謙信、一騎打ちの像

そして、こちらが、あまりにも有名な、武田信玄、上杉謙信、一騎打ちの像です。
この合戦では、軍勢を率いる大将同士が直接対決したということで知られており、
(実際にそんなことが起きたのか、にわかには信じられませんが)
こうして、記念の像が設置されています。

妻女山

そして、この八幡原からは、妻女山を望むことができます。
(境内にいた観光ボランティアの方に、妻女山の場所を聞きました)
奥側の山ではなく、その手前にある少し低い山が、妻女山だとのことでした、
あの山を降りた上杉勢が、この八幡原を目指して、
車懸かりの陣で襲いかかってきたんですね。

というわけで、たっぷりと八幡原を堪能してきました。

長野市博物館

そのあとは、公園内にある長野市博物館に行ってみました。
こちらでも、川中島合戦にまつわる展示や、古代の信濃の遺跡の展示などもありました。
また、太陽系の惑星の詳細な写真や、宇宙観測機の模型の展示なども、行っていました。

美しい公園

それにしても、この場所はとてもいいところです。
お天気もよく、暑くもなく、寒くもなく、ちょうどよい気温でした。

その後は、松代の海津城に向かってみることにしました。
クルマでほんの少しの距離です。

海津城

海津城には、最終的に、武田の家臣であった真田信之が入ることとなり、
その後、名も松代城に改まりました。
真田信之は、大坂冬の陣、夏の陣で徳川に多大の打撃を与えた、あの真田幸村の兄です。
信之は、この松代で、真田は十万石の大名となり、真田家は明治まで存続したといいます。
まさに真田は、難しい時代をうまく生き残った、勝ち残ったのですが、
一方で、徳川を最後まで追い詰めるといった、後世まで残る名声も得ているわけで、
それを考えると、さすが真田、と、感慨も新たになります。

海津城碑文

こちらが海津城の本丸跡だそうです。
GWとはいえ、ここ海津城はそれほど観光客も多くなく、
のんびりした雰囲気が漂っていました。

真田邸へ

その後は、真田邸へ行ってみました。
入場料は300円(だったかな?)と、リーズナブルでした。

真田邸内部

こちらも、それほど混んでおらず、ゆっくり見て回ることができました。
真田といえば、やっぱり上田のほうが有名ですし、そちらはきっと、
大勢の見物客がいたのでは、と思います。

というわけで、川中島を堪能したGWでした。



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青空と岐阜公園

今年 (2018年) に入ってからというもの、あまりお出かけすることもなく、
また、MINIに乗る機会もすっかり少なくなってしまいました。
というのも、ここ岐阜市は、それほど降雪はないものの、
橋や坂の途中などには、車のボディに有害な融雪剤を撒くことが多々あり、
そのため、旧車であるMINIを出すのは、ちょっと気が引けてしまいます。
春になって、オイル交換をすませたら、また、MINIで、
どこかにドライブに出掛けたいと思っていますが、
いましばらくは、それもお預けかな、という感じです。

というわけで、ここ最近は、日曜も家にいて、
読書したり、はたまた模型製作をするなど、引きこもることが多かったのですが、
先週の日曜、好天に誘われて、近場の岐阜公園に行ってみました。
といっても、この公園までは、クルマ (出動車はヨメのプジョーです) で、
ほんの15分ほどで、まさに街中のちょっとしたお出かけといったものとなりました。
ただ、せっかくの機会なので、年末に買った「Nikon 1 J5」も連れ出してみました。

この岐阜公園については、以前にも当ブログでとりあげたことがありますが、
今回は、公園だけではなく、その周辺の地域にまで、
お散歩がてら、足を伸ばしてみることにしました。

公園の無料駐車場は、ほんの少し前までは、砂利と土がむき出しの状態でしたが、
いまではきれいに舗装され、白線のラインもきちんと引かれていました。
日曜には満杯になるこの駐車場ですが、奥側に進めば、余裕を持って駐車できます。
もっとも、春になって桜が咲く頃になると、もっと空きは少なくなるかもしれません。

というわけで、駐車場にクルマを止め、
まずは、長良川沿いに歩いてみることにしました。

川端康成歌碑

こちらは、その長良川沿いにある、川端康成の歌碑です。
なんでも川端康成は、ここ岐阜を舞台にした短編小説を、
いくつか書いているようで、それらにちなんで、この碑が建てられたそうです。
また、すぐそばには、北原白秋の歌碑もありました。

斎藤道三碑

同様に、ここには斎藤道三の名を記した碑も立っていましたが、
この場所は、道三と何か関係があるのでしょうか。
道三といえば、嫡男の義龍との戦いである『長良川の戦い』で、
命を落としたかと思いますが、その合戦地は、この近辺ということなのでしょうか…。
が、この道三の碑にまつわる説明文などは、付近にもいっさいなく、
私も、道三についてはほとんど知識をもたないため、現時点では不明なままです。
せっかく岐阜に住んでいるのですから、道三について、もう少し勉強して、
(とりあえず、司馬遼太郎の国盗り物語は読んでおこうと思っているのですが…)
彼にまつわる史跡などを、今度、ゆっくりと回ってみたいものです。

さて、そのあと、近くに地図看板が見つけたので、それをたよりに、
河原町という古い街並みへと足を踏み入れてみました。

川原町の街並み

こちらがその街並みです。
岐阜市に拠点を移して、すでに二年と半年ほどになりますが、
市内にこんな場所があったなんて、まったく知りませんでした。
なかなか風情のある街並みです。

ただ、晴天の日曜なのに、ほとんど人通りがなく、さみしい限りです。
私の出身地である飛騨高山の古い町並みは、いつもかなりの人出ですが、
それに倣って、岐阜市も、もう少し観光ピーアールする必要があるのかもしれないですね。

その後、ナガラガワ・フレーバーという、
おしゃれなショッピングモールのようなところに立ち寄ってみました。
ここにある『ギャラリー元浜』というお店で、木工作家さんの企画展を見物したりしました。
以前からこの場所には来てみたかったのですが、なかなか、
その機会がなく、今回ようやく念願がかなったという次第です。
ここには、カフェ、お花屋さん、陶芸教室などがあり、
休日には、多くの人で賑わっています。

そしていよいよ、今回のお目当てだった岐阜公園に。
お天気もいいため、園内にはたくさんの人が来ていました。
また、この公園には、無料のボランティアガイドさんがおり、
誰でもガイドをお願いできるそうです。

というわけで、さっそく、ガイドをお願いすることにしました。
とはいえ、すでに時間を使ってしまっていたため、今回は、
岐阜城や周辺の町の案内をオミットした、いわばショートバージョンで、
ガイドをお願いすることにしました。

まず最初に訪れたのは、山内一豊と、その妻千代の、婚礼の碑です。
山内一豊といえば、大河ドラマにもなった司馬遼太郎の小説『功名が辻』で、
主人公となっている人物です。
私は、功名が辻については、ドラマも本も、どちらも目を通していないのですが、
山内一豊といえば、同じ司馬遼太郎の『関ヶ原』のなかで、
他の大名のアイデアを目ざとく盗み、自分の手柄のようにしてしまう、
老獪な人物として描写されていたかと思います。

まあ、そんなこともあって、関ヶ原後、一豊は、
この合戦で武功をたてたわけではないのですが、
土佐一国を賜るわけで、いずれにしても、大出世を遂げた人物であることは、
間違いないかと思います。

また、一豊の妻の千代について、私は岐阜県の郡上の人だと思っていたのですが、
ガイドさんによると、滋賀県の木之本の出身という説もあるとのことで、
そのあたりの真相は、判然としていないそうです。
一豊と千代の婚儀があった場所も、実際にここなのかどうか、そのあたりも、
実際にははっきりはしていないと、そんなことを、おっしゃっていたように思います。

ちなみに、このとき、ガイドさんといろいろお話ししていて、
肝心の碑の写真を撮り忘れてしまいました。すみません。

信長公居館跡冠木門

そして次に行ったのは、織田信長公居館への入り口となる冠木門です。
こちらは、岐阜市制100周年の記念事業として再建されたもの、らしいです。
いまから、10年から20年くらいまえのことらしいので、
門も、それなりに経年劣化しています。
また、門の位置も、もっと西にあったそうです。

居館跡

こちらが、居館のあった場所です。
石垣などはのちの時代に積んだものもありますが、当時の石垣も一部残っているそうです。
また、そのさらに下層には、斎藤道三時代の石垣、遺構などがあるそうです。
ただそれらは、信長時代の遺構のしたになっているので、
いまとなっては、ほんの一部を見ることができるだけだそうです。
(まるで大阪城の豊臣期の石垣のようなものです)

ちなみにこの場所は、写真をよく見ていたただければおわかりかと思いますが、
いたるところに土嚢やシートが積まれていて、いささか殺風景でした。
発掘中なのか、それとも、整備の途中なのか、そのあたりはよくわかりませんが、
少なくともこの状態は、ここ数年続いているのではないかと思います。
信長公居館跡は、せっかくの岐阜の観光資源なのですから、
今後は、美しく整備されることを願うばかりです。

信長公居館跡看板

こちらは、信長公の居館を再現した3DCGを載せた看板です。
これら建築物の図面などは残されていないため、ビジュアル的な資料は、
何もないそうなのですが、宣教師であったルイス・フロイスが、
建物に関する極めて詳細な文章を残しており、
そのため、こうした再現CGを作ることができたそうです。
それほどまでに、フロイスが詳細な記録をしたということは、
やはり、信長公の居館は、すばらしい建物だったということなのでしょう。

当時の姿をとどめる滝

こちらは、信長時代からある滝だそうで、見栄えをよくするため、
手が加えられている可能性もあるとのことです。
これら居館跡は、岐阜城をいただく金華山という山の麓に位置していますが、
金華山はそれほど大きな山ではないため、滝を流すほどの水量はないそうです。
なので、信長はこの山のうえにため池をつくり、そこから水を流して、
滝をつくったといいます。

チャート

こちらは池があった場所だそうです。
背景の岩は、チャートと呼ばれるそうで、
このあたりは見事にV字状に縞模様が入っています。
かつてはここにも滝があり、おそらくは、見事な景観を誇ったかと思います。
ちなみに、この場所は、NHKのブラタモリでも放映されました。

板垣退助像

さて、そのあとは、板垣退助の銅像がある場所へとやってきました。
ここは、自由民権運動を行なっていた板垣退助が、岐阜で暴漢に襲われた場所であり、
それを後の時代に伝えるため、こうして銅像が建立されたそうです。
ただ、正確には、この場所で襲われたというわけはないそうです。

板垣退助は暴漢に襲われはしましたが、死は免れ、その後も政治活動を続けました。
そして、この銅像のお披露目の際には、本人自らも参加したといいます。

また、この銅像は三代目だそうで、一代目の銅像は、戦時中の供出のため撤去され、
戦後、二代目が作られたそうですが、そのさいは、胸像だけだったそうです。
というわけで、後に、当初のような全身像として再建され、現在に至っているそうです。
ただ、現在の三代目の像は、初代の像をそのまま模倣しているわけではなく、
ポーズがいくらか違うようです。

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また、岐阜公園内には、名和昆虫博物館という施設と、昆虫の研究所があります。
こちらは初代の研究所の建物ですが、明治時代の建築だそうで、
とてもモダンで重厚な雰囲気をもっています。
現在は倉庫として使われているそうです。

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こちらは昆虫博物館の建物ですが、こちらは大正時代に建てられたものだそうです。
内部にはヘラクレスオオカブト虫が展示されているとこのとですが、
虫が苦手な私は、展示されている昆虫の写真をみただけで、怖気付いてしまいました。

武将隊

おりしもこのとき、園内の広場では、武将隊の人たちがなにかの練習をしていました。
そんなわけで、ガイドさんの勧めもあって、武将隊のみなさんと、
そろって記念撮影をさせていただきました。
武将隊のみなさま、おいそがしいところ、ありがとうございました。

ちなみに、武将隊は、
岐阜城近辺に斎藤道三隊、公園内に、織田信長隊、松永久秀隊が、
陣を張っているそうです。

2018_2_18p.jpg

最後に行ったのは、日中友好公園です。
こちらは、岐阜市と中国の杭州市の姉妹都市提携を記念して作られたものだそうで、
杭州市から職人を招いて、作られたといいます。

すぐそばには、満州開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍の記念碑などがありました。
ここ岐阜市周辺からも、満州に渡り、敗戦時においては、
多大の苦難を強いられた人たちも多数いたのでしょう。
今回はおおまかに見学しただけですが、今度、各碑や、碑文を、
じっくりと読んでみたいものです。

こうして、ガイドさんと一緒に、一時間強、各地を案内してもらいました。
やはり、説明を聞きながら各所を見学するのは、たいへん興味深く、
また、時間があるときに、周辺の町も含め、じっくりと解説していただきたいなと、
思ってしまいました。

また、ガイドの方には、長時間、おつきあいをいただき、
とてもていねいでわかりやすい解説をしていただきました。
ありがとうございました。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。



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関ヶ原決戦地

さてさて、ここのところ、すっかりブログの更新が滞ってしまいました。
というのも、11月に入ってから、お仕事が急に忙しくなってしまい、
ブログにまで、なかなか手が回らなくなってしまいました。
(先月は比較的ヒマだったのですが…)
そんなわけで、新規投稿記事を書いている時間は、いま、なかなかとれないのですが、
とはいいつつも、ブログをあまりに放置すると、そのうちに、
冒頭部分に広告などが表示されてしまい、みっともないコトになってしまうので、
ちょっとネタが古いのですが、先月 (10月) から今月にかけて巡ってみた、
関ヶ原古戦場の各陣跡などについて、いまさらですが、ご紹介したいと思います。

今年は、この11月に入ってからは、比較的天候に恵まれているように思いますが、
先月は週末ごとに雨が降るなど、空模様にはついては、
ツイてないことが、とても多かったように思います。
今年の関ヶ原合戦祭りは、10月の14日(土)、翌日の15日(日)だったのですが、
両日とも晴れの予報はなく、15日にいたっては終日雨とのことでした。
というわけで、とりあえず雨を避けて、14日の土曜日に、関ヶ原へと行ってみました。

今年は、司馬遼太郎の『関ヶ原』が映画化され、
好調な成績を残しているとの情報がありますので、その勢いを受けて、
関ヶ原合戦祭りも、例年にも増して盛り上がるのでは、と、思っていました。
ですが、実際に関ヶ原に行ってみると、人出については、
例年通りか、もしかすると、ちょっと少なかったかもしれません。
これもやはり、お天気のせいだったのかもしれません。

もし、映画『関ヶ原』に出演している岡田准一さんあたりが、ゲストとして、
この関ヶ原に来てくれたなら、祭りの来場者数は、おそらく劇的に変わったかと思います。
実際、去年の祭りの際に、大河ドラマ『真田丸』で石田三成を演じた山本耕史さんが、
笹尾山で屋外トークショーを行なったさいは、かなりの見物客で賑わいました。

映画『関ヶ原』にちなんだイベントについては、今回の祭りのさいにも、
監督のトークショーや、島津義弘役の俳優がゲストとして招かれるなど、
それなりにあったのですが、来場者を大きく増やすほどの効果には、
至らなかったかと思われます。

合戦祭り会場

こちらは、祭りのメイン会場となっている陣場野のあたりです。
さすがにこのあたりは、多くの人で賑わっていました。
私が関ヶ原に到着したのは、お昼少し前だったので、去年と同じように、
今年もまた、こちらで『勝鬨カレー』をいただきました。

長野剛ポスター

関ヶ原合戦祭りといえば、この長野剛さんのポスターも、
必須アイテム的な存在といえるかもしれません。
各武将の旗指物や、これらイラストが展示されていると、気分も盛り上がります。

と、会場をあちこち見物したあとは、昨年と同じように、
徒歩で、各陣跡を巡ってみることにしました。

まず最初に行ってみたのは、東首塚と井伊直政陣跡です。
両者は、ほぼ同じ場所に位置しており、陣場野からもほど近いのですが、
祭りの賑わいが嘘のように、首塚は訪れる人は少なく、とてもひっそりとしています。
もっとも、天下分けめの合戦を偲び、かつての戦さ場を巡るわけですから、
もののふの霊に哀悼の意を表すのも礼儀かと思い、こちらにはいつも行くことにしています。

陣場野

その次に行ったのは、田中吉政の陣跡と、徳川家康の最終陣跡です。
徳川の陣跡には、厭離穢土欣求浄土の旗指物が翻っていました。
旗指物というのは、なにかしら心躍るものがあります。
この厭離穢土欣求浄土の旗指物もそうですが、
武田信玄の風林火山の旗指物なども、かっこいいですね。
昨年、武田信玄の葬儀が行われたという会の恵林寺に行って来ましたが、
そこでは、風林火山のミニチュアの旗指物が、お土産として売られていました。
いまさらですが、買っておけばよかったかも、と思うことがあります。

笹尾山

その後は、石田三成と島左近の陣があった笹尾山へ行き、そこからさらに、
島津義弘の陣跡へと徒歩で向かいます。

島津義弘陣跡

今年の合戦祭りのテーマは、この島津義弘だそうで、関ヶ原文化会館には、
島津義弘をモチーフにしたお土産屋さんもありました。
売り子さんたちは鹿児島の人たちだったようです。
関ヶ原合戦のさいには、積極的な参戦をしなかった島津勢ですが、
自らが与した西軍の敗北が決定的になると、薩摩へ帰陣するための撤退戦を開始します。
通常であれば、撤退とは、強力な敵を避けて後ろに下がるものなのですが、
島津勢は、徳川家康の本陣めがけて、前進するかたちで撤退します。
このような撤退は、軍事的に非常識なのでしょうが、島津勢は、
多大な犠牲を出しつつも、結局、この撤退を成功させ、薩摩へと帰るに至ります。
薩摩勢がいかに強かったか、推して知るべしですね。

宇喜多秀家陣跡

その後は、小西行長、宇喜多秀家の陣跡を巡り、大谷吉継の墓へと向かいました。
大谷吉継の墓のある場所は、いつ訪れても、すがすがしさを感じますし、
また、心が落ち着くように思います。

西軍から東軍へと寝返った小早川秀秋は、大谷隊への攻撃を開始しました。
しかし大谷は、この寝返りをすでに予見しており、小早川隊の猛攻を、
少ない手勢で何度も追い返すことに成功しています。
とはいえ、小早川にならって、脇坂安治をはじめ、赤座、朽木、などの諸隊も、
東軍への寝返りに転じたために、ついに大谷は、抗し切れなくなります。
四面楚歌となった大谷隊は崩れ、ひいては西軍そのものも総崩れとなってしまいます。
西軍の敗北を悟った大谷は、東西両軍の中でただひとり、自刃しました。

大谷吉継墓

自刃のさい、大谷の胸には、無念や失意の思いがあったかと思われます。
ですが同時に、重い病を患いながらも、日ノ本を分ける大いくさを成し得たこと、
そしてたとえいっときにせよ、東軍を劣勢に追い込めたことに、
本懐を遂げたといった心持ちもあったのかもしれません。

この場に来て、澄んだ空気のなかに身を置いていると、
最後の瞬間の大谷吉継の心情に、いつも、思いを馳せてしまいます。

その次に目指したのは、裏切り者として名高い小早川秀秋の陣があった、松尾山です。
前年にも登った山ですが、今回も、また挑戦してみることにしました。
が、体力が落ちたのか、とにかく、今年の松尾山登山は、本当にしんどかったです。

松尾山の苦しい道

道の途中までは、比較的スイスイとあがったのですが、途中の階段から、
どうにも息が上がってしまい、なかなか足が前にでなくなってしまいました。
う~ん、この日は、私の誕生日の1日前で、翌日には55才になろうとしていました。
やっぱり年なんでしょうか…。トホホです。

とはいいつつも、なんとか登り切りました。
陣跡には誰もおらず、まったくのひとりきり。
ちょっとさみしい気もしましたが、ゼイゼイと肩で息をしていたので、
人がいたら、恥ずかしかったかもしれません。

小早川秀秋陣跡

というわけで、記念撮影。
小早川の旗指物が翻っていました。

そんなわけで、この松尾山で体力を消耗してしまい、また、出発が遅かったため、
この日は、松尾山を最後に、関ヶ原をあとにすることとなりました。
島津勢が最後に壮絶な戦いを繰り広げたという『鳥頭坂』にも行きたかったのですが、
ここでギブアップです。

まあ、無理をすれば、鳥頭坂に行けなくもなかったのですが、
昨年の関ヶ原巡りのさい、全陣跡を巡ることに固執して無理をして歩いたため、
両足の爪を剥がしてしまう、という悲惨な事態になりました。

爪を剥がしてしまったとしても、結局は自然に治るのですが、
それまでには半年以上もかかり、できれば、もう二度と、爪は剥がしたくないものです。
というわけで、今年は早々に切り上げることにしました。
(とはいえ、ここで、西首塚にまだ行っていないことを思い出し、
急遽、向かうことにしましたが‥)

鳥頭坂

後日になりますが、鳥頭坂には、ヨメのクルマで連れて行ってもらいました。
前回きたときにはなかった、アクリル製と思われる立派な看板が立っていました。
この看板は、関ヶ原の各陣跡に、すべて立っていました。
しかも、たくさんの島津の旗指物も立てられており、
ずいぶんと様変わりしたように見受けられました。
関ヶ原町も、いろいろとがんばっているようです。

奥平貞治墓

また、こちらは、小早川隊のなかに目付として潜入していた、
徳川家康の旗本である奥平貞治のお墓です。

西軍についた小早川秀秋ですが、かねてから東軍の調略を受けており、
合戦時には徳川方に寝返ると密約を結んでいました。
ですが、ほんとうに寝返ってくれるのか、それを心配した徳川家康は、
自分の配下の者を、目付として、小早川隊に送り込みました。
それがこの奥平貞治です。

この場所は関ヶ原古戦場からは少し離れているため、いままで、
きたことはなかったのですが、鳥頭坂同様、ヨメに連れてきてもらいました。
ただ、こちらは、駐車場がなく、しかも周囲は民家が建て込んでおり、
ほんの一瞬の来訪でした。

桃配山

さらに後日、徳川家康最初陣地である、桃配山にもいってきました。
この場所は、今年の11月から、安全対策工事のため、来春まで閉鎖になるとのことで、
この機に行かねばと足を運びました。

閉鎖になるのは、桃配山だけでなく、大谷吉継の墓も含まれるそうです。
そんなわけで、大谷の墓にも、今年の見納めとばかりに、再訪しました。

このときはヨメとふたりでいってきましたが、ヨメも、
ここの空気は落ち着くね、などといっていました。
おそらく、誰がきても、そう感じるのかもしれません。

というわけで、今年も、417年前の関ヶ原合戦を偲び、
各陣を(といっても、すべての陣ではありませんが)、行脚しました。
来年の春にも、また、あちこち歩いてみたいと思っています。



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賤ヶ岳からの眺め

9月に入ってから急に、朝晩はとても涼しくなり、
蒸し暑く寝苦しかった8月が嘘のように、とても過ごしやすくなりました。
このような気候になってくると、
いよいよ、MINIの季節がやってきたかな、という思いにもなります。
なにしろ、エアコンもなく、また、
オーバーヒート対策としてヒーターを入れつつ走る我がMINIは、
夏場にドライブするのはたいへんで、遠出する気にはなれませんでした。
(前回も書きましたが、一度だけ酷暑の日にMINIを出しましたが、
汗が目に入って苦労しました)
ですが、これからは、MINIでのお出かけもできそうな予感です。

そんなわけで、先週の日曜、久しぶりにMINIを走らせてみることにしました。
今回の目的地は、滋賀県の『賤ヶ岳 (しずがたけ)』というところです。 
この賤ヶ岳には、先月にもヨメのプジョーで立ち寄ってみたのですが、
夏休み期間中だったためか、駐車場に思うような空きがなく、
すぐに引き返してきてしまいました。
ですので、今回は二度目のチャレンジとなります。

というわけで、MINIの暖気とオイルチェックをすませ、出発。
まずは岐阜県垂井町、そして関ヶ原方面へと進みます。
関ヶ原では、石田三成が布陣した笹尾山を横目に見ながら、
国道365号線に乗り換え、その先の滋賀県長浜市を目指します。
長浜に到着してからはそのまま北上し、木之本町方面に向かって走ります。

空模様は絶好の好天で、空気もさわやか。
まさに絵に描いたようなドライブ日和です。
のんびりと走りつつ琵琶湖北部に到着。
ここから国道をそれて、賤ヶ岳へと向かいます。

MINIでお出かけ

前回は駐車をあきらめましたが、今回もクルマは多いものの、
無事、駐車することができました。

ここ賤ヶ岳は『賤ヶ岳の戦い』があった場所として、名を馳せています。

天正十年(1582年)、織田信長が、京の本能寺で明智光秀に討たれるという、
前代未聞のクーデターが発生します。
いわゆる『本能寺の変』です。
信長の家臣であった羽柴秀吉は、このとき、西国の雄である毛利を攻めており、
おりしも、備中高松城を囲んでいる最中でした。
京から遠く離れた地にいながら、信長横死の報にいち早く接した秀吉は、
すぐさま毛利側と和睦し、急激な勢いで、自軍を東へと戻します。
これが世にいう、秀吉の「中国大返し」です。

謀反の首謀者である明智光秀は、あまりに早い秀吉の東進に驚き、
山崎で秀吉軍を迎え撃ちますが、あえなく敗北してしまいます。
その後、信長亡き後の織田家の遺産を、
誰が、どのように継承していくのかを話し合うため、尾張の清洲城で会議がもたれます。

明智討伐によって発言力を増していた秀吉は、
本能寺の変のさいに信長とともに討たれた織田信忠の嫡男、
つまり、信長の孫である「三法師」を、織田家の後継者としてかつぎだします。
秀吉は、幼い三法師を旗頭にしつつも、
自らはその後見に収まることで権力掌握を目論みます。

が、秀吉の台頭に、織田家筆頭家老である柴田勝家が黙っているはずもなく、
翌年の天正十一年になると、両者の対立は戦へと発展していきます。
その戦の場となったのが、この『賤ヶ岳』なのです。

岐阜市に活動の拠点を写してからというもの、
私は、ここ賤ヶ岳探訪を熱望していましたが、
その夢は、ようやく達成された、という感じです。

旗指物

賤ヶ岳の戦いでは、秀吉配下の七人の兵が活躍しており、
『賤ヶ岳の七本槍』として名を馳せています。
賤ヶ岳登山道の登り口には、その名と家紋とを記した旗指物が、
並べられていました。

賤ヶ岳には、リフトで登るか、徒歩で登山道を登るか、どちらかが選べます。
距離は1.5キロだそうです。
1.5キロくらいだったら、登るのにそれほど苦労はなさそうですが、
ヨメと相談し、とりあえず登りについては、リフトを使おうということになりました。
リフト代は片道420円と、比較的リーズナブルです。

賤ヶ岳リフト乗り場

リフトは、スキー場にあるものとほぼ同じです。
こうしたリフトに乗るのは何年ぶりでしょうか…。
ただ、リフトの高さは、スキー場のあるもののように高くはなく、
伸ばした足の先は地面の草に触れそうです。

リフトでGO

こちらがリフトからの眺めです。
ほんとうはもっと気持ちのいい眺めなのですが、写真には草しか映っていませんでした。
ちょっと残念です。
いずれにしても、リフトでの山登りはなんだかワクワクしますね。
しかも天気がいいだけに、気持ちも高ぶります。

リフトは途中からかなりの急勾配になります。
ふりかえると、麓の景色がとてもきれいに見えましたが、
傾斜がきついだけに、高所恐怖症の私は、ビビってしまいました。
(なので、写真も撮れませんでした)

こうして無事、終点に到着。
が、リフトの終点は頂上にあるわけではなく、
このあとは徒歩行軍でさらなる高みを目指します。

すばらしい眺め

山道の途中からは、琵琶湖を見渡すことができました。
青い空に青い湖面、まさに胸のすくような眺めです。

近江側を見る

こうして歩くこと数分、無事、頂上に到着しました。
ここからは、近江側の大地を見渡すことができます。
目を凝らすと、浅井長政の居城『小谷城』のある小谷山や、
信長が小谷城を攻めるさい本陣を置いたという、虎御前山も見ることができます。
それにしても、この日は、ほんとうに気持ちいい晴天でした。

ちょうどそのとき、頂上にいた歴史ガイドの方が「解説しますよ~」と、
周囲に声をかけていたので、さっそく、お話を聞かせていただくことにしました。

余呉湖の古戦場を見渡して

解説は、琵琶湖の北にある余呉湖が見渡せる場所で行われました。
つまり、こちらが、賤ヶ岳の戦いの主戦場になるとのことです。

この戦いは、余呉湖からさらに北に位置する、
権現峠という峠から、東野山砦という場所を結ぶラインで、行われたようです。
私は、秀吉の本陣がふもとの木之本地蔵院にあったと聞いていたので、
秀吉は木之本周辺に陣を置き、勝家がこの賤ヶ岳に陣を敷いたのかな、などと、
勝手な解釈をしていましたが、それはまったくの間違いでした。
不勉強を恥じ入るばかりです。

ここ賤ヶ岳には、秀吉方の桑山春重という武将の陣が合ったそうで、
柴田勝家の本陣は、ずっと北の福井県との県境あたりにある、
玄蕃尾城という山城だったそうです。

戦いの様相としては、双方、要塞化した砦や城に籠って篭城する、というもので、
このようなかたちの戦闘は、日本史上的にも珍しいとのことでした。
双方が立てこもる篭城線においては、先に動いたほうが不利になるといいます。
ですので、両軍とも目立った活動を控え、よって膠着状態が続くことなります。
そんな折り、秀吉が岐阜方面へと兵を下げ、それを好機と見た柴田勝家側の武将、
佐久間盛政が攻勢に出ます。
この攻撃により、秀吉方の中川清秀が討ち死にし、
秀吉配下の他の武将も苦戦を強いられます。

ところが、岐阜への途上にあった秀頼は、この一件を知らされるとただちに転進。
賤ヶ岳へと取って返します。
そのスピードは佐久間盛政の予想を遥かに上回るもので、
いわば、中国大返しの再現をここでもやってみせた、ということになります。
後に、この秀吉の高速転進を『美濃大返し』と呼ぶようになったそうです。

佐久間盛政は、戻ってきた秀吉軍と激突します。
その戦闘の最中、柴田勝家側についていた前田利家が、独断で撤退してしまったため、
柴田側は総崩れとなってしまうのです。

じつは、このブログには書いていませんが、昨年、MINIで余呉湖を一周し、
その後、国道365号線を通って、福井県側に抜けたことがありますが、
このとき、知らず知らず、柴田側、秀吉側の最前線を横切っていたことになります。
今度同じ道を通るときは、そのことを念頭に入れておきたいですし、
できれば、周辺の砦跡も見てみたいものです。

というわけで、賤ヶ岳を思いっきり堪能し、いざ、下山しようと思ったのですが、
ショートカットの険しい坂道を通ろうとしたとき、ヨメが足をとられて大転倒。
足をくじいてしまいました。
まさに、賤ヶ岳で名誉の負傷です。

そんなわけで、帰りもリフトに乗っていこうかと思ったのですが、
ヨメによると、歩けるからだいじょうぶ、とのことなので、
登山道を歩いて下山することにしました。

下りの山道

こちらがその登山道です。
木漏れ日が美しく、また、つづら折れの道がなんとも楽しいです。
途中、登ってくる登山者と何度もすれ違いました。
歩いて登る人も、ことのほか多いようです。

リフトを仰ぎ見て

道は時折、行きに使ったリフトの軌道と交差していました。
座席の位置が低いので、がんばれば途中乗車できそうな気もしました。

こうして無事下山し、その後は、
MINIで琵琶湖畔をドライブしてみよう、ということになりました。
向かった先は、琵琶湖の西岸の高島市方面です。

すばらしい青空

このコースは、GWのときにもMINIでドライブしましたが、
湖畔道路は信号もなく、交通量もさほど多くはなく、それでいて眺めは素晴らしく、
まさに絶好のドライブコースです。

湖畔のMINI

MINIも快調で、とても気持ちよかったです。

ところが、ヨメの足首がまたしても痛みだし、
途中、薬局によって湿布を買って帰ることに。
でもそのまま帰るのはちょっとさみしいということで、
いま来た道を引き返しつつ、今度は琵琶湖の東岸へと向かい、
そのまま、彦根まで向かって走ってみました。

快適ドライブ

というわけで、賤ヶ岳古戦場見学に加え、琵琶湖湖畔をドライブするなど、
とても楽しい一日を過ごしてきました。
とくに、琵琶湖湖畔ドライブには、またぜひ、いきたいものです。



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引揚記念公園

梅雨にはいったばかりなのに、どういうわけかお天気に恵まれた先日の日曜、
ヨメのプジョーで、京都府の舞鶴へと、ドライブがてら出掛けてみました。
本来であれば、MINIでお出かけをしたいところでしたが、
先日、コイン洗車場でMINIを高圧洗浄機で洗車したさい、
前面ヘッドライト下部の塗装が、一部、塗膜内に侵入した錆によってはがれてしまい、
いまはまだ、その補修がまだ終わらないため、今回はプジョーでのドライブとなりました。
(MINIの補修の詳細についても、できれば後日、このブログで取り上げたいと思っています)

もっともこの日、当初から舞鶴に向かうという計画はなく、
なんとなく、愛知県の蒲郡方面に行ってみようということになっていました。
が、朝のうちは、空にはどんよりと雲がたれ込めていて、
こんなお天気のもとであっては、海岸沿いの景色も、
あまり楽しめないのではないのか、という思いがあり、
急遽、目的地を変更した、というわけです。
(このために、けっこう時間をロスしてしまいました)

というわけで、南の国道23号線に向かっていたところを反転し、
国道21号線に戻って西に向かい、その後、関ヶ原で国道365号線へと入り、
琵琶湖の北端を目指します。
そこから国道8号線に入って、福井県の敦賀市へ。
敦賀市からは国道27号線に乗り換え、ひたすら南東方向へと進みます。

道中、どんよりと曇っていた空ですが、日本海側に出ると、
雲がしだいに取り払われ、敦賀に到着する頃には、すっきりとした青空が、
広がるようになりました。
この日の天気予報では、愛知県の豊橋市は曇りとなっており、
その予報が正しいとすれば、近隣の蒲郡市も、お天気はよくなかったかもしれません。
やはり、目的地を日本海側に変更したことは、天候という面からいえば、
正解だったかもしれません。

五湖の駅

そして途中立ち寄った道の駅『五湖の駅』で昼食。
お天気がよいせいか、行楽客でとても賑わっていました。

その後も国道27号線を京都府方面に向かって進み、
いよいよ、舞鶴へと入ります。
私にとっては、人生初の舞鶴訪問となりました。

その舞鶴と聞いて、私の頭に真っ先に頭に浮かぶのは、
かつて旧満州に取り残された棄民が引き揚げてきた場所だということです。
また、シベリア抑留者たちも、この地に引き揚げてきたかと思います。

私の母、また母方の祖母は、満州からの引揚者ですが、
日本に到着した港は、佐世保だったと聞いています。
ですが、この舞鶴にも、引揚者を身内に持つ者として、
なにか特別な感情とでもいうべきものがあります。

ですので、舞鶴の港には、とても強く行ってみたいと思いましたし、
そこには、なにかしらの記念碑のようなものがあるのでは、と、推察しました。

そんなわけで、あまり気乗りしないヨメを説き伏せて、舞鶴港に向かおうとしましたが、
その道中、引揚記念館という看板が目に入りました。
やはり、舞鶴には、引揚者にまつわる資料館的な施設があるようです。

引揚記念館

というわけで、さっそく、記念館に行ってみました。
駐車場には大型観光バスなどが入っており、思いのほか見物客がきているようでした。
こうした施設に関心や興味を持ってくださる方がいることは、
私にとっては、うれしいことでもあります。

○ 舞鶴引揚記念館のサイトはこちらです ~

施設は、近代的なとても立派なものでした。
折しも、シベリア抑留者たちの記録が、ユネスコの記憶遺産に登録されたこともあり、
より多くの人の関心を集めているようでもありました。

抑留者の送られた地域

施設内に入るとすぐ、満州やモンゴルを含む、
ロシア (旧ソ連) 全土の地図を写した、大きな絨毯があります。
そこには、シベリア抑留者たちが送られた、
収容所のある地域が記されています。

満州とは、中国の東北部を指す言葉ですが、
ここにはかつて『満州国』と呼ばれた国家がありました。

日露戦争後、ロシアが満州にもっていた鉄道権益と、
遼東半島の先端部が、租借地というかたちで、日本のものとなります。
日本政府は、この鉄道を半官半民の特殊会社『南満州鉄道株式会社』として、
満州経営の足がかりとします。
また、この鉄道沿線と、租借地である関東州 (遼東半島先端部) を守るため、
『関東軍』と呼称される、日本の出先軍隊が組織されます。

ところが、南満州鉄道株式会社の権益は、
満州に台頭してきた地方軍閥などによって、たびたび侵されることになり、
この事態に業を煮やした『関東軍』は、自ら南満州鉄道の線路を爆破し、
それを相手の仕業だと宣伝する、いわゆる謀略工作をもって、
一気に満州全土を支配することをもくろみます。

関東軍はまたたくまに満州を占領。
その後、清国の廃帝『溥儀』を擁立して、独立国家『満州国』を建国させるのです。
もっとも、この国は、日本の支配下で作られた、完全な傀儡国家でした。

日本政府は、資源の供給基地として、満州国を開拓する必要に迫られます。
そのため、日本各地の農村などから、広く人を集め、満州へと入植させます。
同時に、満州国防衛の要として、関東軍を大幅に増強させ、
北の大国ソ連への守りとして、総勢70万の大精鋭軍へと成長させます。

昭和20年、ソ連は日本との条約を一方的に破棄して満州に攻め込みました。
このときすでに関東軍は弱体化しており、ソ連軍の侵攻の前になすすべもなく、
満州全土にいた日本の入植者は、塗炭の苦しみを味わうこととなります。
この日本の民間人たちが、いわゆる満州棄民であり、
満州からの『引揚者』と呼ばれる人たちになります。

また、ソ連軍に武装解除された関東軍将兵らは、
日本がポツダム宣言を受諾し敗戦したあとも解放されることはなく、
逆に、シベリアなどのソ連領内に移送され、
そこで、過酷な重労働を、数年に渡って強いられることになります。
この人たちが『シベリア抑留者』と呼ばれることとなります。

軍隊手帳などの資料

舞鶴の引揚記念館は、
これら満州引揚者と、シベリア抑留者の資料展示に特化した施設です。
その展示品は (資料的価値の高いものは) それほど多くはないと思います。
というのも、シベリア抑留者たちは、日本に返されるさい、
筆記されたものを持ち帰ることを許されませんでした。
そのようなものを持っていれば、即刻スパイ扱いをされ、日本への帰国は遠のきます。

それでもなお、決死の覚悟で、木の皮に記した収容所での記録を、
持ち帰った例もあり、実際に展示もされていました。

ラーゲリの様子

館内のスタッフの方から説明を受けたところ、収容所内では、就寝のさい、
およそ二畳の広さに、六人が寝かせられたといいます。
また、冬場の水不足は深刻で、川から水を汲んできても、途中で凍ってしまったといいます。
それがために、極端に不衛生で、ノミ、シラミが発生し、
チフスなどの疫病が蔓延したといいます。

厳冬のラーゲリ

食事も粗末なうえに、森林伐採などの重労働を課せられ、ノルマが達成できなければ、
さらに食事を減らされるというペナルティがあったといいます。
まさに、生き地獄のような様相であったかもしれません。

引き揚げ船の模型

展示品のなかには、引き揚げ船に使われた船の模型も多数展示されていました。
また、撮影は不可でしたが、抑留者が実際にシベリアで描いたという、
水彩画もありました。
実際に現地で、ソ連側から筆や絵の具を支給されて描いたとのことで、
奇跡的に持ち帰ることができたといいます。
いわば、現場での生の情報であり、極めて貴重な資料だといえます。
しかも、描いたご本人は、いまも存命中とのことで、たいへん驚きました。

舞鶴のジオラマ

こうして、スタッフの方から詳しいご説明をそれぞれいただき、
各展示物をつぶさに見学させていただきました。
とても意義のある時間を過ごすことができました。

その後、施設近くにある、
引揚者たちが上陸したという桟橋 (復元物) に行ってみることしました。

望郷の地

こちらが、その桟橋からみた光景です。
晴天ということもありますが、まさに、息をのむほどの美しさです。
戦後間もない頃と、いま現在とでは、あたりの景観は大きく違うでしょうが、
満州から引き揚てきた人たちや、シベリア抑留者の人たちは、
この同じ光景を船上から見て、恋いこがれた祖国に帰ってきたことを実感し、
涙したことと思います。

同時に、この光景を見ることなく、無念にも、
大陸の曠野で、また厳寒のラーゲリで、命を失った方も数多くいたのです。
それを思うと、私も胸が熱くなりました。

また、引き揚げ記念館のスタッフの方から教えていただいたのですが、
我が岐阜県にも、満州棄民をとりあげた資料展示施設が作られたとのことです。
おそらくは、私が以前行った、長野県の満蒙開拓記念館の創設に、
影響を受けたということもあったかもしれません。

○ 満蒙開拓記念館訪問の記事はこちらです ~

長野県は、満州への移民がもっとも多かった県ですが、
我が岐阜県も、私の祖父母をはじめ、多くの人たちを満州に送り出しています。

帰宅後、ネットなどで調べたところによると、どうやら高鷲村に、
たかす開拓記念館という施設があるようです。
私にとって、祖父母の満州行きについては、いまだにわからないことが多く、
(祖父は岐阜県の焼石というところで、役場職員をしており、
 人を集めて満州に送るという、そのような役目をしていたらしいです)
もしかすると、何か資料があるかもしれません。

いずれにしても、この施設もぜひ訪ねてみたいと思っています。
その暁には、またこのブログで紹介したいと思います。



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