島左近陣跡

一昨年、去年と、岐阜県関ヶ原町で行われる、関ヶ原合戦祭に行ってきましたが、
今年も、いつものように、出陣してみることにしました。
もっとも、過去に二回も行き、各武将の陣も回っていますので、
(といっても、まだ南宮山の、毛利秀元、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、吉川元春、
の各陣には、いまに至るも、まだ行ってないままなのですが……)
さすがの古戦場好きの私でも、もう、今年は遠慮しておこうかな、と、
当初は思っていました。

ところが今年は、この関ヶ原合戦祭が、10月21日(日曜)に行われるとのことで、
それならばぜひ、行ってみなくては、考えを改めました。
というのも、関ヶ原の合戦が行われたのは、慶長五年の九月十五日で、
これを今の暦に直すと、西暦1600年10月21日になるはずです。
ということは、今年の関ヶ原合戦祭の日は、まさに、関ヶ原の戦いがあったその日であり、
この戦場でただひとり腹を召した大谷吉継公にとっては、418年目の命日ということに、
あたるわけです。

となれば、気分も盛り上がるかも、ということで、
10月21日、私も、いざ、出陣することにしました。
といっても、午前中は野暮用などをしていて、関ヶ原に着いたのはお昼近く。
ちょっと遅がけの出陣となりましたが、それでも、
意を決して、各陣を回ってみることにします。

そのまえに、まずは陣場野そばに出ているお店で、例年のように、勝鬨カレーを食べます。
ちなみにこのとき、ひとりで屋外に座ってカレーを食べていると、
若い女の子が「いっしょに座ってもいいですか」といってきたので、
「ええっ、どうぞどうぞ」といったのですが、単に、食事する席が無いだけでした。
オジサン、ひとりで舞い上がってしましました。

そのあとは、さっそく各地を回ってみます。

井伊直政陣跡

というわけで、まず最初に行ったのが、井伊直政と松平忠吉の陣です。

関ヶ原合戦のさいの東軍の先鋒は、福島正則と決まっていたようですが、
徳川方としては、福島のような豊臣恩顧の武将に、先鋒で手柄を立てられることを、
できれば避けたいと考えていました。
というのも、福島正則は、石田三成憎しの感情で東軍に与していましたが、
亡き太閤の息子、豊臣秀頼への忠誠心は、旺盛なものがありましたし、
同時に、このとき、徳川方の主力である徳川秀忠率いる軍が、
関ヶ原の予定戦場に到着できず、
徳川家康は、豊臣恩顧の武将ばかりを率いて戦うという、番狂わせも生じていました。
このまま福島正則が手柄を立ててしまうと、戦後世界における自らの権力掌握について、
徳川方は、思惑と違う展開を強いられるかもしれなかったのです。

そのあたりの事情をわかりつつ、うまく対応したのが井伊直政です。
井伊直政は、後見という立場で預かっていた徳川家康の四男、松平忠吉を伴って、
戦場の見物と称して、朝霧のなか、
福島正則の陣に迷い込んで入り込むかたちにとりながら、
成り行きのような展開を装って、先陣を切ることに成功しました。

抜け駆けによる先鋒破りは唾棄すべき行為とであったといいますが、
直政は、この成り行きの展開を装うことで、福島正則の逆鱗にも触れず、同時に、
先鋒の武勲を立てるという、きわどい政治的行動を成功させたといいます。

ちなみに、この陣跡のすぐそばには、討ち取られた将兵の首塚があります。
物見遊山で戦場を回るわけですから、礼儀として、亡き将兵の獅子奮迅の働きに敬意を表し、
お参りをさせていただきました。

というわけで、その後は、陣馬野を経由し
途中、田中吉政の陣跡などにも寄りつつ、
石田三成陣跡である笹尾山へと向かいました。

笹尾山ではイベントの真っ最中。
コスプレした各武将隊が、旗指物のまえで、槍や太刀をかまえ、ポーズを決めていました。

石田三成隊

こちらは、石田三成隊です。
石田三成を演じている人は、おそらく、去年と同じ人かと思います。

大谷吉継隊

大谷吉継隊は、いちばん人気があるようでした。
大谷吉継は、関ヶ原合戦のさい、重い病のため、たちあがることもままならず、
輿のうえで采配を振るったといいますが、こうして、堂々と立ち上がる吉継公は、
いかにもかっこいいです。白い頭巾がかっこいいです。

小早川秀秋隊

この鎌の旗指物は、小早川秀秋隊ですね。
関ヶ原では、大いなる裏切り者として、名を馳せていますが、
そこがダークヒーロー的な感じなのか、意外と人気があるようでした。
まあ、良くも悪くも、関ヶ原合戦のキーマンですから……。

笹尾山台上

こちらは笹尾山台上です。
418年前の同じ日、この大地のうえには、鬨の声が、響き渡っていたのでしょうね。
そう考えると、なんだか不思議な気がします。

笹尾山では、その後も武将隊によるパフォーマンスが行われていましたが、
私はひとり、各陣を回るため、この場をあとにしました。

島津義弘陣跡

次に行ったのは、薩摩の島津義弘の陣跡です。
一時は徳川方に与しようと思っていたのに、伏見城の鳥居元忠から拒絶されたりして、
成り行き的に西軍に加わることになった薩摩勢ですが、
石田三成からの冷たい処遇などもあり、合戦当日には、
陣を構えながらも積極的に戦うことなく、いよいよ西軍が総崩れになると、
薩摩勢は撤退を決意します。

が、撤退するといっても、周囲は敵だらけ。
とはいえ、伊勢街道に出て薩摩まで逃げ帰りたい島津義弘は、
なんと、徳川方に向かって、前進して戦って撤退する、という、
奇策に打って出ます。
薩摩勢、すごい。

宇喜多秀家陣跡

そのあと行ってみたのは、宇喜多秀家の陣跡です。
福島正則隊を大いに叩いた宇喜多勢ですが、小早川の裏切りで潮目が変わってしまった戦を、
ふたたび反転させることはできませんでした。

大谷吉継墓

そして、次に行ったのは、自分としては、今回の目玉といっていい、大谷吉継の墓参りです。
これまで、各陣を巡ってきましたが、小西行長の陣跡に人がいたのみで、
ほかの場所では、誰ひとりいませんでした。

ですが、大谷吉継のお墓のある場所には、次から次へと人が現れ、手を合わせていました。
吉継公の人気の高さを、ふと思い知る気がしました。
というわけで、私も、しっかりとお参りをさせていただきました。

ちなみに、お墓に不用意にカメラを向けるのは、不謹慎というか、
なんとなくためらわましたので、墓の写真はありません。すみません。

藤堂高虎陣跡

こちらは、藤堂高虎と京極高知の陣跡です。
前回はこなかったので、ひさしぶりの訪問です。
ちなみにこちらは、学校の敷地内にあります。

福島正則陣跡

福島正則の陣跡にも寄ってみました。
なにしろ、藤堂勢の陣跡から近いですし。

松尾山へ

そして、今回もいきます、松尾山の小早川秀秋の陣跡へ。
ここからはきつ〜〜い道のりになりますが、やっぱり、
関ヶ原にきたからには、いっておかないと。

坂道を登る

ひたすら山道を登ります。
このあたりはまだ傾斜もなだらかですが、終盤になると、
階段状になった道もあって、きついです。

松尾山小早川秀秋陣跡

でも、ヘロヘロになりながら、たどり着きました。
もちろん、誰もいません。
小早川秀秋の陣跡、独り占めです。

そのあとも、延々と、延々と歩いて、
薩摩勢が最後の決戦をしたという、鳥頭坂に向かいます。
これが長かった。

島津豊久墓

こちらも、なんとかたどり着きました。

徳川勢に向かって前進して撤退する道を選んだ島津義弘ですが、
当然のことながら、かなりの苦戦をしいられました。
薩摩勢は、要所要所に兵がとどまり、その兵が命を捨てる覚悟で、
追っ手と戦っているあいだに、本隊が逃げる、という戦法を、何度もとったといいます。
この戦法はステガマリと呼ばたといいますが、
実際に島津義弘は薩摩まで逃げ帰っていますので、
十分な効果を上げた戦法といえるかもしれません。
ただ、その犠牲は甚だしく、ともに戦っていた島津豊久は、
この地で討ち死にしたともいわれています。

ちなみに、このすぐそばに、立派な豊久公の墓碑があります。

その後は、関ヶ原の駅に向かいつつ、途中、本多忠勝の陣跡に寄ったりしてきました。

結局、今年も、ものすごく歩きました。
その結果、またしても、足の爪をひとつ剥がしてしまいました。
でも、こういうことでもない限り、長距離を歩く機会がありません。

健康のためにも、関ヶ原ハードウォーキングは、続けたほうがいいのかもしれません。



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三千院庭園

10月になってから、比較的おだやかな天候が続いているかと思います。
それにしても、気がつけばすでに今月も半ば過ぎ……。
なんだかあっという間という感じですね。
さて、そんなおだやかな秋の日に、京都の大原まで行ってみました。

行ってみたのは先週末の日曜です。
このときの出動車はヨメのプジョーでしたが、じつはそのまえの週にも、
MINIで京都大原方面まで行こうとしていました。
が、この日は、出発の時間がとても遅くなってしまい、結局、
琵琶湖西岸の朽木のあたりまで行けませんでした。

しかも、朽木で、信長の隠れ岩なる場所に行ってみようとしたのですが、
クルマを停められる場所をみつけられず、
(看板のある路肩は、段差が激しくて、MINIだと入れない気がしたので)
結局、素通りしてしまうことに…。

この信長の隠れ岩なるものですが……。
元亀元年、織田信長が、越前の朝倉氏討伐のため、敦賀の金ヶ崎城を攻めましたが、
そのさい、信長と同盟関係にあった近江浅井氏が朝倉方に寝返り、
朝倉軍とともに信長を包囲しようとしました。

優勢に戦いを進めていた信長でしたが、浅井の寝返りで形勢は逆転。
信長は同盟軍の徳川家康や自軍を取り残し、京へと逃げかえろうとします。
そのさい、浅井の支配地域を避け、琵琶湖西岸の急峻な山道を通ったといいます。

信長の隠れ岩とは、そのさいに、追っ手をかわすため、
信長が身を潜めた場所のようです。

朽木資料館

そのあと、朽木の資料館へと行ってみたのですが、
こちらはなんと、予約しないと開館してくれないそうです。
そんなことは当然ながら知りませんでしたので、建物のまえで、
途方に暮れてしまいました。

ただ、この資料館のある場所は、朽木陣屋跡と呼ばれる公園となっており、
お散歩するには、ちょうどよい場所になっていました。
(ちょっと草ぼうほうで荒れた感じでしたが)

朽木にて

とにもかくにも、MINIは琵琶湖東岸の道を軽快に走り抜け、
好天のなか、楽しいドライブになりましたが、さすがに、
この日は、京都まで足を延ばすことはできませんでした。

というわけでその次の週、今度はヨメのプジョーで、
再度、琵琶湖西岸を通って京都に至るルートを辿ってみることにしました。
この日は、前週の日曜ほどではありませんでしたが、まあまあのお天気で、
しかも、渋滞などにも出くわすことなく、すんなりと、
京都の大原に到着することができました。

三千院駐車場

なにしろ、大原といえば、三千院などの有名寺院があり、
もしかすると、駐車場にクルマを止めるのに、
かなり難儀するのではないかと思いましたが、
意外と簡単に、しかも三千院に最も近い場所に、駐車することができました。

というわけで、さっそく三千院に行ってみます。
私にとっては、人生初の三千院見学です。

坂道を登って

駐車場から三千院に行くには、この細い坂道を上へ上へと登っていきます。
観光客は多くいましたが、ひどく混み合うこともなく、すいすいと、
歩くことができました。
ただ、これからは紅葉シーズンとなるため、このような、
快適な状態ではなく、大きく混雑するのではないかと思います。

紅葉が本格的になったら、また、この地を訪れたいとは思いますが、
あまりに混雑するようなら、ちょっと難しいかも…。

三千院

こちらが、三千院の山門です。
というわけで、拝観料700円を払って、いざ、三千院見学です。
といっても、院内の撮影は許されておらず、庭園や、一部の許可ポイントしか、
撮影できませんでしたが‥。

外に出て

院内の見学を終えると、庭園を通り抜け、次は往生極楽院を参拝し、
ついで、わらべ地蔵を見にいきました。

わらべ地蔵

こちらがわらべ地蔵です。
かわいいお地蔵さんがいつくも並んでいました。
カメラ女子のみなさんが、競って写真を撮っていました。

庭園で撮影

それにしても、この苔むした感じの庭園は、心が落ち着きます。
いい雰囲気ですね。
(ちなみにこちらは、わらべ地蔵ではありません)

というわけで、三千院をあとにして、今度は、
寂光院まで歩いて行ってみることにしました。
来た道を戻ります。

2018_10_14h.jpg

とりあえず、三千院そばのお店で買ったお土産を、
駐車場に止めてあるプジョーに置き、ふたたび歩いて出発です。
この駐車場から寂光院までは、少しばかり距離がありますが、
充分に徒歩圏内です。

田舎らしい風景

このあたりは、ほんとうに田舎で、川の水もとてもきれいです。
空は少し雲がかかることもありましたが、しだいに晴れてきました。

入館料を払って

こちらが寂光院の入り口です。
石段がいい感じですね。拝観料は600円でした。

寂光院は、平清盛の娘で、高倉天皇の妃であった建礼門院徳子が、
源平合戦の後、隠棲した寺ということで知られています。
(建礼門院徳子といえば、大河ドラマ『平清盛』で、
二階堂ふみさんが演じられていたかと思います)

清盛の娘ということで、この世の絶頂を味わい、
しかし、源平合戦では、敗戦の憂き目にさらされ、入水して自害しようとしたものの、
不本意ながら源氏側に助けられ、子である安徳天皇を失い、
失意のなか京に連行され、ここ寂光院で晩年を暮らしたといいます。
この世の喜び、悲しみ、すべてを経験した女性と言われています。

こちらは、三千院よりもさらに観光客が少なく、そのぶん、
静かな雰囲気がより味わえました。

ちなみに、三千院は、平成12年に、何者かの放火により焼失したといいます。
私はその事実を知らずに、ここにきて初めて、本堂が再建されたものと知りました。
犯人はいまだ捕まっていないということですが、ずいぶんと罰当たりな、
かつ、歴史的遺物に対する冒涜行為をしたものです。
建礼門院徳子の像も、このとき、焼けてしまったといいます。
徳子も草葉の陰からさぞ悲しんだことでしょう。

南蛮灯篭

こちらは、南蛮灯篭と称される金属製の灯篭です。
立て札には伏見城から持って来たものだとか……。
伏見城といえば、関ヶ原合戦の前に、西軍に包囲され、
徳川方の重臣鳥居元忠の奮戦虚しく、落城した城ですね。

建礼門院徳子墓陵へ

こちらは、建礼門院徳子のお墓に通じる石段です。
しっかりとお参りをしてきました。

というわけで、秋の一日、京都大原を思いっきり堪能してきました。
できれば、また、このあたりを散策したいものです。
(でも、やっぱり、混雑する紅葉の時期は避けたほうがいいかも)



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高鷲でのMINI

八月はあれほど暑かったのに、九月にはいると、いきなり涼しくなり、
いまでは、先月の猛暑が嘘のように過ごしやすくなりました。
こうした気候になると、夏のあいだはほとんど動かすことができなかったMINIに乗って、
(なにしろ、我がMINIには、エアコンも電動ファンもありませんので、
夏場の快適なドライブはほとんど不可能でした)
また、どこかに出かけたいなと思ってしまいます。

とはいえ、そのまえに、まずはMINIのオイル交換をしなければ、ということで、
先々週の土曜、いつものように、ガレージ内で黙々と作業に勤しみました。
もっとも、規定走行距離として定めた3000キロを、まだ消化してはいませんが、
前回のオイル交換は三月で、すでに半年が経過しており、
今月のうちには替えてしまわなければなりません。
もっとも、今回は、エレメントの交換は行わず、オイル交換と、
グリスアップのみにとどめています。
(毎度の作業なので、写真はありません。すみません)

こうして作業も無事終わり、これで思い切りMINIに乗れる……、というわけで、
先週の月曜(敬老の日)、岐阜県高鷲村にある、
満州開拓団の展示施設『たかす開拓記念館』に行ってみました。

この施設の存在は、昨年、京都府舞鶴市の『舞鶴引揚記念館』に見学にいったさい、
案内の方から教えていただいたのですが、同じ岐阜県ながら、
たかす開拓記念館にはなかなかに行く機会がなく、
ようやくにして、先週、念願の訪問を果たしました。

しかし出発した時刻は遅く、気がつけばほぼお昼。
さらに岐阜市内を通過するのに思いのほか時間を使ってしまい、
高鷲村についたのは、午後2時半を少し回ったくらいでした。
(もう少し、出発を早めるべきでしたが、後の祭りです)
さらには、午前中は天気がよかったものの、だんだんと雲行きも怪しくなり、
気がつくと、雨こそ降らなかったものの、空はすっかり鈍色になっていました。

たかす町民センター

こちらがたかす開拓記念館の建物です。
もっとも、この建物は、たかす町民センターというらしく、
たかす記念館は、この建物の一部を利用して、設けられているそうです。

それにしても、この日は休日にもかかわらず、駐車場に来客のクルマはなく、
(一台だけ、SUV車が止まっていましたが、駐車位置から察するに、
おそらくは施設の人のクルマだと思われます)
建物もひっそりとしていました。
実際、営業しているのかな、と、思ったほどです。
とはいえ、建物は比較的新しく、たいへん立派なものでした。

広い室内

足を踏み入れると、外観同様、施設内も立派なもので、とても清潔な印象でした。
が、人影はまったくなく、施設が広いぶん、寂しい印象も拭えません。
トイレに行くと明かりがつきませんでした。

入り口付近に、係りの人の詰所のような部屋があり、ここに、
男性の方がいらっしゃいました。
この方は、たかす開拓記念館のスタッフというわけではなく、
町民センターの当番といった様子に見受けられました。
来意を告げると、部屋のすぐ横にある展示施設を示されました。
というわけで、さっそく見学をさせていただきました。

展示室へ

展示室は、パネル展示が中心となっており、
私の当初の想像よりも、充実していましたが、内容については、
開拓団の送出の記録という感が強く、比較的淡白な印象を持ちました。

ここ高鷲村を含め、岐阜県の郡上、ひるがの、などの地域は、
かなり多くの開拓移民団を、満州各地に送り出していたといいます。
郡上からの開拓団送出については、
現地の『凌霜塾』という組織が、大きな役割を果たしたそうです。
この凌霜塾というのは、幕末期、佐幕派側についた『凌霜隊』という部隊を、
ルーツとするそうで、各地で新政府軍と交戦しながら、会津への到達を目指したそうです。
(郡上藩自体は、新政府軍側についたそうです)
しかし、合図の鶴ヶ城は新政府軍の攻撃により陥ちてしまい、凌霜隊の隊士らは、
罪人として郡上に返送され、以後、投獄の憂き目にあったといいます。

この『凌霜』の名を冠した組織が、郡上群の満州開拓団の送出に大きな力を発揮し、
岐阜県内最多の開拓団を送り出したといいます。
郡上の開拓団は、蛟河の北、ハルビンの南のあたりに入植したそうです。

パネル展示によると、この郡上開拓団は、1945年の8月9日のソ連参戦後であっても、
また、日本降伏後においても、平穏に過ごしたとのことで、
しかも、現地の人が危害を及ぼすこともなかったのだといいます。
事実とすれば、極めて稀有なことかと思います。
満州での逃亡記を多数目にしてきた私には、にわかには信じらませんでした。

また、開拓団のほかに、満蒙開拓青少年義勇軍に参加し、大陸に渡った人たちも、
開拓団ほどの人数ではないにせよ、多数存在しました。

高鷲村の開拓団は、琿春の南に入植したといいます。
琿春は、現在の北朝鮮との国境沿いで、また、延吉という街にも近い位置です。
私の祖母、母、ともに、戦時中は満州に行っていましたが、
そのさいには、延吉に住んでいたといいますから、この琿春の開拓団とは、
比較的、近い位置にいたということになります。

また、和良村の開拓団は、満州の北部に入植しており、
(斉々哈爾よりもさらに北ですから、あきらかに、対ソ戦の防壁的な意味で、
開拓団を入れたのではないでしょうか)
ただそれだけで、敗戦後の苦労がしのばれます。

語り部の記録

そのほかに、語り部のかたたちの証言を文書化したものや、
インタビューの模様を録画した資料などがあり、
それらも一通り、拝見をさせていただきました。

階下にも展示室があり、こちらは、満州だけでなく、高鷲村の先人が行ったという、
北海道開拓についての展示などもありました。

ひるがの開拓団のジオラマ

こちらは、ひるがの開拓団のジオラマです。
このジオラマを見る限り、ひるがの開拓団は極めて困窮していたかのような印象を持ちます。
家屋は藁葺きの小屋のようなもので、家畜小屋と大差がありません。

こうして、一時間半ほどをかけて、
くまなく、施設内を見学させていただきました。

ただ、長野県飯田市の満蒙開拓平和記念館、
京都府舞鶴市の引揚記念館にいったあとということもあってか、
どうしても、施設内のさみしさのようなものは否めませんでした。

施設の規模の大小とかそういうことではなく、
満州棄民の悲劇を後世に伝えていこう、という、
気概や迫力のようなものは、美しく整然と展示されたパネルからは、
さほどには感じられませんでした。

比較すること自体、意味がないかもしれませんが、
休日にもかかわらず、案内の方もだれもおらず、
また、語り部の方を招いて体験談を聞くという催しの予定もないようで、
このあたりも、ものたりなさを感じた次第です。

ただ、いずれにしても、常設展示で、
このようなスペースを設けていただいているということは、
大いに意義のあることではないかと思います。

今後も、たかす開拓記念館のさらなる発展と、
展示、資料の充実を願うばかりです。

広い駐車場

というわけで、ひさしぶりのMINIでのドライブを兼ねて、
高鷲村まで行ってきました。
次回もまた、機会があれば行ってみたいものです。



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北信濃の決戦の地

5月の連休が過ぎた後、非常に忙しくなってしまい、毎週土日も仕事に追われ、
いまやお出かけも、まったくままならなくなってしまいました。
MINIに乗ってドライブ、などということもできず、日々、事務所に缶詰…。
こういう生活は、ちょっとストレスがたまりそうです。
3月は暇だったわけで、お仕事が平均してくれるとありがたいんですが、
なかなかそうはうまくいかないようです。

そんなわけで、今月は思うようにブログも書けず、というよりも、
なによりネタがないわけですが、一応、前回も予告しましたように、
今回も「なにをいまさら」という感じですが、GWのことについて、
あらためて振り返ってみたいと思います。
(今回の記事も、少しづつ書いては中断し、また再開して、という感じで、
本日、どうにか、アップまでこぎつけました)

今年の連休は、前半は好天に恵まれましたが、その後、変わりやすいお天気になり、
後半の二日ほどは、ふたたび青空を見ることができたかと思います。
その最後の二日間のうちの土曜に、長野県の有名な古戦場『川中島』に、
行ってきました。

私は、独身の頃から、長野市には頻繁に行っており、
また結婚したあとも、善光寺や戸隠神社などに、何度となく行ったりしています。
(もっとも、戸隠神社はここ最近行くことができていませんが)
ところが、長野市近郊の川中島には、いままで一度も行ったことがなく、
今回がはじめての来訪となりました。

というのも、HHK-BSで放送されていた、大河ドラマ『武田信玄』や、
内野聖陽サン主演の『風林火山』などを見て以後は、一度は、
この北信濃屈指の激戦地である川中島に行ってみたいと思うようになっていました。
そしてようやく、今回の連休で、念願が叶ったという次第です。

目指すは、第四時川中島合戦の舞台となった、八幡原です。
とはいっても、当初はその位置がよくわからず、
大河ドラマの劇中に登場した双方の軍勢の布陣図を、頭に思い描きつつ、
道をたどることにしました。

八幡原は、たしか、善光寺平の南東方向で、千曲川の北になっていたかと思います。
というわけで、国道19号を進み、長野市の市街地の南を、東に向けて走りました。
そうこうするうちに、茶臼山、という案内看板が出て来ました。
茶臼山といえば、武田の軍勢が最初に布陣した場所のはずです。
ということは、上杉側が布陣した妻女山も近いはずです。
ルートはどうやらこれで正しそうです。

そうこうするうちに、川中島古戦場という案内看板が見えてきました。
やはり、これで正しかったようです。
というわけで、案内看板に沿って道を右折。松代方面へと向かいます。
松代は、八幡原に布陣する前の武田勢が入った海津城がある場所でもあります。

川中島古戦場駐車場

というわけで、思いのほかすんなりと、川中島古戦場に到着。
が、GWということもあってか、あたりは賑わっており、駐車場は満杯。
今回は待っていても、なかなか空きがでません。
が、どうにかこうにか無事駐車することができました。

佐久間象山像

あたりは公園になっており、幕末、松代藩の開明的な人物として名を馳せた、
佐久間象山の像が立っていました。
それにしても、雲ひとつない晴天ですね!。

いざ、川中島へ

というわけで、さっそく、海津城を出陣した武田勢が、
上杉勢との決戦に挑むため布陣したという、八幡原社へと行ってみます。

全極最強の名を欲しいままにした武田家は、
もともとは甲斐源氏の流れをくむ名家とのことで、
信玄 (信玄は出家してからの名で、それ以前は晴信と名乗っていました) の父の、
信虎 (のぶとら) の時代に、ほぼ甲斐国を統一していたといいます。
が、信虎は暴君の一面があり、同時に、嫡男である晴信とはソリが合わなかったようです。
家臣もそんな信虎を見限っていたようで、彼ら家臣団と、晴信は、
ともに結託して、信虎を駿河に追放してしまいます。
いわば、息子が父親を追い出すクーデターを行ったわけです。

こうして、武田家の家督を簒奪するかたちで相続した晴信は、
その後、隣国である信濃に目をつけます。
まず、もともと人質を出し合って同盟を結んでいた諏訪頼重を、
諏訪氏の配下にあった高遠頼綱とともに攻略し、
のちに、その高遠頼綱をも打ち破ります。
一方で駿河の今川や小田原の北条とは同盟を結んで、
南の安定を図りつつ、信濃に対しては、奥深くまで軍勢を差し向けます。

信濃の葛尾城主である村上義清などは、頑強に武田に抵抗し、
武田側も苦戦を余儀なくされますが、やがては村上も破り、
武田は信濃を平定するに至ります。
が、北の越後へ逃れた村上は、事実上の越後国主となっていた、
長尾景虎のもとに身を寄せたことで、
武田勢と越後とのあいだで、緊張が高まることになりました。

こうして、武田晴信、長尾景虎は、
北信濃の覇権をめぐって争いを繰り広げることになりますが、
双方とも、総力戦による決戦を避けており、
そのため、にらみ合いと小競り合いのような状態が続いていました。
が、永禄四年の第四次合戦は、ついに総力決戦に至りました。

このとき、長尾景虎 (この当時は上杉政虎という名を使っていたと思います) は、
善光寺平から、千曲川の南の妻女山に布陣し、あえて退路を絶って武田勢を迎えます。
武田も、最初は茶臼山に布陣しますが、その後、重臣の高坂弾正の城である、
海津城に入り、以後、膠着状態となります。

合戦図

この状態にしびれを切らした武田勢は、
自らの軍勢をふたつに分け、一方の軍を闇夜に紛れさせて妻女山に向かわせ、
そこに立てこもる上杉勢を山から追い落とし、北の八幡原へと追い詰める策をとります。
八幡原には、武田の残りの軍勢があらかじめ布陣しており、
そこで、妻女山を追われた上杉勢を挟み撃ちにして討ち取る、
という腹づもりだったといいます。
この作戦は、山にたてこもる敵を追い出してしまうことから、
『キツツキ作戦』と呼ばれたともいいます。

ところが、武田側のこの作戦は、上杉政虎に見破られてしまい、
上杉勢は武田の別働隊が攻めてくるまえに、自ら妻女山を降りて、八幡原に布陣しました。

武田の別働隊が妻女山に登った頃には、すでに山頂の陣地はもぬけの殻。
八幡原に布陣した武田勢は、半分の手勢で、
上杉側の軍勢を引き受けなければなりませんでした。

武田側は絶体絶命になりましたが、それでも、武田は戦線を維持し、
そこに妻女山から急遽駆け下りてきた武田の別働隊が、上杉勢の背後をつくこととなりました。
上杉政虎は、八幡原より兵を引き、善光寺平へと撤退します。

というと、まるで武田が勝ったかのような印象ですが、
武田側は、上杉側を上回る犠牲を出し、また、
武田典厩信繁、山本勘助、諸角豊後守、といった、重臣を失ってしまいます。
戦さ場に踏みとどまったのは武田なので、武田が勝ったといえば、そうなるかと思いますが、
損害の多さを考えれば、勝ち戦とはいえない結果に終わりました。
いってみれば、多大な消耗戦だったのかもしれません。

川中島合戦は、いわばローカルな争い、ともいえると思いますが、
それでも、知名度は抜群で、歴史になんの興味も関心もなかった頃の私でさえ、
その名やよく知っていました。

天下に行方を決めた戦である、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、などよりも、
川中島の戦いのほうが、はるかに有名かと思います。

信玄、謙信、一騎打ちの像

そして、こちらが、あまりにも有名な、武田信玄、上杉謙信、一騎打ちの像です。
この合戦では、軍勢を率いる大将同士が直接対決したということで知られており、
(実際にそんなことが起きたのか、にわかには信じられませんが)
こうして、記念の像が設置されています。

妻女山

そして、この八幡原からは、妻女山を望むことができます。
(境内にいた観光ボランティアの方に、妻女山の場所を聞きました)
奥側の山ではなく、その手前にある少し低い山が、妻女山だとのことでした、
あの山を降りた上杉勢が、この八幡原を目指して、
車懸かりの陣で襲いかかってきたんですね。

というわけで、たっぷりと八幡原を堪能してきました。

長野市博物館

そのあとは、公園内にある長野市博物館に行ってみました。
こちらでも、川中島合戦にまつわる展示や、古代の信濃の遺跡の展示などもありました。
また、太陽系の惑星の詳細な写真や、宇宙観測機の模型の展示なども、行っていました。

美しい公園

それにしても、この場所はとてもいいところです。
お天気もよく、暑くもなく、寒くもなく、ちょうどよい気温でした。

その後は、松代の海津城に向かってみることにしました。
クルマでほんの少しの距離です。

海津城

海津城には、最終的に、武田の家臣であった真田信之が入ることとなり、
その後、名も松代城に改まりました。
真田信之は、大坂冬の陣、夏の陣で徳川に多大の打撃を与えた、あの真田幸村の兄です。
信之は、この松代で、真田は十万石の大名となり、真田家は明治まで存続したといいます。
まさに真田は、難しい時代をうまく生き残った、勝ち残ったのですが、
一方で、徳川を最後まで追い詰めるといった、後世まで残る名声も得ているわけで、
それを考えると、さすが真田、と、感慨も新たになります。

海津城碑文

こちらが海津城の本丸跡だそうです。
GWとはいえ、ここ海津城はそれほど観光客も多くなく、
のんびりした雰囲気が漂っていました。

真田邸へ

その後は、真田邸へ行ってみました。
入場料は300円(だったかな?)と、リーズナブルでした。

真田邸内部

こちらも、それほど混んでおらず、ゆっくり見て回ることができました。
真田といえば、やっぱり上田のほうが有名ですし、そちらはきっと、
大勢の見物客がいたのでは、と思います。

というわけで、川中島を堪能したGWでした。



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青空と岐阜公園

今年 (2018年) に入ってからというもの、あまりお出かけすることもなく、
また、MINIに乗る機会もすっかり少なくなってしまいました。
というのも、ここ岐阜市は、それほど降雪はないものの、
橋や坂の途中などには、車のボディに有害な融雪剤を撒くことが多々あり、
そのため、旧車であるMINIを出すのは、ちょっと気が引けてしまいます。
春になって、オイル交換をすませたら、また、MINIで、
どこかにドライブに出掛けたいと思っていますが、
いましばらくは、それもお預けかな、という感じです。

というわけで、ここ最近は、日曜も家にいて、
読書したり、はたまた模型製作をするなど、引きこもることが多かったのですが、
先週の日曜、好天に誘われて、近場の岐阜公園に行ってみました。
といっても、この公園までは、クルマ (出動車はヨメのプジョーです) で、
ほんの15分ほどで、まさに街中のちょっとしたお出かけといったものとなりました。
ただ、せっかくの機会なので、年末に買った「Nikon 1 J5」も連れ出してみました。

この岐阜公園については、以前にも当ブログでとりあげたことがありますが、
今回は、公園だけではなく、その周辺の地域にまで、
お散歩がてら、足を伸ばしてみることにしました。

公園の無料駐車場は、ほんの少し前までは、砂利と土がむき出しの状態でしたが、
いまではきれいに舗装され、白線のラインもきちんと引かれていました。
日曜には満杯になるこの駐車場ですが、奥側に進めば、余裕を持って駐車できます。
もっとも、春になって桜が咲く頃になると、もっと空きは少なくなるかもしれません。

というわけで、駐車場にクルマを止め、
まずは、長良川沿いに歩いてみることにしました。

川端康成歌碑

こちらは、その長良川沿いにある、川端康成の歌碑です。
なんでも川端康成は、ここ岐阜を舞台にした短編小説を、
いくつか書いているようで、それらにちなんで、この碑が建てられたそうです。
また、すぐそばには、北原白秋の歌碑もありました。

斎藤道三碑

同様に、ここには斎藤道三の名を記した碑も立っていましたが、
この場所は、道三と何か関係があるのでしょうか。
道三といえば、嫡男の義龍との戦いである『長良川の戦い』で、
命を落としたかと思いますが、その合戦地は、この近辺ということなのでしょうか…。
が、この道三の碑にまつわる説明文などは、付近にもいっさいなく、
私も、道三についてはほとんど知識をもたないため、現時点では不明なままです。
せっかく岐阜に住んでいるのですから、道三について、もう少し勉強して、
(とりあえず、司馬遼太郎の国盗り物語は読んでおこうと思っているのですが…)
彼にまつわる史跡などを、今度、ゆっくりと回ってみたいものです。

さて、そのあと、近くに地図看板が見つけたので、それをたよりに、
河原町という古い街並みへと足を踏み入れてみました。

川原町の街並み

こちらがその街並みです。
岐阜市に拠点を移して、すでに二年と半年ほどになりますが、
市内にこんな場所があったなんて、まったく知りませんでした。
なかなか風情のある街並みです。

ただ、晴天の日曜なのに、ほとんど人通りがなく、さみしい限りです。
私の出身地である飛騨高山の古い町並みは、いつもかなりの人出ですが、
それに倣って、岐阜市も、もう少し観光ピーアールする必要があるのかもしれないですね。

その後、ナガラガワ・フレーバーという、
おしゃれなショッピングモールのようなところに立ち寄ってみました。
ここにある『ギャラリー元浜』というお店で、木工作家さんの企画展を見物したりしました。
以前からこの場所には来てみたかったのですが、なかなか、
その機会がなく、今回ようやく念願がかなったという次第です。
ここには、カフェ、お花屋さん、陶芸教室などがあり、
休日には、多くの人で賑わっています。

そしていよいよ、今回のお目当てだった岐阜公園に。
お天気もいいため、園内にはたくさんの人が来ていました。
また、この公園には、無料のボランティアガイドさんがおり、
誰でもガイドをお願いできるそうです。

というわけで、さっそく、ガイドをお願いすることにしました。
とはいえ、すでに時間を使ってしまっていたため、今回は、
岐阜城や周辺の町の案内をオミットした、いわばショートバージョンで、
ガイドをお願いすることにしました。

まず最初に訪れたのは、山内一豊と、その妻千代の、婚礼の碑です。
山内一豊といえば、大河ドラマにもなった司馬遼太郎の小説『功名が辻』で、
主人公となっている人物です。
私は、功名が辻については、ドラマも本も、どちらも目を通していないのですが、
山内一豊といえば、同じ司馬遼太郎の『関ヶ原』のなかで、
他の大名のアイデアを目ざとく盗み、自分の手柄のようにしてしまう、
老獪な人物として描写されていたかと思います。

まあ、そんなこともあって、関ヶ原後、一豊は、
この合戦で武功をたてたわけではないのですが、
土佐一国を賜るわけで、いずれにしても、大出世を遂げた人物であることは、
間違いないかと思います。

また、一豊の妻の千代について、私は岐阜県の郡上の人だと思っていたのですが、
ガイドさんによると、滋賀県の木之本の出身という説もあるとのことで、
そのあたりの真相は、判然としていないそうです。
一豊と千代の婚儀があった場所も、実際にここなのかどうか、そのあたりも、
実際にははっきりはしていないと、そんなことを、おっしゃっていたように思います。

ちなみに、このとき、ガイドさんといろいろお話ししていて、
肝心の碑の写真を撮り忘れてしまいました。すみません。

信長公居館跡冠木門

そして次に行ったのは、織田信長公居館への入り口となる冠木門です。
こちらは、岐阜市制100周年の記念事業として再建されたもの、らしいです。
いまから、10年から20年くらいまえのことらしいので、
門も、それなりに経年劣化しています。
また、門の位置も、もっと西にあったそうです。

居館跡

こちらが、居館のあった場所です。
石垣などはのちの時代に積んだものもありますが、当時の石垣も一部残っているそうです。
また、そのさらに下層には、斎藤道三時代の石垣、遺構などがあるそうです。
ただそれらは、信長時代の遺構のしたになっているので、
いまとなっては、ほんの一部を見ることができるだけだそうです。
(まるで大阪城の豊臣期の石垣のようなものです)

ちなみにこの場所は、写真をよく見ていたただければおわかりかと思いますが、
いたるところに土嚢やシートが積まれていて、いささか殺風景でした。
発掘中なのか、それとも、整備の途中なのか、そのあたりはよくわかりませんが、
少なくともこの状態は、ここ数年続いているのではないかと思います。
信長公居館跡は、せっかくの岐阜の観光資源なのですから、
今後は、美しく整備されることを願うばかりです。

信長公居館跡看板

こちらは、信長公の居館を再現した3DCGを載せた看板です。
これら建築物の図面などは残されていないため、ビジュアル的な資料は、
何もないそうなのですが、宣教師であったルイス・フロイスが、
建物に関する極めて詳細な文章を残しており、
そのため、こうした再現CGを作ることができたそうです。
それほどまでに、フロイスが詳細な記録をしたということは、
やはり、信長公の居館は、すばらしい建物だったということなのでしょう。

当時の姿をとどめる滝

こちらは、信長時代からある滝だそうで、見栄えをよくするため、
手が加えられている可能性もあるとのことです。
これら居館跡は、岐阜城をいただく金華山という山の麓に位置していますが、
金華山はそれほど大きな山ではないため、滝を流すほどの水量はないそうです。
なので、信長はこの山のうえにため池をつくり、そこから水を流して、
滝をつくったといいます。

チャート

こちらは池があった場所だそうです。
背景の岩は、チャートと呼ばれるそうで、
このあたりは見事にV字状に縞模様が入っています。
かつてはここにも滝があり、おそらくは、見事な景観を誇ったかと思います。
ちなみに、この場所は、NHKのブラタモリでも放映されました。

板垣退助像

さて、そのあとは、板垣退助の銅像がある場所へとやってきました。
ここは、自由民権運動を行なっていた板垣退助が、岐阜で暴漢に襲われた場所であり、
それを後の時代に伝えるため、こうして銅像が建立されたそうです。
ただ、正確には、この場所で襲われたというわけはないそうです。

板垣退助は暴漢に襲われはしましたが、死は免れ、その後も政治活動を続けました。
そして、この銅像のお披露目の際には、本人自らも参加したといいます。

また、この銅像は三代目だそうで、一代目の銅像は、戦時中の供出のため撤去され、
戦後、二代目が作られたそうですが、そのさいは、胸像だけだったそうです。
というわけで、後に、当初のような全身像として再建され、現在に至っているそうです。
ただ、現在の三代目の像は、初代の像をそのまま模倣しているわけではなく、
ポーズがいくらか違うようです。

2018_2_18k.jpg

また、岐阜公園内には、名和昆虫博物館という施設と、昆虫の研究所があります。
こちらは初代の研究所の建物ですが、明治時代の建築だそうで、
とてもモダンで重厚な雰囲気をもっています。
現在は倉庫として使われているそうです。

2018_2_18l.jpg

こちらは昆虫博物館の建物ですが、こちらは大正時代に建てられたものだそうです。
内部にはヘラクレスオオカブト虫が展示されているとこのとですが、
虫が苦手な私は、展示されている昆虫の写真をみただけで、怖気付いてしまいました。

武将隊

おりしもこのとき、園内の広場では、武将隊の人たちがなにかの練習をしていました。
そんなわけで、ガイドさんの勧めもあって、武将隊のみなさんと、
そろって記念撮影をさせていただきました。
武将隊のみなさま、おいそがしいところ、ありがとうございました。

ちなみに、武将隊は、
岐阜城近辺に斎藤道三隊、公園内に、織田信長隊、松永久秀隊が、
陣を張っているそうです。

2018_2_18p.jpg

最後に行ったのは、日中友好公園です。
こちらは、岐阜市と中国の杭州市の姉妹都市提携を記念して作られたものだそうで、
杭州市から職人を招いて、作られたといいます。

すぐそばには、満州開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍の記念碑などがありました。
ここ岐阜市周辺からも、満州に渡り、敗戦時においては、
多大の苦難を強いられた人たちも多数いたのでしょう。
今回はおおまかに見学しただけですが、今度、各碑や、碑文を、
じっくりと読んでみたいものです。

こうして、ガイドさんと一緒に、一時間強、各地を案内してもらいました。
やはり、説明を聞きながら各所を見学するのは、たいへん興味深く、
また、時間があるときに、周辺の町も含め、じっくりと解説していただきたいなと、
思ってしまいました。

また、ガイドの方には、長時間、おつきあいをいただき、
とてもていねいでわかりやすい解説をしていただきました。
ありがとうございました。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。



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