
今年2009年の秋から、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が、
NHKで放送されるそうです。
この物語の主人公は、
日本騎兵の父と呼ばれる秋山好古(あきやまよしふる)と、
好古の弟で、東郷平八郎の作戦参謀として、
バルチック艦隊を破った秋山真之(あきやまさねゆき)、
そして、正岡子規の三人です。
彼ら三人の目を通して、維新後間もない「日本」と、この若々しくも未熟な国が挑んだ、
日露戦争という、未曾有の国家危機を、描いています。
(もっとも、正岡子規は日露開戦前に亡くなりますが)
私にとって、この「坂の上の雲」は、以前から読んでみたい小説だったのですが、
全八巻という長大さに腰が引け、最初の一巻のみを買ってきただけで、
そのまま、放置していました。
が、NHKドラマとして放送されるというニュースを聞き、
ならば放映前に読んでおこうと思い、年末から、読み始めています。

もっとも、なかなか時間が取れなくて、思うように読み進めませんが、
いま、五巻を読み終わったところです。
(画像では四巻までしか映っていませんが…)
この五巻で、本作品のひとつのハイライトである、
旅順攻囲戦が終了します。
有名な水師営の会見も、この五巻に登場します。
坂の上の雲では、
旅順攻略を担当した第三軍の司令官である乃木希典大将と、
第三軍の参謀長であった砲兵少将伊地知幸介に対して、
かなり批判的な描きかたをしています。
もともと旅順攻撃は、海軍の要請から始まった、と、この坂の上の雲には描かれています。
旅順は、日清戦争後、ロシアが、清国から強引に租借し、
その後、ロシア人たちは、ここに軍港を建設し、
艦隊を碇泊させ、港の周囲を砲と壕とで要塞化しました。
日露のあいだで戦争が始まると、
日本海軍は、この旅順港を根城にしているロシア太平洋艦隊を叩こうとします。
が、旅順港周辺に設置された要塞砲のために、日本の艦船は港に近づけません。
というわけで、海軍側は、陸軍に対して、
旅順の港を背後から攻めて、港内にいるロシア艦隊を陸から叩くか、
もしくは、ロシア艦を外海へ追い出してくれ、と、要請しました。
こうして、乃木大将率いる満州第三軍が、旅順攻略を担当するのですが、
旅順要塞は堅固に防衛されており、攻め手の日本兵はたいへんな損害を出していきます。
そんななかで、旅順の港が見渡せる二○三高地は、要塞のほかの部分と比べ、
比較的防備が手薄で、ここを奪取すれば、旅順港のロシア艦船を狙い打つことが
できるはずだと、海軍側が気づきます。
海軍は乃木軍にこの旨を伝えますが、
乃木軍は要塞のいちばん堅牢な部分を平押しに突くだけで、
同じ失敗を何度も何度も繰り返していった、と、そう描かれています。

私の通っていた小学校は、飛騨高山にある「南小学校」というところですが、
この学校の校庭には、乃木希典大将が植えたとされる「乃木松」という松があります。
(日露戦争後、乃木希典は、飛騨高山を訪れたといいます)
私は、子供の頃、乃木大将がいかにすぐれた人物だったかということを、
よく、聞かされたものでした。
ですから、坂の上の雲の「乃木」評は、私にとって、
複雑な感情を抱かせるものです。
もっとも、司馬遼太郎は、作戦家としての乃木を評価こそしないものの、
漢詩人として、また精神家としての乃木については、高い評価を与えていますし、
(司馬は、乃木よりも、参謀長の伊地知幸介少将に、批判を集中させています)
昨今は、旅順攻囲戦について、再評価をする書物や論評も数多く出てきているようです。
(私が以前読んだ、日露戦争がよくわかる本、という書籍も、
乃木擁護の立場をとっていました)
さてさて、ここ飛騨高山にも、乃木松をはじめ、
日露戦争にまつわる石碑やモニュメントが残っています。
旅順港閉塞作戦で戦死し、日本初の軍神になった「広瀬武夫中佐」は、
ここ飛騨高山で幼少期を過ごしており、市の中心にある城山公園というところには、
銅像もたっています。
今後、機会を見て、郷土に残る日露戦争のモニュメントを、
このブログで、紹介できれば、と、思っています。
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