分水嶺

さて、気がつけば、風薫る五月も、もう終わりですね。
今月は、ブログの更新がちょっと滞り気味で、反省しきりです。
次の六月は、もう少し、頻繁に更新が出来れば、と、思っています。
(と、思いつつ、できなかったりして…)

さて、今日の土曜日、我が家では恒例の「水汲み」に行ってきました。
ご飯をおいしく炊くためには、まず、水を変えるのが、
いちばん手っ取り早いです。
(炊飯器をもっと良いモノにするというのも、手ですが…)

なにしろ我が家は、山に囲まれているので、水汲み場には、事欠きません。
以前は、ここから北東の方向にある、丹生川町というところの水汲み場に、
よくいったのですが、最近は、位山スキー場のあたりに出掛けています。

この位山スキー場の水汲み場が、我が家からいちばん近いためです。
(我が家からクルマでおよそ10?15分です)

位山への道

その位山スキー場へ行く道が、これです。
木々の間を貫くように、右に左に、道は蛇行して伸びています。

そういえば、私が運転免許を取って間もない頃、夜な夜な、この道に、
クルマの運転の練習に来たことがあります。
日が落ちれば、この道は真っ暗で、ちょっと不気味ですらあるのですが、
当時の私は、そんなことなどおかまいなしに、ひとりで、この道を昇り降りしたものです。
いまでは、懐かしい思い出ですね。

水汲み

そして、この道をクルマで駆け上ることおよそ十五分。
目的の水汲み場に到着です。

水汲み場は林のなかにあり、いつも静かで、私たちの他に、人の姿はありません。
丹生川町の水汲み場などは、国道158線に面しているためか、
必ずと言っていいほど、水を汲む人の姿をみかけるのですが、
ここ位山では、そんなこともなく、毎回、すんなりと水が汲めます。

銘板を嵌め込んだ石碑

また、水汲み場の向かい側には、位山の由来を記した石碑もたっていました。

この石碑のすぐとなりには、分水嶺を示す古い石碑が建っているのですが、
こちらは、まだ真新しいもののようです。

このあたりは、近年になって、スキーシーズンでなくとも、
四季を通して幅広く利用できるよう、高山市が遊歩道などを整備しています。
この石碑も、おそらく、その事業の一環として建てられたのかもしれません。

それにしても、こうして、大地の恵みである清水を、
手軽に持ち帰ることができることは、ほんとうに、ありがたいことです。

ここ位山は、霊験あらたかな山として、知る人ぞ知る山なのですが、
今回も、そんな山に感謝して、ペットボトル四本分の水を持ち帰りました。

今後もまた、こちらで水をいただきたいと思っていますが、
新たな水汲み場も、開拓したいな、とも、思っています。




コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking

元善光寺-御開帳

先週の土曜(23日)、
信州は飯田にある「元善光寺」というところに、行ってきました。

長野市にある善光寺は、とても有名で、七年に一度の御開帳である今年は、
大勢の人で賑わっていますが、こちら元善光寺が、善光寺の本家本元であるとも、
いわれています。
折しも、御開帳の時期も、双方まったく同じで、
長野市の善光寺と、この元善光寺の両方をお参りしないと、「片参り」になる、
とも、いわれているそうです。

というわけで、かねてから、
御開帳の時期を狙って、この元善光寺にも行こうと思っていたのですが、
ゴールデンウイーク後半から、ここ飛騨高山では、
週末、好天に恵まれることが少なく、結局、御開帳終了間際の先週土曜に、
ようやく目的を果たした、というわけです。

善光寺と元善光寺は、かなり距離が離れています。
善光寺は長野県の北部である長野市にあるわけですが、
元善光寺は、逆の長野県南部、飯田市の近郊にあります。

御岳の姿

この日は、まず、進路を南東にとり、一路、木曽福島を目指しました。
途中、開田高原を掠め通りましたが、山頂に雪をいただく御岳が、とてもきれいでした。
素晴らしい眺めです。

この開田高原は、抜群のドライブコースです。
道路は整備されているのですが、交通量はさほどでもなく、
道中の景色は、変化に富んでいます。

国道361号線

このような、新緑が美しい森のなかを、道が伸びています。
気分爽快です。

木曽福島に着くと、今度は、国道19号線に乗って北上し、
ほどなく、進路を東にとり、権兵衛トンネルを抜けて伊那を目指します。
伊那からは南下して、飯田市へと向かいます。

今度は、駒ヶ岳を眺めながらのドライブとなります。
天気がいいと、ほんとうに、気持ちいいですネ。

そして、飯田市が間近に迫ると、元善光寺、という案内看板が…。
その看板の指示に従ってクルマを進めていくと、
なにやら、大勢の人が道の端にあふれています。

駐車場にクルマを止めて人の波に沿って歩いていくと、元善光寺に、
ついに到着しました。

元善光寺に到着

長野市の善光寺に比べれば、規模はかなり小さめですが、
なんだか、親しみやすい雰囲気も感じます。
御開帳、と大書された看板も、派手でいいですネ。

元善光寺にも回向柱が…

石段を上り切ると、そこには、回向柱(えこうばしら)が立っていました。
この回向柱、長野市善光寺のものとくらべると、やはり、小振りになっていました。
というわけで、回向柱にしっかりと触れてきました。
豚インフルエンザが蔓延しつつあるいま、こうして、不特定多数の人の手が触れるものに、
不用意にさわるのは、ちょっと気が引けますが、
七年に一度の機会ですので、やっぱり、さわってきました。

参拝へ

その後は、御本堂へ。
さすがに、かなりの人出です。
いままで、私は、この寺の存在を知りませんでしたが、
知名度こそ長野市の善光寺に劣るものの、知る人ぞ知る、有名なお寺のようです。

拝観はなんと無料。
四国三十三カ所お砂踏みが行える平和殿というところも、
お戒壇巡りも、すべて無料でした。
駐車場も無料なので、とてもありがたいです。

お戒壇巡りは、長野市の善光寺では、完全な漆黒の闇、という感じでしたが、
こちらは、ちょっと明るく、縁起物の鍵も、難無くさわってくることができました。

これで、今回の御開帳は、長野市の善光寺、そして元善光寺、
それぞれを参拝でき、めでたく、両参りができました。

ですが、御開帳は、
信州と東海にある六つの善光寺すべてで行われるとのことで、
この六つを回るのは、さすがに無理でした。
次回の御開帳のときには、できれば、六善光寺を回ってみたいものです。




コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking
水無神社の戦役記念碑

またまた、ちょっと更新が滞ってしまいました。
なんと、半月ぶりの記事投稿です。

さて、私が住んでいる場所のすぐそばには、水無神社という、
とても立派な神社があります。
正月ともなれば、この神社を詣でるために、
飛騨高山を含め、飛騨地方(岐阜県北部)一円から、多くの人が集まってきます。
また、生きびな祭などの祭事も、この神社にて行われています。

生きびな祭の日記はコチラ。

この神社の鳥居の横には、大きな石碑が、木々のあいだに隠れるように鎮座しています。
私が物心ついた時から、この石碑は、ずっと同じ場所にあったのですが、
どういう石碑なのか、いままでは、何の関心もないままでした。
ですが、四年ほど前、この石碑が、日露戦争戦役記念碑だと、碑文を読んで知ったのです。

水無神社がある場所は、いまでこそ飛騨高山ですが、
かつては、飛騨一ノ宮(宮村)といわれていた小さな村です。
こんなところに、こうした大きな日露戦争記念碑があることに、
当時の私は、いまさらながら、ちょっと驚いてしまいました。

大山巌書

画像ではかなり見えづらいのですが、
碑文のすぐ横に、大山巌書、と、彫り込まれています。
大山巌(おおやまいわお)とは、
西郷隆盛の従兄弟で、日露戦争時に満州軍総司令官を勤めた人です。

裏側には銘板が

石碑の裏に回ると、銘板が埋め込まれています。
その文字をよく見ると、旅順付近にて戦死、という文字が、かろうじてですが、
見て取れます。

旅順の文字が

この村に、日露戦争屈指の激戦地である「旅順」付近で亡くなった方が、
いるのでしょうか…。

旅順攻略に参加した軍であれば、乃木希典の第三軍であろうかと思います。
ですが、ここ岐阜県から、
乃木軍に参加した兵はいなかったのではないかと思うのですが…。
(金沢の第九師団が乃木軍に加わっていますが…)
それとも、海軍側の戦死者なのでしょうか…。
(海軍の重砲隊は旅順近郊に配備されていたはずです)

不勉強ゆえ、詳しくはわかりませんが、
この村から、日露戦争屈指の戦いである旅順攻略戦に参加し、
戦死した人がいるのではないかと思うと、私は、大きな衝撃と深い感慨を覚えます。

坂の上の雲-全八巻

さて、日露戦役記念碑の話題が出たついでといってはナンですが、
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を、ようやく全巻読破しました。
(といっても、読破したのは、もうかなり前のことなんですが)

ちなみに、前回の坂の上の雲(五巻まで読破)の投稿記事はコチラ。

坂の上の雲の六巻以後は、大まかにいって、
奉天会戦と、日本海海戦が、物語の大きな軸として描かれています。
ロシアとの戦いにおいて、陸軍の総力を結集した最終決戦が、奉天会戦であり、
海軍のそれが、対馬沖で行われた、日本海海戦です。
陸、海、で、日露の激闘は、いよいよ、クライマックスを迎えます。

奉天会戦では、秋山好古(あきやまよしふる)の騎兵の戦いが描かれ、
日本海海戦では、好古の弟である真之(さねゆき)の描写に、多くの頁が割かれています。

なにより、日本海海戦の描写は白眉です。
艦砲射撃のすさまじい音とともに、火炎と煙に包まれるバルチック艦隊の様子が、
まるで、目に浮かんでくるようです。

この日本海海戦は、日本側の圧倒的な しかも完璧なまでの勝利でした。
日本海軍の戦力と、ロシア・バルチック艦隊の戦力とは、ほぼ互角。
しかし、戦いが終わってみれば、日本側の損害は無傷に近いほど軽微で、
ロシア側はほぼ壊滅といっていい状態でした。

本海戦に作戦参謀として参加し、日本の勝利に大いに寄与した秋山真之は、
戦後、日常的に心霊を信じる人となってしまったと言いますが、
これほどの圧倒的な勝利を得たならば、誰もが、神がかり的なものの存在を、
信じてしまうのではないでしょうか。

ロシア皇帝ニコライ二世は、日本海海戦の惨憺たる敗北に接し、
日本側との講和に入る決意をします。
ここに、日本は、戦勝国となり、列強国の仲間入りを果たします。

もし、この日本海での戦いに日本が敗北したなら、
日露戦争の勝者はロシアとなり、おそらく日本は、ロシアから法外な賠償金を要求され、
北海道と対馬を失い、佐世保はロシア租借地なっていただろう、と、司馬遼太郎は、
書いています。

ロシアに負けていたら、いまの日本はなかったでしょう。
明治の人々の奮闘があってこそ、この国の今はあるのかもしれません。

坂の上の雲では、この圧倒的勝利で物語の幕を引きつつも、
最後の章である「雨の坂」では、どこか物悲しさが漂っています。

「この物語の主人公は、
 あるいは開花期を迎えようとしている日本という小さな国かもしれない」と、
坂の上の雲の冒頭に書かれていますが、
その日本という国は、日露戦勝で、国家としての一定の完成をみつつも、
のちに、破滅にいたることとなります。
その現実が、ラストに漂う物悲しさの理由のひとつかもしれません。

さて、今後も、地元に残る日露戦争のモニュメントを、紹介できれば、と、
思っています。




コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking

善光寺御開帳

いよいよゴールデンウイークに突入しましたネ。

というわけで、かねてから行こうと思っていた、長野の善光寺に、
昨日(30日木曜)、行ってみました。
今年、善光寺では、七年に一度の御開帳(ごかいちょう)が、五月末まで催されており、
どうしても、この時期に、いってみなくては、と、思っていたのです。

善光寺行きの日を30日にした理由は、
連休中とはいえ、この日は、土日でも祝祭日でもないいわば平日であり、
ある程度は、混雑を回避できるのでは、という思いがあったからです。

というわけで、出発予定日の前日である29日に、
MINIのオイル交換を行い、長野市までのドライブに備えました。
(ちょうど、オイル交換をしなければならない距離数になっていましたし…)

さて、当日は朝から絶好の好天。
ネットやニュースの天気予報によると、全国的に終日晴れるとのことで、
行楽には、まさにうってつけの日となりました。

ところが、私もヨメも朝から寝坊…。
結局、出発は8時半を回ってしまい、ちょっと遅いスタートとなってしまいました。
(といっても、まあ、寝坊はいつものことですが…)

安房トンネルを超えて

さて、ここ飛騨高山から、善光寺のある長野市に向かうには、
まず、国道158号線に乗って、ほぼ真東に進路を取って、
岐阜県と長野県との県境にある温泉地「平湯」を目指すこととなります。

平湯には、安房トンネルという、ふたつの県をまたぐ長いトンネルがあり、
ここを抜けて、松本方面へと向かいます。
いつもは、このトンネルを通らず、細く急な峠道を通って長野県に行くのですが、
いまの時期は、峠はまだ、積雪のため閉鎖されており、トンネルが唯一のルートです。

松本市に着いたら、今度は国道19号線に乗って、北を目指します。
もちろん、松本市から長野市までは、高速道路を使って行くことが可能ですが、
私のMINIには、ETCなどというものはついておらず、料金割引の恩恵は受けらないので、
(まあ、もっとも、この日は割引のない平日ですが)
一般道である国道19号線に乗って、一路、長野を目指すことにしました。

長野への道

この日、国道19号は、渋滞などまったくなく、
極めてスムースに走ることができました。
空は青く、左手には北アルプスを臨むことができ、
とても、爽快な気持ちになります。

そして正午を少し回った頃、ようやく長野市に到着。

さて今度は、駐車場を捜さなくてはなりません。
とりあえず、善光寺の裏手にある善光寺駐車場のあたりに行ってみますが、
やはり、クルマの列ができています。
平日とはいえGW。
しかも御開帳の時期ですから、いつもの休日より、人出は多いようです。

そんなわけで、市内をグルグルすること15分ほど。
ようやく、長野駅と善光寺の中間のあたりに、無事、クルマを止めることができました。
(車高の低いMINIは、駐車場によってはマフラーの触媒あたりを擦ることがあるため、
 駐車場選びには、毎回苦労します)

それでは、いよいよ善光寺へと向かいます。

表参道に行くと、たくさんの観光客の姿がありました。
この通りには、明治時代に建設されたと思われる古い西欧風建築物が多くあり、
ついつい、あちこち、見入ってしまいます。

善光寺山門

仁王門くぐって山門へ。
以前、善光寺を訪問したさい、この山門は修復中で、
味気ない覆いが架けられていましたが、今回は、
その威容をしっかりと見ることができました。

しかも、いま、この山門へも一般客が入れるようで、山門の上部の階には、
観光客の姿が、そこかしこに見えました。

善光寺と回向柱

ついに、善光寺本堂へ。
あたりはいよいよ混雑を極めてきます。
平日といえども、連休の中日は、やはり多くの参拝者で賑わっています。

本堂の前に立てられている木の柱は、
回向柱(えこうばしら)と呼ばれるものです。
この回向柱に触れることで、善光寺ご本尊とのご縁が結ばれるとのことで、
参拝客の多くは、この柱に触れようと、長い行列を作っていました。
もちろん、私も触れてきました。

その後は、拝観料を支払って本堂のなかへと入り、
七年に一度、開帳される前立本尊(まえだちほんぞん)を参拝します。

ここから先は、撮影禁止のため、画像はありませんが、
とにかく、本堂のなかはすごい人です。
まるで、通勤電車並みの混雑です。

それにしても、本堂は、重厚ですばらしい建物です。
天井も、柱も、建築後の長い年月を物語るかのように、どれも黒く煤けたように見え、
ストイックな雰囲気をかもしています。

結局、本堂のなかに入って一時間ほど待って、
ようやく、前立本尊を参拝することができました。
周囲を照らす赤みを帯びた蝋燭の光が、とても厳かで、かつ幻想的で、
喧噪のなかにあってさえ、どこか、心休まる思いがします。

さて、その後は、お戒壇巡りへと進むのですが、こちらは、
さらに待ち時間が長くなるとのことです。
しかも、このとき、ヨメは腰痛を悪化させてしまい、
(ただじっと突っ立っていると腰が痛くなるというのです)
結局、今回は、残念ながら、お戒壇巡りをパスすることとなりました。

その後は、あらゆるお経を納めてあるという経蔵(きょうぞう)や、
資料館を見て歩きました。

少し人もまばらに

というわけで、気づけば夕方。
あれほどいた人も、だんだんとまばらになってきました。
というわけで、このあとは、ブラブラとお土産屋さん巡りです。

善光寺名物の一味や、般若心経が書かれた手ぬぐいなどなどを、
いろいろ、買いました。

というわけで、表参道を歩き、途中、コンビニで飲み物を買って、
クルマに乗り、帰路についたのですが、なんと、ヨメ、ここで、
野菜ジュースをこぼしてしまい、着ていた白い服に、ぶどう色に大きな斑点を、
ふたつほどつけてしまいました。

これもまた、忘れられない(?)思い出になりました。

そんな話はさておき、善光寺には、ほんとうに、行ってよかった、と、思います。
次回の御開帳は七年後ですが、また、ぜひ、行きたいものです。




コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking