D-GALLERY-NBY作品

名古屋のレンタルフォトエージェンシー「イマージュ」さんに、
お預けしていた私の3Dイラストが、このたび、
横浜にある「PBY/フォトバンク横浜」さんのサイトにて、
ダウンロード販売されることになりました。

イラストは、イマージュさんのカタログ「D-GALLERY」シリーズに、
掲載されていたものを筆頭に、人物百景、歳時記、
デジタルバックグラウンドなどに収録、掲載されていたものや、
イマージュさんのサイトで販売されていたものなどが、含まれています。

その数はあまりにも多く、総数でいったい何点あるのか、
自分でも、わからないほどです。
ひょっとすると300点以上あるかもしれません。

●PBY / フォトバンク横浜さんのサイトはコチラです

イマージュさんが、
デジタルイラストレーションを集めたD-GALLERYシリーズを始めたのは、
たしか、1997年のことだったように思います。
当時、私はまだ、Macを使い始めて二年が経過したところで、
この頃は、安価な3Dソフト「Strata Vision 3d」の使い方を、
ようやく、憶えた頃でした。

NBY作品-2

こちらが、その1997年頃の作品です。
この当時使っていたMacは、Power Mac 7100/80というタイプで、
HDDは700MBしかありませんでした。
いま考えると、信じられない容量ですが、
この時代では、それでも、なんとか使えたようですね。

Strata Vision 3dは、モデリング機能が弱く、
複雑な曲面を持つオブジェクトを作るのは、少々困難なソフトですが、
初心者でも直感的に操作でき、また、レンダリングの品質も極めてよく、
ほんとうに重宝しました。

また、この当時は、Strataに関するマニュアル本も多数発売されていて、
Mac環境で3DCGをはじめるにあたって、このStrataから手をつけた、
という人は、かなりいらっしゃったのではないかと思います。

いま思い返しても、Strataは、
シェイプ機能など、先進的でとても便利な機能を持っていたと思います。

NBY作品-3

初期の作品は、いま見れば、技術的にも稚拙で、
どうしても古さを感じてしまいますが、それでも、
この当時、これらはほんとうによく売れました。
とくに、この飛行船のイラストなどは、非常に長くヒットしてくれました。

また、作品作りも、とても楽しいものでした。

NBY作品-5

そしてこちらは、末期の作品です。
こちらは、Strataではなく、Shadeを使って製作しています。
Strataは、先にも述べたように、モデリング機能も弱く、
そのせいもあってか、しだいに3Dソフトのなかで、少数派となっていきました。

というわけで、Strataにはたいへん愛着があったのですが、
ユーザーの多いShadeに乗り換えました。

NBY作品1

ただ、Shadeにはなかなか馴染めず(いまも馴染んでいないかもしれません)
このころは、作業は思うに任せませんでした。

フォトバンク横浜さんのサイトには、上記のほかにも、
たくさんイラストを掲載していますので、
広告業界の方、デザイン業界の方、印刷業会の方で、
もし、ビジュアルにお困りでしたら、フォトバンク横浜さんのサイトで、
イラストのダウンロードをしていただけたら、と、思っております。
(無断使用はご遠慮ください)

ただ、作品のなかには、古いものも多数あるので、
今後、新作を作って、おぎなっていきたいと考えています。




コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
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3月11日午後2時46分、極めて大きな地震が、東北から関東を襲いました。
この地震の規模は、後にマグニチュード9.0と改められ、
世界的にもまれな大きさであると、広く報道されています。

この地震が引き起こした「揺れ」の被害も、
もちろん多大でしたが、今回、さらに被害を拡大させたのは、
いままで経験したことがないほどの、巨大な津波でした。
青森から千葉に至る太平洋沿岸各所は、
この津波によって、深刻なダメージを負ってしまいました。

まさに「国難」ともいうべきこの大地震から、今日で、丸11日が経過しました。
地域によっては、復興の歩みなどもはじまったようですが、
被災地があまりにも多く、いまでも、
救援物資がまるで行き届かないといったところもあるといいます。
また、原発事故にいたっては、まだ危機が継続中で、
いつになったら、完全に安全な状態になるのか、その目処さえわからない状態です。

地震のあった3月11日…。
おりしもこの日は、うちのヨメさんのお友達が、
ここ飛騨高山を訪れる予定の日でした。

私たちは、お昼に、高山駅まで、そのお友達をクルマで迎えに行き、
昼食をとって、その後、この我が家へと彼女をお連れしたのです。
そこでしばらく皆で談笑した後、
ふたたび、高山市内へ観光に向かおうとしたのですが…。

このとき、ぐらりと揺れを感じました。
恐怖を感じるような強いものではありませんでしたが、
身体にはっきりと感じ取れる地震でした。
電灯や鏡台がゆらゆらと揺れ、壁がミシッと音を立てました。

とっさに私は「ああ、またきたか」と、そう思いました。
というのも、ここ飛騨高山では、先月末の日曜の夜(最終月曜の早朝)、
大きな地震が立て続けに二回もあり、その後も何度となく、
ここ飛騨を震源とする地震が起きていました。
ですので、11日午後のこの地震も、
おそらくは一連の、同じ震源に由来するものだと考えていました。

とはいえ、とりあえず「地震速報でも出るかな」と思い、
テレビをつけたのですが、予想に反し、震源は宮城県辺りであると知りました。
しかも、かなり大きな地震であるようだと知りました。
ですが、このときは、出かける間際だったので、
ほんの一瞬テレビを見ただけで、すぐに消してしまいました。

その後、飛騨高山の古い町並みを見て回り、夕食をとって帰ってきました。
町並み巡りの途中、知り合いのいる喫茶店に立ち寄ったのですが、
このとき「地震の影響で、お台場で火災があったらしいよ」
などといった情報を耳にしました。
とはいえ、それ以上くわしいことはわからず、結局、
その後も町を散策していました。

帰宅したのは、午後10時頃だったと思います。
テレビをつけると、すべての局が地震報道一色となっており、
どのアナウンサーの声にも、強い緊張が感じられました。
そしてようやく、ただならぬ事態が起こったのだと知りました。

その後は、家やクルマを押し流して迫る津波の映像や、
波にさらわれ、廃墟のようになってしまった街の映像などを、
ただただ呆然と見つめていました。

いま、事態の全容がわかってくるにつれ、
今回の震災がいかに大きなものだったかを知り、あらためて驚くばかりです。

また、厳しい冷え込みのなかで、物資さえ満足に届かない避難所で、
安否さえわからない肉親や友人知人のことを思いながら、
身を丸めている人が、いまもまだたくさんいるのだと思うと、
胸が締め付けられる思いです。

おかげさまで、ここ飛騨高山は、
地震こそ頻発したものの、大きな被害はありません。
私は、いまも、暖かい部屋にいて、
一日三食の食事をとり、夜は布団で眠っています。
このあたりまえのことが、いまはありがたく思えると同時に、
被災された方々のことを思うと、非常に申し訳なく思ってしまいます。

そのため、このブログも、更新を自粛していました。

何らの被害も受けず、また、停電といった地震の影響も受けることなく、
日々を過ごしている私には、被災されたみなさんの、深い痛みや苦悩を、
真に理解してはいないと思います。

ですが、みなさんが、苦しいなか、同じ被災者を思いやり、
物資を分け合い、励まし合いながら生きているさまを見るにつけ、
私は、みなさんが持つ、情の深さ、雄々しさ、やさしさ、たくましさ、に胸を打たれます。
未熟な私は、そのなかのひとつでさえ、ほとんど持ってはいないでしょう。

みなさんの振る舞いは、世界のなかで、いま、困難にあえいでいる人々に、
希望と感動を与えていると思います。

震災の被害にあわれた方々、地震によって不便な生活を強いられている方々、
原発危機の解決に懸命にあたっている方々、
みなさんに、一刻も早く、おだやかな日々が訪れることを、
心より、お祈りいたしております。