
忙しさのせいで、ここのところまるでお出かけができない、と、
前回の記事で書きましたが、17日の日曜は、久しぶりに、
MINIでドライブに出掛けました。
とはいえ、午前中は仕事やら所用やらで、おもいのほか時間を費やしてしまい、
結局、出発できたのは、ほとんどお昼近く。
ここまで出発時刻が遅れてしまったので、
さほど遠出はできないかな、と、思いもしましたが、それでも、
ひさしぶりのMINIでのドライブですから、
ちょっと足を伸ばして、福井市まで出掛けてみることにしました。
もっとも、当初から、福井に行こうと決めていたわけではなく、
目的地は、その場の成り行きで決めました。
というのも、福井方面には、ここのところ、まったく行っておらず、
気まぐれに、ちょっとそちらの方角に行ってみたくなったのです。

今回も、いつもように下道ルートを辿りました。
まず、国道158号線に乗って飛騨高山を出て、
荘川町、白鳥町を経由し、福井県の九頭竜へ。
そこからさらに西へと進み、大野市を経て、福井市へと至る、というものです。
(画像は、荘川町の道の駅で小休止した時に撮ったものです)
福井での目的地は「毛谷黒龍神社」という神社に決めていたのですが、
なにしろ、気まぐれで目的地を決めたものですから、
毛谷黒龍神社の正確な位置を、事前にキチンとリサーチしておらず、
勘をたよりに市内をグルグルと回って捜すことになりました。
だいたいの位置は憶えていると思っていたので、
看板などがあれば、見つけられるかな、と、思っていたのですが、
結局、探し当てることはできず、どうにも時間をムダにしてしまいました。
というわけで、次に目標としたのは、
柴田勝家の居城「北の庄城」が鎮座していたという北の庄城趾です。
こちらについては、毛谷黒龍神社を捜しているさい、偶然見つけたので、
行ってみることにしました。

こちらが、北の庄城趾を訪れる人のために設けられた臨時駐車場です。
駐車場というより、緑の原ですが…。
北の庄城は、先にも述べたように、
織田信長の家臣だった柴田勝家が築いた城です。
本能寺の変によって信長が亡くなったあと、
勝家は、同じ家臣である羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳で矛を交えることになります。
ですが、勝家は、秀吉の勢いに破れ、以後、北の庄城も
落城してしまうこととなりました。
勝家は、落城に際し、信長の妹で妻の「お市の方」とともに自害しましたが、
お市が前夫とのあいだにもうけた三人の娘は、落城前に城を脱出し、
秀吉に迎えられることとなります。
(このあたりのいきさつは、2011年の大河ドラマ『江』で描かれています)
そんなわけで、北の庄城趾には、いま、城の名残はありませんが、
あたりは公園として整備され、観光スポットとなっているようでした。

こちらは、柴田勝家公の像です。
戦場では「鬼柴田」と恐れられたといいますが、
そんな雰囲気に溢れた、力強く迫力ある像です。

そしてこちらは、残存する北の庄城オリジナルの石垣です。
北の庄城の石垣は、後に福井城が築城されるさい、その多くが運び出され、
福井城の石垣として使用されることとなってしまったため、
現存するものが少ないようです。

お市の娘である三姉妹です。
この、茶々、初、江の三姉妹が、昨年の大河ドラマの主役でした。
付近には、大河ドラマと絡めた観光用ののぼりも立っていました。

かつての北の庄城の威容をしのばせる、大型の城の模型です。
できれば実物大で復元してほしいところですが、周囲には焦点や民家もあり、
そんなことはとてもできないようでした。
この北の庄城趾のすぐ隣には、入場料無料の歴史資料館があり、
スタッフの方が、福井の歴史について、詳しい説明をしてくれます。
226事件のさいの首相、岡田啓介が、福井県出身だったことを、
私は、この資料館で、はじめて知りました。
その後は歩いて福井城へ。
結城秀康が築城したという福井城は、城そのものはすでにありませんが、
立派な石垣と堀が残っています。

こちらは、天守閣付近の石垣ですが、頑丈そうな石垣の一部が、
一部崩れており、立て看板によると、
福井地震のさい、こうした被害をうけたとのことです。
地震の破壊力がいかにすさまじいかを理解できるのですが、
この福井には原発が多く、崩れた石垣を見ていると、不安は拭えません。
その後も、時間の許す限り、福井の街を歩いてみましたが、
なによりも出発が遅かったため、
行きたい場所を巡るには、ちょっと時間が足りませんでした。
いまの仕事が一段落したら、もう一度、福井市の名所を巡ってみたいものです。
コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
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