スズキデザイン室再現模型

自動車はどのようにデザインされ、製品化、量産化されているのか…、
それをわかりやすく解説した施設のひとつに、
スズキ自動車が運営する『スズキ歴史館』という展示館があります。
この施設は、クルマの開発から製造までの工程を、詳しく紹介するとともに、
過去にスズキが製造してきた、さまざまなクルマやバイクの展示も行うという、
とても幅広く充実した内容を誇っているといいます。
というわけで、この施設に、先週末、見学に行ってきました。

もっとも、スズキ歴史館は完全予約制というシステムになっており、
事前に連絡を入れておかないと、見学することはできません。
もし、この施設へのお出かけをお考えの方は、ご注意ください。

○ スズキ自動車 / スズキ歴史館

見学予約は、通常は、上記のスズキ歴史館のサイトから行うことになっており、
ここで日時の指定をするわけですが、電話での予約にも対応しているとのことで、
当日に急に予約をしたいといった場合は、この電話が便利だと思います。
私も、この電話予約を利用しましたが、とても親切に対応していただきました。

スズキ歴史館到着

今回は、私のMINIで現地へと向かいましたが、
かなりの長距離ドライブとなってしまいました。
それでも、MINIはがんばって走ってくれました。

歴史館はスズキ自動車本社工場の真向かいにあり、とても立派な施設でした。
エントランスで名前を名乗り、受付をすませると、あとは自由に見学できます。
(ガイドがついて説明を受ける、といったことはありません)
しかも、見学は無料という太っ腹で、たいへんありがたいです。

この1階のスペースには、新型のアルトをはじめ、スズキの現行生産車や
レースに参加したバイクの展示などがありました。

そして歴史館の2階へと進んでみます。
こちらの階では、クルマの製造工程などの展示をメインに行っています。
まず最初が『開発ゾーン』になります。
このコーナーでは、クルマを作るさいに行われる、事前の企画会議からはじまり、
以後、スケッチによるデザインの検討、クレイモデルによるデザインの確認、
といった工程を紹介しています。

私としては、この工程がいちばん興味のあるところで、
今回の見学のメインといってもいい部分です。

モニター画面

こちらは、クルマのコンセプト画を制作しているところです。
基本的にスケッチは手描きされたものであり、
それをスキャニングしてコンピューター内に取り込み、
あとは、Photoshopを使って、着色とリアルな陰影付けを行っているようです。
つまり、ふだん、私がメディカルイラストレーションを制作する時と、
ほぼ同じ手法が用いられています。

しかも、着色する面を分けるために、パスが切られており、
なるほど、やっぱりこうやって制作しているのか、と、思うばかりです。
パスやアルファチャンネルを使って選択範囲を作り、そこに、
ブラシツールで着色する、というやりかたです。
エアブラシイラストレーションのデジタル版といった感じです。

ただ、机のうえにはマーカー類が多数おかれているところを見ると、
デジタル着色だけではなく、アナログな着色も行われているのかもしれません。

デザインスケッチ

こちらは各種のデザインスケッチです。
クルマのような立体物をデザインするさいも、やはり、実際に手を使って、
紙のうえに自由な発想をもって描く、というやりかたが、基本のようです。
いきなり3Dでモデリングしたり、などといったことはないようです。
デジタル化が進んだ現在でも、モノ作りの現場は、その最初の工程に、
ハンドメイドというファクターを必要とするようです。

それにしても、かなり手慣れたスケッチ、彩色です。
こうしたスケッチ群は、見ているだけで、気持ちの高ぶりのようなものを覚えます。

その次のコーナーでは、実際に立体物を作って、デザインを検討する、
という工程を紹介しています。

クレイモデル

こちらでは、おおまかに作られたクルマのボディのうえに、
粘土状のペーストを盛り、それを人の手で加工することで、
デザインの検討用の実物大の模型を作る工程を展示しています。

こうして、実物大の模型を作ることにより、車体の曲面が、
実際にはどのような状態になっているのか、体感的に知ることができ、
また、スケッチでは知り得なかった、
立体物としてのデザインの把握や、大きさ感が実感できるようになります。

このクレイモデル作成も、手作業による職人ワザで、
最新の自動車製造の現場でも、アナログによる手法が、
脈々と息づいているのだということが、よくわかります。

工業用ロボット

その後は、クルマの製造工程などを紹介しています。
こちらは工業用ロボットの展示で、実際にボタンを操作して、
置かれたドアパネルを移動させるといったことができるようになっています。
(ロボットの前にはガラスがあるので、撮影する自分自身が映り込んでしまいました)

また、クルマを含むさまざまな工業製品を製造するさいの工法も紹介されていました。
ひとつめは、砂型に金属を流し込んで意図した形状を作る鋳造、
そして、金属の塊を叩いて引き延ばすていく鍛造、
また、プラスチックなどの樹脂を金型に流し込んで成型品を作る射出成形など、
音声案内をつけたパネルや展示品とともに、それらがわかりやすく解説されています。

生産ライン

実際にクルマを組み立てるラインも、実物大セットを使って再現されています。
このコーナーでは、いかにクルマを効率よく見立てるのか、
また、作業員の負担をどのように減らすのか、といった工夫を、
随所に見ることができます。

紡織機

そして次は3階へ。
この3階フロアには、スズキが創業当時に製造していたという織物機などの展示があり、
その次に、ごく初期の二輪車、乗用車と、各時代に沿った展示がなされています。

初期の二輪車

この二輪車、一見するとホンダのバタバタによく似ていますが、
当時は、こうした、自転車に小型エンジンをつけたような車両を、
各社、生産していたのだと思います。
脇にさりげなく置かれた釣り竿とカゴが、なんだかジオラマ的で、
見ていて楽しいですネ。

かわいいクルマ

こちらは、たしかスズライトだと思います。
この当時のクルマはいまみてもかわいいですね。
なんだか、MINIに通じるものがあるような気がします。
丸みを帯びたリアのラインも愛嬌があります。

ピカピカのパイク

バイク類の展示もとても豊富です。
しかも、どれもピカピカです。

こうして、スズキ歴史館を思う存分堪能してきました。
この施設は、事前の予約こそ必要ですが、館内のすべては無料で見学することができ、
また、展示内容をじっくり見学すると、思わぬお土産を得ることもできます。
機会があったら、ぜひ、でかけてみてください。





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満蒙記念館パンフレット表紙

今年は『戦後70年』という大きな節目にあたる年です。
そのためか、さまざまなメディアで、先の大戦に関連した企画や記事を、
いつにも増して多く目にするように思います。
戦前、戦中と呼ばれた時代から、長い時間を経たいま、
戦争の体験者は減り、その人たちから生の証言を聞く機会というのも、
当然のことながら、わずかなものとなっています。

私事で恐縮ですが、私の祖母は戦前、戦中を通して、
現在の中国東北部に位置する日本の傀儡国家であった「満州国」に行っており、
終戦直前に起きたソ連軍侵攻、その後の敗戦で、内地に引き上げるまで、
たいへんな苦労をしたといいます。
そのときの話は、昔から、折りにふれ聞いていたのですが、
祖母が他界したいまとなっては、不明なところも多く、
もっと聞いておいたほうがよかったのでは、と、思うことがよくあります。

そんな祖母の影響もあったのか、しだいに私は、
満州国や、満州を防衛していた日本の出先軍隊である「関東軍」に、
興味を持つようになり、その後、書物などを通して、
満州国の成り立ちや、消滅の経緯、
また、関東軍による独断先行の行動などを知るに至りました。

○ 満州国の詳細についてはこちらをご覧ください

同時に、満州からの引揚者の体験手記などにも、目を通したことがありました。
昭和二十年当時、満州を守るべき関東軍は、ソ連侵攻の前に、
防衛拠点の縮小化ということで、すでに兵力を国境付近から遠ざけており、
しかもこの事実を、軍事機密という理由で、
現地に住む日本の民間人に知らせることはなかったのです。
いわば、軍は、だんまりを決め込んで同胞を見捨てたのであり、
残された人たちは、突然攻撃をしかけてきたソ連機械化部隊の矢面に立たされ、
塗炭の苦しみを味わったのです。

満州各地に住んでいた日本の民間人は、
日本政府の押し進める国策によって、海を渡った人たちでした。
その代表的なものが満蒙開拓団で、数は20〜30万ともいわれています。

阿智村の満蒙記念館

こうした、開拓団の歴史を広く世に知らしめ、後世に伝えるために、
長野県の阿智村に『満蒙開拓平和記念館』という施設が、
およそ2年前にオープンしました。

○ 長野県阿智村 / 満蒙開拓平和記念館

もっとも私は、この施設の存在をまったく知らなかったのですが、
今年、ふとしたきっかけで知ることとなり、
以後、ずっと行ってみたいと思っていたのです。
そしてようやく、先日の土曜、念願かなって、見学にいくことができました。

土曜を選んで出掛けた理由は、この施設では、
毎月、第二と第四の土曜に、かつて開拓団に参加した人や関係者を招き、
体験談を語ってもらう、という催しも行っているとのことで、
できればこの機に、ぜひとも、生の証言を聞きたいということで、
日時を見計らった、という次第です。

記念館ネームプレート

阿智村は、昼神温泉と飯田市のあいだに位置していて、
自然豊かな美しい場所です。
施設の建物は、大きくはないのですが、
当然のことながらかなり新しく、重厚感がありました。

館内は撮影が許されていませんので、ここから先の写真はないのですが、
入口を入るとまず受付があり、ここで入場料を払って、
向かって左手の展示ブースから見学していくというかたちになります。
(右手には喫茶スペースと、講演会が行える部屋があります)

展示は、日露戦争以後の日本の歩みと、
当時の満州を巡る情勢を記した年表からはじまり、
移民を薦めるポスターなどの展示、当時の記録映像の紹介、
開拓団が暮らした家の実物大模型、ソ連侵攻時の状況を示す地図、
開拓団の証言集、シベリア抑留の様子、
また、残留日本人孤児の捜索と支援に生涯をささげた、地元阿智村の僧侶である、
山本慈照さんについての展示など、多岐に渡っていました。

こうして、ひととおりの見学をすませたころ、ちょうど、
この日の語り部を務めてくださる、久保田さんという元開拓団の方の講演が、
喫茶スペースに隣接したセミナー室で始まりました。

久保田さんは昭和十九年に河野村開拓団の団員として、
14歳という年齢ながら、単身で満州に渡り、
満州の首都であった『新京』にほど近い場所にあった河野村の分村に、
入植したといいます。
ソ連との国境付近に入植したケースも数多くあった当時、
こうした大都市近辺への入植は、比較的恵まれていたのでないかと、
個人的な考えですが、私は、そう思ってしまいました。

ですが、この河野分村では、昭和二十年8月16日から17日にかけて、
73名というおびただしい数の集団自決があり、久保田さんは、
その悲劇を生き残った2名のうちの、おひとりだというのです。

河野分村地図

久保田さんは、そのときの模様を、事前に配布された地図を交え、
詳しく、それでいて、抑制された口調で、
静かにお話ししてくださいました。
ですが、その内容は、あまりにも酸鼻を極めるものでした。

この残酷で悲惨な話を、軽々しく書くことは憚られる思いです。
語り部の久保田さんにとっても、
みなさんの前で、こうした体験を繰り返しお話するのは、
たいへんにつらいことではないかと思います。
ですので、ここでは、詳細は割愛させていただきますが、
久保田さんは、その後、満州各地を渡り歩くこととなり、
また、ときには、八路軍の捕虜といった立場になって強制労働を経験するなど、
数奇で過酷な運命を辿ることとなります。
それでも、自力でなんとか食いつなぎ、
終戦よりほぼ丸三年を経て、ようやく、日本に帰り着いたといいます。

講演の時間はおよそ1時間半でしたが、まさにあっという間の時間でした。

その後、記念館のスタッフの方の勧めもあり、隣接する喫茶スペースで、
久保田さんと直接お話をさせていただくこともでき、
より詳しい事情をお伺いすることもできました。

また、このあと、新聞記者さんの取材もあり、
その質疑応答についても、ひきつづき聞かせていただきました。

河野分村の位置

おそらくは、久保田さんの経験した悲劇と同様の事態が、当時の満州にいた、
すべての日本人の身に、等しく降り掛かっていたことと思います。
そこには、歴史の奔流に埋もれてしまった、無数の物語があるのかもしれません。
大陸の一角に強引に作った砂上の楼閣のような国家は、
十年と少しであっけなく崩壊しました。
先見性を欠いた誤った国策が、どれほどの苦しみを国民に与えたのか…、
そして、もともと現地に住んでいた人にも、どれほどの苦痛を負わせたのか。
それを考えると、平和と繁栄が訪れたいまこの時においても、
国がどのように道を誤ったのかをしっかり検証し、
多大の犠牲を払った教訓が生かされているのかどうかを、見続けなければと思う次第です。

いずれにしても、私としては、たいへん実りある一日を過ごさせていただきました。
今回、貴重な証言を聞かせていただいた久保田さん、
また、満蒙記念館のスタッフのみなさん、ありがとうございました。

記念館では、ほかの証言者の方にも語り部をお願いしているとのことですので、
また、機会があれば、ぜひ、阿智村を訪れたいと思っています。





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小谷城から眼下を臨む

2015年のGWは、全国的に、比較的お天気に恵まれたとのことで、
行楽地は、どこも賑わったのではないかと思います。
我が家では、長い連休をとるというわけにはいかなかったのですが、
やっぱり、この時期は、どこかに行ってみたい、ということで、
ヨメの実家に一泊しつつ、古戦場を巡る旅に行ってきました。

今回訪ねてみたのは、滋賀県長浜市にある、小谷城 (おだにじょう) です。
この小谷城は、近江の戦国大名であった浅井長政 (あざいながまさ) の居城であり、
日本有数の山城とも称されています。
とはいえ、城は、天正のはじめに、織田信長によって攻められて落城しており、
いまでは、一部の土塁や石垣、曲輪などが残るのみとなっています。

小谷城の落城のいきさつについては、
さまざまなドラマなどで取り上げられており、
4年前の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」では、第一話で語られています。
また、最近では、信長のシェフというドラマでも、
一連のエピソードが織り込まれていたのではないかと思います。

いずれにしても、小谷城は、
戦国期を語るうえではかかせない、極めて有名な城です。

○ 小谷城の情報はコチラへ…

上洛への経路を確保したい信長は、近江の浅井長政と同盟を結び、
その証として、自分の妹である市 (いち) を浅井家に嫁がせます。
しかしその後、信長は、越前の朝倉氏を攻めることとなり、
朝倉とも同盟していた浅井は、結局、信長とは敵対することとなってしまいます。

近江に攻め寄せる信長に、浅井長政は、小谷城にまで追いつめられますが、
この城は天然の要害であり、落城させるのが極めて困難でした。
とはいえ、羽柴秀吉の活躍などにより、
難攻不落の小谷城はついに落城し、浅井長政は自刃します。
このとき、浅井長政の正室であった市は、三人の娘とともに、
小谷城を脱出し、以後、信長の庇護下に入ることなります。

小谷城のふもと

こちらが、その小谷城のふもとです。
異彩を放つ大きな兜のオブジェがあり、しかも、周囲には、
整備されて間もないと思われる駐車場や、資料展示館があります。
もしかすると、大河ドラマ「江」の放映を機に、整備したのかもしれません。

シャトルバス

通常は、ここよりさらにうえまで、クルマで行けるとのことですが、
GWの期間中は、この先の山道を通行止めにしており、そのかわりに、
シャトルバスを運行させています。

シャトルバスの料金はひとり500円なのですが、バスに乗れば、
ガイドさんが各所を説明しながら案内してくれるといいます。
これはありがたいサービスです。

パスの定員は20名で、GW期間中ということもあり、
混んでいて乗れないかも、と懸念もしたのですが、混乱もなく、
すんなりと乗り込むことができました。

番所跡

こちらが、バスの終点近くにある『番所跡』付近です。
ここから先は、ガイドさんとともに、同じバスに乗り合わせた参加者のみなさんと、
ちょっとした小谷城登山となります。

虎御前山

さすが山城だけあって、周囲の景色がよく見渡せます。
眼下に見下ろせるのは、信長の陣があったという『虎御前山』だそうです。
ここに、信長と、徳川家康の軍、あわせておよそ4万の軍が陣取り、
小谷城と睨み合いとしていたといいます。
思いのほか、敵陣は近くにあったのだと、そう感じました。

御馬屋跡

ここは御馬屋跡という場所で、土塁などが残されています。
このちょうど真反対には、池の跡も残されており、
当時は、この池から生活用水を得ていたともいいます。
池は、いまは枯れていますが、当時の水量は豊富だったといわれています。

門の跡

ここには、かつて門があったといいます。
大河ドラマ「江」の第一話で、巨大な門の前で、時任三郎演じる浅井長政と、
鈴木保奈美演じる市が、今生の別れをする場面がありますが、
そこは、この場所に相当するとのことでした。

また、実際「江」のロケは、この小谷城跡でも、行われていたといいます。

大広間跡

大広間跡です。
地面には、かつて建物があったことを示す礎石が点在しています。
小谷城跡は、いまでは木々に覆われていますが、
この城が機能していた時には、木々の類いはいっさいなく、
すべて伐採されていたといいます。

石垣跡

こちらは本丸の石垣跡です。
小谷城は、攻め落とされたあと、羽柴秀吉が貰い受けることとなりますが、
秀吉にとっては、この城は使い勝手が悪すぎ、結局、
今浜(現在の長浜)に、城を構えることになったといいます。
ですが、将来、この小谷城が、力のある敵対者の手に渡ることを恐れた秀吉は、
小谷城を破城していったといいます。
ですので、石垣の類いは、崩されているところも多いのですが、
こうして、かつての姿が垣間見られる場所もあります。

この当時、石垣を組む職人集団である穴太衆 (あのうしゅう) は、
まだ存在しなかったといいますが、残された石垣には、
以後につながる高度な技術をみることができるといいます。

そのあと、大堀切跡や、浅井長政自刃の地である、
赤尾屋敷跡を見学しました。

というわけで、80分間、ガイドさんとともに、
小谷城を詳しく見学してきました。
ただ、時間的な都合で、本丸よりさらにうえにある、
京極丸跡などは見ることができず、少し残念でもありましたが、
そちらは、また、次の機会にと思っています。

さて、その後は、帰りがてら、小谷城からクルマで三十分ほど東にある、
関ヶ原古戦場に行ってみました。

笹尾山

ここは、笹尾山にある石田三成の陣になります。
関ヶ原にて布陣する三成の姿は、ドラマなどで何度も見ていますが、
それがこの場所なのだと思うと、かなり興奮します。

石田三成陣跡

ここからは、戦場の様子が詳細に見て取れます。
明治時代、日本陸軍が招聘したドイツ軍人メッケルは、
関ヶ原に立ち、当時の東西両軍の陣形を聞かされたさい、
西軍の勝利を確信したと、なにかの本で読んだことがあります。

つまり、それほどまでに、この笹尾山は、理想的な拠点なのかもしれません。
加えて、数のうえでも、当時の西軍のほうがまさっていたといいます。
ですが、西軍の士気は高いとはいえず、
また、毛利軍は、吉川広家の策略もあって、思うように参戦できず、
ついには、小早川秀秋らの徳川方への寝返りという、
大どんでん返しにも見舞われ、西軍は一日で瓦解してしまいます。


おりしも今年は関ヶ原の戦いから415年目。
この景色を見つつ、三成の心境に思いを馳せたりしました。

激戦地跡

こちらは、笹尾山に近い激戦地跡です。
GWということもあり、歴女と思われる人も多数来ていました。

本来であれば、このあと、大谷吉継の陣跡、島津義弘の陣跡などを、
見て歩きたいところでしたが、すでに夕方になり、
断腸の思いで、関ヶ原をあとにしました。
まあ、関ヶ原は、私が住む飛騨高山と同じ岐阜県にあるので、
また、じっくり時間をとって、見学したいものです。

というわけで、一日をかけて、小谷城と関ヶ原を見てきました。
今後は、安土城跡や佐和山城跡に、いってみたいものです。





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