満蒙記念館パンフレット表紙

今年は『戦後70年』という大きな節目にあたる年です。
そのためか、さまざまなメディアで、先の大戦に関連した企画や記事を、
いつにも増して多く目にするように思います。
戦前、戦中と呼ばれた時代から、長い時間を経たいま、
戦争の体験者は減り、その人たちから生の証言を聞く機会というのも、
当然のことながら、わずかなものとなっています。

私事で恐縮ですが、私の祖母は戦前、戦中を通して、
現在の中国東北部に位置する日本の傀儡国家であった「満州国」に行っており、
終戦直前に起きたソ連軍侵攻、その後の敗戦で、内地に引き上げるまで、
たいへんな苦労をしたといいます。
そのときの話は、昔から、折りにふれ聞いていたのですが、
祖母が他界したいまとなっては、不明なところも多く、
もっと聞いておいたほうがよかったのでは、と、思うことがよくあります。

そんな祖母の影響もあったのか、しだいに私は、
満州国や、満州を防衛していた日本の出先軍隊である「関東軍」に、
興味を持つようになり、その後、書物などを通して、
満州国の成り立ちや、消滅の経緯、
また、関東軍による独断先行の行動などを知るに至りました。

○ 満州国の詳細についてはこちらをご覧ください

同時に、満州からの引揚者の体験手記などにも、目を通したことがありました。
昭和二十年当時、満州を守るべき関東軍は、ソ連侵攻の前に、
防衛拠点の縮小化ということで、すでに兵力を国境付近から遠ざけており、
しかもこの事実を、軍事機密という理由で、
現地に住む日本の民間人に知らせることはなかったのです。
いわば、軍は、だんまりを決め込んで同胞を見捨てたのであり、
残された人たちは、突然攻撃をしかけてきたソ連機械化部隊の矢面に立たされ、
塗炭の苦しみを味わったのです。

満州各地に住んでいた日本の民間人は、
日本政府の押し進める国策によって、海を渡った人たちでした。
その代表的なものが満蒙開拓団で、数は20〜30万ともいわれています。

阿智村の満蒙記念館

こうした、開拓団の歴史を広く世に知らしめ、後世に伝えるために、
長野県の阿智村に『満蒙開拓平和記念館』という施設が、
およそ2年前にオープンしました。

○ 長野県阿智村 / 満蒙開拓平和記念館

もっとも私は、この施設の存在をまったく知らなかったのですが、
今年、ふとしたきっかけで知ることとなり、
以後、ずっと行ってみたいと思っていたのです。
そしてようやく、先日の土曜、念願かなって、見学にいくことができました。

土曜を選んで出掛けた理由は、この施設では、
毎月、第二と第四の土曜に、かつて開拓団に参加した人や関係者を招き、
体験談を語ってもらう、という催しも行っているとのことで、
できればこの機に、ぜひとも、生の証言を聞きたいということで、
日時を見計らった、という次第です。

記念館ネームプレート

阿智村は、昼神温泉と飯田市のあいだに位置していて、
自然豊かな美しい場所です。
施設の建物は、大きくはないのですが、
当然のことながらかなり新しく、重厚感がありました。

館内は撮影が許されていませんので、ここから先の写真はないのですが、
入口を入るとまず受付があり、ここで入場料を払って、
向かって左手の展示ブースから見学していくというかたちになります。
(右手には喫茶スペースと、講演会が行える部屋があります)

展示は、日露戦争以後の日本の歩みと、
当時の満州を巡る情勢を記した年表からはじまり、
移民を薦めるポスターなどの展示、当時の記録映像の紹介、
開拓団が暮らした家の実物大模型、ソ連侵攻時の状況を示す地図、
開拓団の証言集、シベリア抑留の様子、
また、残留日本人孤児の捜索と支援に生涯をささげた、地元阿智村の僧侶である、
山本慈照さんについての展示など、多岐に渡っていました。

こうして、ひととおりの見学をすませたころ、ちょうど、
この日の語り部を務めてくださる、久保田さんという元開拓団の方の講演が、
喫茶スペースに隣接したセミナー室で始まりました。

久保田さんは昭和十九年に河野村開拓団の団員として、
14歳という年齢ながら、単身で満州に渡り、
満州の首都であった『新京』にほど近い場所にあった河野村の分村に、
入植したといいます。
ソ連との国境付近に入植したケースも数多くあった当時、
こうした大都市近辺への入植は、比較的恵まれていたのでないかと、
個人的な考えですが、私は、そう思ってしまいました。

ですが、この河野分村では、昭和二十年8月16日から17日にかけて、
73名というおびただしい数の集団自決があり、久保田さんは、
その悲劇を生き残った2名のうちの、おひとりだというのです。

河野分村地図

久保田さんは、そのときの模様を、事前に配布された地図を交え、
詳しく、それでいて、抑制された口調で、
静かにお話ししてくださいました。
ですが、その内容は、あまりにも酸鼻を極めるものでした。

この残酷で悲惨な話を、軽々しく書くことは憚られる思いです。
語り部の久保田さんにとっても、
みなさんの前で、こうした体験を繰り返しお話するのは、
たいへんにつらいことではないかと思います。
ですので、ここでは、詳細は割愛させていただきますが、
久保田さんは、その後、満州各地を渡り歩くこととなり、
また、ときには、八路軍の捕虜といった立場になって強制労働を経験するなど、
数奇で過酷な運命を辿ることとなります。
それでも、自力でなんとか食いつなぎ、
終戦よりほぼ丸三年を経て、ようやく、日本に帰り着いたといいます。

講演の時間はおよそ1時間半でしたが、まさにあっという間の時間でした。

その後、記念館のスタッフの方の勧めもあり、隣接する喫茶スペースで、
久保田さんと直接お話をさせていただくこともでき、
より詳しい事情をお伺いすることもできました。

また、このあと、新聞記者さんの取材もあり、
その質疑応答についても、ひきつづき聞かせていただきました。

河野分村の位置

おそらくは、久保田さんの経験した悲劇と同様の事態が、当時の満州にいた、
すべての日本人の身に、等しく降り掛かっていたことと思います。
そこには、歴史の奔流に埋もれてしまった、無数の物語があるのかもしれません。
大陸の一角に強引に作った砂上の楼閣のような国家は、
十年と少しであっけなく崩壊しました。
先見性を欠いた誤った国策が、どれほどの苦しみを国民に与えたのか…、
そして、もともと現地に住んでいた人にも、どれほどの苦痛を負わせたのか。
それを考えると、平和と繁栄が訪れたいまこの時においても、
国がどのように道を誤ったのかをしっかり検証し、
多大の犠牲を払った教訓が生かされているのかどうかを、見続けなければと思う次第です。

いずれにしても、私としては、たいへん実りある一日を過ごさせていただきました。
今回、貴重な証言を聞かせていただいた久保田さん、
また、満蒙記念館のスタッフのみなさん、ありがとうございました。

記念館では、ほかの証言者の方にも語り部をお願いしているとのことですので、
また、機会があれば、ぜひ、阿智村を訪れたいと思っています。





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