
前回、当ブログで『関ヶ原合戦祭り2016』の模様や、
関ヶ原古戦場に残る陣跡めぐりのようすなどを、ご紹介をさせていただきましたが、
今回は、この関ヶ原の戦いを題材にした、司馬遼太郎氏の小説『関ヶ原』について、
レビューめいたものを、少し書いてみたいと思います。
本書は全三巻となっており、一定のボリュームを持っています。
巻末には、1974年初版と記されていますが、
この作品が週刊誌の連載小説として発表されたのは、
いまから五十年以上も前の1964年だったといいます。
いずれにしろ、かなり昔に出版されたものなのですが、
いまもなお、書店の文庫コーナーには、他の司馬作品と同様、多数平積みにされており、
(V6の岡田准一さん主演による映画化の話もあるためだと思われますが…)
しかも、その刷数は、私の手に入れた文庫で、すでに百十一刷となっていて、
いかにこの小説が、長きに渡って読み継がれているか、
いまさらながら知る思いがします。
物語は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、
いよいよ死を迎えようとするところから始まります。
秀吉には、側室である淀とのあいだにできた『秀頼』という嫡男がおり、
順当に考えれば、次の天下人は、この秀頼になるはずでした。
ですが、当の秀頼は、まだほんの子供で、政権を担うことなど、
できるはずなどありません。
仕方なく秀吉は、豊臣政権を支えてきた、
五人の有力大名に『大老』という役職を与え、自らが死んだあとは、
この五人の大老と、秀吉政権の実務を取り仕切ってきた五人の奉行衆とが、
合議によって政務を執り行う『五大老五奉行制』というシステムを作り、
永眠します。
このシステムは、秀頼が成人するまでの、いわば繫ぎ政権のようなものでした。
大老の筆頭は、関東二五五万石の大大名である、徳川家康でした。
家康は、幼い秀頼を守り立てつつ、他の大老や奉行衆と協力し、
豊臣政権の安寧を担うべき立場にありました。
が、家康は、秀吉が死ぬとほどなく、豊臣政権の簒奪をもくろみ、
さまざまな策謀を巡らします。
まず、手を付けたのが、秀吉が禁じた、大名同士の婚姻でした。
家康は東北の伊達など、有力大名との婚儀を次々に執り行い、
それによって縁戚をふやし、ひいては、政治的な発言力を増していきます。
さらに家康は、豊臣の所領を勝手に他の大名に与えたりもするようになりました。

これに正面から異を唱えたのが、五奉行の筆頭格である、石田三成です。
豊臣政権を支えてきた官僚として、際立って優秀だった三成は、
家康の横暴と専横に対し、正論をもって挑みました。
が、ときに横柄な態度をとることで知られていた三成は、
人望や人気がなく、しかも大名としての禄高もさほどではなく、
なにもかもが、家康とは格が違いすぎました。
さらにこの時期、三成は、同じ豊臣政権下で伸し上がってきた、
加藤清正、福島正則といった、同年代の武闘派大名らとも激しく対立していました。
家康は、この対立に巧みにつけ込み、仲裁者を装って、
石田三成を奉行の座から追い落としてしまいます。
三成失脚後の家康は、ますます増長し、
ついには、我が物顔で秀頼の居城である大阪城に入り、
しかも、諸大名の多くも、家康の力の前に、媚を売り、へつらうようになります。
このままでは幼君を抱く豊臣は滅ぼされ、徳川の天下になってしまう…。
危機感を抱いた石田三成は、会津百二十万石の大老『上杉景勝』と、
その忠臣で友人でもある『直江兼続』らと謀議をめぐらせます。
その計画は、まず上杉に、徳川をけしかけてもらい、家康とその軍勢を、
遠く会津にまでおびき出させます。
そして、家康らが去った大阪で、三成は、
家康の行ってきた数々の罪を書状にしてばらまき、世に知らしめます。
同時に、大老のひとりである毛利輝元を総大将として担いで挙兵する、というものです。

上杉を討伐するために会津へと向かっていた徳川家康と、徳川に与する諸大名は、
上方での三成挙兵の知らせを聞き、急遽、会津行きをとりやめ、
三成征伐のため、大阪へと引き返すこととなります。
徳川家康は、三成の策に嵌まったかのように見えますが、
じつはこの『三成挙兵』という事態こそ、家康の思うつぼでした。
家康は、石田三成に兵をあげさせるようしむけ、そのあと、
決戦をもって、三成とその一派をすべて葬り去るつもりだったのです。
三成は、同心した諸将と、上方に向かって戻ってくる徳川の軍勢を迎え撃とうと、
美濃の大垣城に入りますが、家康の再三にわたる謀略によって、
城を出ざるを得なくなり、大垣の西にある関ヶ原に陣を張り、
野戦というかたちで、決戦に臨もうとします。
そして、慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)、
徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍とが、関ヶ原で激突することとなるのです。

本書は、全三巻というボリュームながら、関ヶ原の合戦そのものについては、
全体の1/6ほど (三巻の後半の半分) が当てられているだけで、そのほかの部分は、
秀吉の死の間際から合戦に至るまでの人間模様に、焦点があてられています。
司馬遼太郎氏は、本書の冒頭で、関ヶ原の戦いに至るいきさつを、
人間喜劇 (あるいは悲劇) と、突き放した、醒めた表現で書いています。
劇中、正論を押し立てているのは、三成のほうです。
日ノ本のすべての大名は、家康も含め、
天下統一を成し遂げた秀吉に臣従したわけであり、
秀吉も死後も、その遺命にしたがうと、書面をもって誓いをたてていました。
家康の勝手な振る舞いは、亡き秀吉の意に反しており、
決して、許されるものではありません。
とはいっても、大老最大の勢力を誇る家康を、敵にしたくないと思うものは、
少なからずいました。
加えて、家康の側にお味方すれば、自らの保身、また自らの家の存続、
さらには、より多くの恩賞の獲得ができる、と、
損得勘定で考えるものも、あとをたちません。
その一方で、愚直に義を貫くものがあり、
また、どちらが勝つのか旗色を伺うものがあり、と、
さまざまな人が入り乱れ、熾烈なドタバタ劇を繰り広げます。
このあたりの過程は、ほんとうにおもしろいです。
ストーリーのベースは史実であり、司馬遼太郎氏の創作ではないのですが、
はたして、この同じ物語をほかの作家が書いたとしたら、
このように、おもしろくなるだろうかと思ってしまいました。
司馬遼太郎氏は、希代のストーリーテラーかもしれません。
また、石田三成だけでなく、
その家臣である『島左近』をじつに魅力的に、生き生きと描ききっています。
三成よりもずっと年上で武勇も名高い左近が、主君である三成に、
ときに批判的な心情を持ちつつも、それでもなお、
三成の才を評価し、忠節を尽くすさまは、まさに感動的です。
その一方で、徳川方の謀臣である本多正信の描写も秀逸で、
こうした、両陣営のキャラクター作りが、とてもうまくなされていて、
このあたりにも、司馬氏のストーリーテラーぶりが発揮されているかと思います。
しかも、寄り道的な余談も、過不足なく織り込んであり、
そんなサブストーリーも、本筋を飽きさせない要素のひとつになっているかと思います。
本書は、発表年が昭和四十年代とふるいためか、現在においては、
否定されてしまっている史実も多数含んでいますが、読み物として、
その価値は、減ぜられるものではないと思います。
ただ、深い心理描写や、人間の葛藤や矛盾に深く分け入る、といった部分は総じて薄く、
エンターテインメント性に重きを置いたものになっているのかな、
という感もあります。
○ 新潮文庫 司馬遼太郎 著『関ヶ原』はコチラ amazon ~
ここ最近、歴女に代表されるように、歴史に興味を示す人が増えているといいますが、
その原因は、ゲームのヒットなどもあるかと思いますが、
やはり、司馬遼太郎氏の一連の作品によるところは大きいのかな、とも、
思います。

ちなみに、関ヶ原の戦いでは、家康率いる東軍が勝ちましたが、
もし、西軍が買っていたら、どうなっていたのだろうと思わずにはいられません。
実際、小早川秀秋は、優勢な西軍の戦いぶりを見て、一時は、西軍につくことも、
考えたといいます。
もし、秀秋が、東軍に寝返るのをやめて西軍についたなら、
大谷吉継隊は、秀秋の軍勢に対して防戦する必要もなくなり、
また、脇坂、朽木、小川、赤座らも、寝返るタイミングを逸し、
そのまま、西軍陣営として戦ったかもしれません。
そうなれば、家康の首もとれたのかもしれません。
でも、西軍が勝ったとしたら、その後の日本は、乱れたのかもしれません。
筆頭大老は、おそらく、西軍総大将を勤めた毛利輝元になったでしょうが、
この人には、家康のような老獪な知恵はなかったでしょう。
仮に三成が実権を握ったとしても、それはそれで、政権内に軋轢を生んだかと思います。
仮に豊臣政権が続いたとしても、その権力基盤は、
意外と危うかったのではないでしょうか。
とにかく、これからもまた、司馬遼太郎氏の作品を読んでみたいと思います。
コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
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