司馬遼太郎「関ヶ原」

前回、当ブログで『関ヶ原合戦祭り2016』の模様や、
関ヶ原古戦場に残る陣跡めぐりのようすなどを、ご紹介をさせていただきましたが、
今回は、この関ヶ原の戦いを題材にした、司馬遼太郎氏の小説『関ヶ原』について、
レビューめいたものを、少し書いてみたいと思います。

本書は全三巻となっており、一定のボリュームを持っています。
巻末には、1974年初版と記されていますが、
この作品が週刊誌の連載小説として発表されたのは、
いまから五十年以上も前の1964年だったといいます。
いずれにしろ、かなり昔に出版されたものなのですが、
いまもなお、書店の文庫コーナーには、他の司馬作品と同様、多数平積みにされており、
(V6の岡田准一さん主演による映画化の話もあるためだと思われますが…)
しかも、その刷数は、私の手に入れた文庫で、すでに百十一刷となっていて、
いかにこの小説が、長きに渡って読み継がれているか、
いまさらながら知る思いがします。

物語は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、
いよいよ死を迎えようとするところから始まります。
秀吉には、側室である淀とのあいだにできた『秀頼』という嫡男がおり、
順当に考えれば、次の天下人は、この秀頼になるはずでした。
ですが、当の秀頼は、まだほんの子供で、政権を担うことなど、
できるはずなどありません。
仕方なく秀吉は、豊臣政権を支えてきた、
五人の有力大名に『大老』という役職を与え、自らが死んだあとは、
この五人の大老と、秀吉政権の実務を取り仕切ってきた五人の奉行衆とが、
合議によって政務を執り行う『五大老五奉行制』というシステムを作り、
永眠します。
このシステムは、秀頼が成人するまでの、いわば繫ぎ政権のようなものでした。

大老の筆頭は、関東二五五万石の大大名である、徳川家康でした。
家康は、幼い秀頼を守り立てつつ、他の大老や奉行衆と協力し、
豊臣政権の安寧を担うべき立場にありました。
が、家康は、秀吉が死ぬとほどなく、豊臣政権の簒奪をもくろみ、
さまざまな策謀を巡らします。

まず、手を付けたのが、秀吉が禁じた、大名同士の婚姻でした。
家康は東北の伊達など、有力大名との婚儀を次々に執り行い、
それによって縁戚をふやし、ひいては、政治的な発言力を増していきます。
さらに家康は、豊臣の所領を勝手に他の大名に与えたりもするようになりました。

関ヶ原 文面

これに正面から異を唱えたのが、五奉行の筆頭格である、石田三成です。
豊臣政権を支えてきた官僚として、際立って優秀だった三成は、
家康の横暴と専横に対し、正論をもって挑みました。
が、ときに横柄な態度をとることで知られていた三成は、
人望や人気がなく、しかも大名としての禄高もさほどではなく、
なにもかもが、家康とは格が違いすぎました。

さらにこの時期、三成は、同じ豊臣政権下で伸し上がってきた、
加藤清正、福島正則といった、同年代の武闘派大名らとも激しく対立していました。
家康は、この対立に巧みにつけ込み、仲裁者を装って、
石田三成を奉行の座から追い落としてしまいます。

三成失脚後の家康は、ますます増長し、
ついには、我が物顔で秀頼の居城である大阪城に入り、
しかも、諸大名の多くも、家康の力の前に、媚を売り、へつらうようになります。

このままでは幼君を抱く豊臣は滅ぼされ、徳川の天下になってしまう…。
危機感を抱いた石田三成は、会津百二十万石の大老『上杉景勝』と、
その忠臣で友人でもある『直江兼続』らと謀議をめぐらせます。
その計画は、まず上杉に、徳川をけしかけてもらい、家康とその軍勢を、
遠く会津にまでおびき出させます。
そして、家康らが去った大阪で、三成は、
家康の行ってきた数々の罪を書状にしてばらまき、世に知らしめます。
同時に、大老のひとりである毛利輝元を総大将として担いで挙兵する、というものです。

関ヶ原 背部分

上杉を討伐するために会津へと向かっていた徳川家康と、徳川に与する諸大名は、
上方での三成挙兵の知らせを聞き、急遽、会津行きをとりやめ、
三成征伐のため、大阪へと引き返すこととなります。

徳川家康は、三成の策に嵌まったかのように見えますが、
じつはこの『三成挙兵』という事態こそ、家康の思うつぼでした。
家康は、石田三成に兵をあげさせるようしむけ、そのあと、
決戦をもって、三成とその一派をすべて葬り去るつもりだったのです。

三成は、同心した諸将と、上方に向かって戻ってくる徳川の軍勢を迎え撃とうと、
美濃の大垣城に入りますが、家康の再三にわたる謀略によって、
城を出ざるを得なくなり、大垣の西にある関ヶ原に陣を張り、
野戦というかたちで、決戦に臨もうとします。

そして、慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)、
徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍とが、関ヶ原で激突することとなるのです。

関ヶ原全三巻

本書は、全三巻というボリュームながら、関ヶ原の合戦そのものについては、
全体の1/6ほど (三巻の後半の半分) が当てられているだけで、そのほかの部分は、
秀吉の死の間際から合戦に至るまでの人間模様に、焦点があてられています。

司馬遼太郎氏は、本書の冒頭で、関ヶ原の戦いに至るいきさつを、
人間喜劇 (あるいは悲劇) と、突き放した、醒めた表現で書いています。

劇中、正論を押し立てているのは、三成のほうです。
日ノ本のすべての大名は、家康も含め、
天下統一を成し遂げた秀吉に臣従したわけであり、
秀吉も死後も、その遺命にしたがうと、書面をもって誓いをたてていました。
家康の勝手な振る舞いは、亡き秀吉の意に反しており、
決して、許されるものではありません。
とはいっても、大老最大の勢力を誇る家康を、敵にしたくないと思うものは、
少なからずいました。
加えて、家康の側にお味方すれば、自らの保身、また自らの家の存続、
さらには、より多くの恩賞の獲得ができる、と、
損得勘定で考えるものも、あとをたちません。
その一方で、愚直に義を貫くものがあり、
また、どちらが勝つのか旗色を伺うものがあり、と、
さまざまな人が入り乱れ、熾烈なドタバタ劇を繰り広げます。

このあたりの過程は、ほんとうにおもしろいです。
ストーリーのベースは史実であり、司馬遼太郎氏の創作ではないのですが、
はたして、この同じ物語をほかの作家が書いたとしたら、
このように、おもしろくなるだろうかと思ってしまいました。
司馬遼太郎氏は、希代のストーリーテラーかもしれません。

また、石田三成だけでなく、
その家臣である『島左近』をじつに魅力的に、生き生きと描ききっています。
三成よりもずっと年上で武勇も名高い左近が、主君である三成に、
ときに批判的な心情を持ちつつも、それでもなお、
三成の才を評価し、忠節を尽くすさまは、まさに感動的です。
その一方で、徳川方の謀臣である本多正信の描写も秀逸で、
こうした、両陣営のキャラクター作りが、とてもうまくなされていて、
このあたりにも、司馬氏のストーリーテラーぶりが発揮されているかと思います。
しかも、寄り道的な余談も、過不足なく織り込んであり、
そんなサブストーリーも、本筋を飽きさせない要素のひとつになっているかと思います。

本書は、発表年が昭和四十年代とふるいためか、現在においては、
否定されてしまっている史実も多数含んでいますが、読み物として、
その価値は、減ぜられるものではないと思います。
ただ、深い心理描写や、人間の葛藤や矛盾に深く分け入る、といった部分は総じて薄く、
エンターテインメント性に重きを置いたものになっているのかな、
という感もあります。

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ここ最近、歴女に代表されるように、歴史に興味を示す人が増えているといいますが、
その原因は、ゲームのヒットなどもあるかと思いますが、
やはり、司馬遼太郎氏の一連の作品によるところは大きいのかな、とも、
思います。

天下分け目の関ヶ原

ちなみに、関ヶ原の戦いでは、家康率いる東軍が勝ちましたが、
もし、西軍が買っていたら、どうなっていたのだろうと思わずにはいられません。
実際、小早川秀秋は、優勢な西軍の戦いぶりを見て、一時は、西軍につくことも、
考えたといいます。

もし、秀秋が、東軍に寝返るのをやめて西軍についたなら、
大谷吉継隊は、秀秋の軍勢に対して防戦する必要もなくなり、
また、脇坂、朽木、小川、赤座らも、寝返るタイミングを逸し、
そのまま、西軍陣営として戦ったかもしれません。
そうなれば、家康の首もとれたのかもしれません。

でも、西軍が勝ったとしたら、その後の日本は、乱れたのかもしれません。
筆頭大老は、おそらく、西軍総大将を勤めた毛利輝元になったでしょうが、
この人には、家康のような老獪な知恵はなかったでしょう。
仮に三成が実権を握ったとしても、それはそれで、政権内に軋轢を生んだかと思います。
仮に豊臣政権が続いたとしても、その権力基盤は、
意外と危うかったのではないでしょうか。

とにかく、これからもまた、司馬遼太郎氏の作品を読んでみたいと思います。




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島左近隊の勇姿

前回、ジャズコンサートの話題を挟んでしまいましたが、
かねて予告していた通り、今回は、関ヶ原合戦祭り2016の、
第二日目の模様を、引き続き、ご紹介したいと思います。
この日 (16日) も、前日に引き続き、朝からさわやかな快晴となりました。
というわけで、前日と同じように、ふたたび、
ヨメに関ヶ原までクルマで送ってもらいました。

16日は日曜ということで、祭りの会場周辺は、
前日よりもさらに賑わっており、駐車場はどこも満杯。
道もすでにところどころ渋滞もしており、ヨメに送ってもらって正解でした。
ただ今回は、関ヶ原町の駅ではなく、直接、
石田三成が本陣を置いた、笹尾山近くまで行ってもらいました。
(歴史に興味のないヨメは、そのまま家に帰りました)

○ ちなみに、関ヶ原合戦祭り 2016(その1)はコチラです

時刻はすでに午前10時半。
このときすでに、笹尾山の祭り会場では、
今年の大河ドラマ『真田丸』で、石田三成を演じた、
山本耕史さんのトークショーがはじまっており、
そのためか、笹尾山周辺一帯は、もうたいへんな人だかりとなっていました。
ですがなんとか、トークショーの後半だけですが、見聞きすることができました。

山本耕史さん

そういえば、以前、NHKで放映された『鶴瓶の家族に乾杯』のロケでも、
山本耕史さんは、ここ笹尾山を訪れていました。
そのときは、観光にきていた一般の方が、堀北真希さんのファンということで、
堀北さんと結婚した山本さんに対して
「三成になって、やられちまえ、って思いました!」などと、いっていましたね。
そんなことを、トークショーを見ながら、ふと思い出してしまいました。
(もしかすると、このエピソードは、トークのなかでも語られたのかもしれません)

そのあとは、同じ会場で、火縄銃の空砲実演が行われるということで、
ひきつづき、カメラを構えて待機。
やがて、赤備えに六文銭の旗を掲げた具足姿の武者らと、
大一大万大吉の旗を掲げた一群の武者が、笹尾山手前の台上に現れました。
六文銭を掲げる武者らは、信州真田鉄砲隊の皆さんということで、
この日、上田から関ヶ原に駆けつけてくれたそうです。

火縄銃は、最初に銃口から火薬を入れ、棒を使って奥に押し込み、
玉を込め、火縄に火をつけ、と、発砲までにかなり時間がかかります。
この作業は立ったまま行うのが一番効率がよく、伏せた姿勢では不可能だそうです。
そのため、玉込め時には、敵に狙われやすくもあったといいます。

真田鉄砲隊

そして、かけ声とともに、射撃に移ります。
一斉射撃、連続射撃、と、立て続けに行い、また、
長篠の戦いで信長軍が行った、射手を交代をしつつの連続射撃も行われました。
発砲の音は凄まじく、戦場では、この音による威嚇効果もあったものと思われます。

火縄銃の射撃実演が終わると、ひきつづき、各武将隊の布陣パフォーマンスへと移ります。
手前の台上には、西軍の各諸将が、背後の広場には、東軍の各諸将が陣取ります。
そのあとは、床几タイムといい、各陣のあいだを自由に行き来できるようになります。

というわけで、さっそく、島左近隊、大谷吉継隊に行ってみようと思ったのですが、
意外というべきなのか、やはりというべきなのか、
敗北した側の西軍陣営のほうが人気が高いようで、なかなか近づけません。

黒田長政軍勢

というわけで、先に背後の東軍陣営に…。
まずは黒田長政隊を訪ねてみました。

逆行状態なので、ちょっと見づらいかもしれませんが、
配下の兵に扮している人のなかに、意外に多くの女の子がいるんですね。
いわゆる歴女の人なのでしょうか…。

黒田長政は、関ヶ原の戦いの前に起こった、石田三成襲撃事件にも参加していますが、
長政は、同じく徒党を組んだ仲間である、加藤清正、福島正則などとは違い、
かなりの智恵者という印象があります。
実際、黒田長政の調略がなかったら、
徳川方になびく諸将の数は、もっとずっと少なかったかもしれません。
このあたりは、さすがに、
父親である如水の血を引いているのかな、と思わせます。
それにしても、甲州殿の兜は、異様に大きいですね。

徳川家康布陣

こちらは、東軍の将である徳川家康の陣です。
赤備えの軍勢は井伊の隊でしょうか…。
よく見ると、外国の方も参加されているようでした。

…と、ほどなくすると、西軍の陣が少し空いてきたので、きびすをかえして、
反対側の台上へと向かってみました。

島左近軍勢

というわけで、まずはお目当ての島左近隊布陣の場所へ。
こちらも、他の隊と同じように、女の子が意外に多いです。
やっぱり、島隊はかっこいいですね。
島左近役の方も、まさに堂に入っている感じです。

宇喜多秀家隊

次は宇喜多隊です。
戦意旺盛で、東軍の先鋒である福島正則隊を痛撃した宇喜多隊ですが、
その獅子奮迅の活躍ぶりも、小早川秀秋の裏切りにより、
結局は無になってしまいます。
戦後、宇喜多秀家は八丈島に島流しになったといいますが、
なんと、彼の地で、八十過ぎまで生きたとか…。
家康も長生きでしたが、宇喜多秀家のほうが、もっと長生きだったんですね。

大谷吉継布陣

こちらは、大谷吉継の軍勢です。
この白頭巾が、なんかイカしていますね。
人気もすごく高かったです。
見物客のなかにいた初老の男性が「大谷はよくがんばった!」と、
叫ぶように声をかけると、隊の人たちからも、また取り囲む見物客からも、
ドッと笑いが起き、それでいて次の瞬間、そうだ!、といわんばかりに、
みなうなずく、みたいな感じになりました。

石田三成隊

そしてこちらは、西軍の事実上の将、石田治部少輔三成の陣です。
こちらは、島左近隊のさらに台上に位置していて、
しかも、馬防柵の向こう側ということで、あたりはせまく、
撮影はしづらく、しかも人気が高いために人は多く、というわけで、
カメラを向けるのにも、ちょっと苦労しました。

三成は、西軍が総崩れになったあと、単身、戦場を脱出し、落ち延びますが、
結局、田中吉政の手による捜索隊に発見され、
最終的には、家康の名により、京の六条河原で斬首されます。

無念の死を遂げた三成ですが、
豊臣政権を簒奪しようとする家康の横暴を臆することなくあばきたて、
内々に敵に寝返っている者もいたとはいえ、七万以上の兵を集め、
日本の中央で大決戦を挑むことができたのです。

佐和山十九万石の大名が、
関東二百五十五万石の大大名に正面切って挑み、
しかも、当初は優勢な戦いができたのです。

たとえ負けたとはいえ、この事実に、
三成は大いに満足であったかもしれませんし、
あの世で、堂々と太閤秀吉に、拝謁することができたでしょう。

福島正則隊

ふたたび東軍の陣に戻り、まずは福島正則の隊を撮影。
豊臣恩顧の武将の最右翼でありながら、小山評定では真っ先に家康についた政則。
武勇はあるが、大酒飲みでたいへんな乱暴者、というイメージの武将ですが、
この人物が、後に、二代将軍秀忠からいろいろと難癖をつけられ、
大幅な減封、転封されることを思うと、なんとも哀れを感じます。

小早川秀秋隊

さらにこちら。
もはや言わずと知れた裏切り者、小早川秀秋とその軍勢です。
おそらく、全軍勢のなかで、最も人気がなかったかもしれません。
コスプレしている方も、本意ではないのかもしれませんね。
ですが、関ヶ原の戦いにおいては、良くも悪くも、とても重要な人物ですので、
本イベントには、なくてはならない存在です。

細川忠興隊

最後に、細川忠興の陣を撮影して、全陣を撮影し終わりました。

今回のイベントは、多くの犠牲者を出した史実をテーマにしているわけですが、
会場は、なんともほのぼのとしていて、とても楽しい雰囲気でした。
おそらく、東西にわかれ戦った士卒も、あの世で、
あのときの御手前の戦いぶりは見事であった、
いやいや、御手前こそ、などと、
昔を懐かしんで談笑しているのかもしれません。

笹尾山は大盛況

さて、そのあと、各隊のパフォーマンスが行われるとのことでしたが、
昼食もとらなければなりませんし、前日に行くことができなかった、
小早川秀秋の陣である松尾山にも行きたいし、ということで、
とりあえず、この場をあとにし、ふれあい公園まで行ってみました。

が、こちらもすごい人出で、目当てにしていた勝鬨カレーはすでに完売。
仕方なく、東西巻という、いなり寿司と巻物のパックを買いました。

そのあとは、いよいよ小早川秀秋の陣、松尾山へと向かいます。
松尾山まではかなりの距離ですが、それでも、マメだらけの足をひきづって、
歩くことにしました。

小早川裏切りの地へ

松尾山は関ヶ原の南にあり、途中からは、まったくの山道になってしまいます。
しかも、祭り会場にはあれだけの人がいたのに、こちらはさみしいもので、
こんなところで、もし熊が出たら、どうしよう、などと、思ってしまいました。

が、松尾山への道は、想定していたほど険しいものでもなく、
また、さほど遠い気もしませんでした。
なんだか、すぐに着いてしまったようにも思いました。
過剰に覚悟を決めていたので、そんな感じがしたのかも知れません。

ただ、他の武将の陣に比べ、松尾山はやはり遠く、道も山道ですので、
もし、松尾山へ意向と思うなら、それなりの心構えはいるかもしれません。

松尾山小早川秀秋陣跡

こちらが、松尾山の台上です。
それにしても、こんなところに、
一万を越える兵が駐屯していたなんて、とても信じられません。
そんなに広い場所もないし、いったい、どんな状態だったのでしょうか…。

松尾山から遠く笹尾山を臨む。

松尾山台上からは、遠く笹尾山の三成の陣を臨むことができます。
関ヶ原の合戦当日、三成は、この台上に向かって、徳川を討て、と、
何度も狼煙を上げたといいます。

が、小早川秀秋は、それらをことごとく無視します。
とはいえ、秀秋は、徳川方への寝返りを完全に決定していたわけではないようで、
一時は、優勢に戦いを進めていた西軍の様子を見て、
寝返りをやめて三成側につくことも考えていたようです。

もし、秀秋が、三成側に立って参戦したなら、
西軍が勝利を収めていたことでしょう。
そうなれば、以後も豊臣政権は存続したのかもしれませんし、
ひいては、いまの日本の姿も、大きく様変わりしていたかもしれません。

こうして、小早川陣地をひとしきり見学したあと、
前日、立ち寄ることを失念してしまった、田中吉政陣跡に行ってみることにしました。

田中吉政陣跡

田中吉政は、三成と同じ近江の出身ということで、
三成とは不仲ではなく、むしろ三成のことを正しく評価していたと言います。
ですが、西軍には勝機はないと考え、自ら東軍に身を投じます。

この読みは正しかったわけですが、吉政は戦後、
先にも述べたように、逃亡した三成を捕らえるという、
東軍にしてみれば大功績を上げています。

田中吉政陣跡は、家康が陣を構えた陣場野に近く、
前日もこのあたりは通ったのですが、この石柱にはまったく気がつきませんでした。

さて次は、島津勢の脱出を成功に導いた、
島津豊久の戦功を讃えた碑を見学に行ってみることにしました。

が、この碑までが遠い…。
歩けど歩けど見えてこず、とうとう、関ヶ原町から出てしまい、
上石津町というところに入ってしまいました。

この上石津町に入ったところで、島津の旗を発見。
ようやくにして到着しました。

島津豊久の碑

島津は文禄慶長の役のさいに、朝鮮で多大の武功をあげ、
明や朝鮮の諸将は、島津兵を『石曼子』シーマンズーといって、
恐れたそうです。
そんな島津は、当初は、家康の東軍側に付く予定だったのですが、
さまざまな事情で、東軍に付きそびれてしまい、
その後、どこか煮え切らないままに、西軍側に与して出陣しました。
が、関ヶ原合戦のまえに起こった、福島正則らの岐阜城を攻めたおりには、
石田三成による大垣城防衛策のため、まるで捨て駒にされるように、
無情にも戦場に置いてきぼりにされてしまい、
さらには、夜襲の提案をしても、三成に一蹴されてしまったりと、
なんだか、冷遇されているかのような扱いを受けてしまいます。
(ただ、三成は、島津のために尽力したことも、この以前には多々あったのです)

そんなこともあってか、島津勢は、関ヶ原合戦が始まっても、
積極的に戦闘に参加せず、また、敵方も、島津を恐れて積極的に攻めることもなく、
やがて西軍は瓦解し、気がつけば、島津の周りは敵だらけになっていました。

このときになってはじめて、島津は撤退のための戦いに打って出るのですが、
そのさい、主君である島津義弘を逃がすため、決死の戦闘を行ったのが、
甥の島津豊久だったといいます。

看板によると、島津豊久の生死は不明とのことですが、
この周辺でなくなった可能性が高いとのことでした。
碑にも、島津豊久の墓と銘打たれていました。

島津は、800人から1000人ほどの軍勢だったとのことですが、
そのうち、無事、薩摩に帰り着いたのは、
わずか80人とも、50人ともいわれているそうです。

というわけで、この碑の見学をもって、私にとっての、
二日間にわたる『関ヶ原祭り』は、無事終了ということにしました。

とりあえず、ガイドマップに記されている各陣、各名所には、
奥平貞治の墓を除き、すべて行きました。

ただ、関ヶ原合戦場の東にある、徳川家康の最初の陣である桃配山や、
吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、長束正家、など、
傍観軍が陣取ったといわれる、南宮山にも行くことはできませんでした。

これらの陣跡には、いずれまた、日を改めて、行ってみたいと思います。
それにしても、この二日間の行軍で、ヘトヘトになってしまい、
ふだんの運動不足を、身をもって知ることになりました。

しかも、足にはマメどころか、
足の爪が皮下出血してしまい、たいへんなことに…。
新調した靴を履いていったことで、こんなことになってしまいました。
もう、大反省です。

それでも、これに懲りず、また、関ヶ原や各旧跡を、
巡ってみたいものです。



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コンサート会場へ

さて、前回に引き続き、
関ヶ原合戦祭りの様子 (第二日目) を書きたいところですが、
そのまえに、大垣市のソフトピアジャパンで行われた、
ソフコイ祭りの話題にも、少し触れたいと思います。
(大垣市は、関ヶ原町と岐阜市のあいだに位置しています)

ソフトピアジャパンとは、およそ20年前、岐阜県大垣市が整備した、
先進情報産業施設の総称で、ITのエンジニアや、IT系のベンチャー企業の支援、
育成を行っているといいます。
建物の上部にはふたつの尖塔があり、いまでは、
大垣市のランドマークといった存在になっています。

関ヶ原で、各武将の陣跡を巡り、さんざん歩いたあと、
ヨメに関ヶ原駅まで迎えにきてもらい、
そのあと、いっしょに外食に出掛けました。
というのも、この10月15日という日は、私の誕生日で、
お祝いの意味を込めて、大垣市内のレストランにヨメが連れて行ってくれました。

こうして、食事をすませたあと、少しばかり時間が遅くなりましたが、
ソフコイ祭りの会場である、ソフトピアジャパンに行ってみました。
このお祭りの最後のイベントとして、
昭和の歌謡曲をジャズにアレンジしたコンサートが開かれるというのです。
これはぜひいってみなくては、と、以前から、ヨメと話していました。

夜のソフトピアジャパン

とはいえ、食事をゆっくりとしていたため、思いのほか時間が遅くなってしまい、
結局、前半の曲のいくつかは、聞けずじまいになってしまいました。
それがちょっと残念です。

ところで、話は少し前に遡りますが、じつは今月の初めに、
岐阜市では『ぎふ信長まつり』というイベントが、二日間にわたって開催されました。
この祭りは、信長と銘打たれているものの、
歴史に特化したものではなく、いたって普通のお祭りで、
ディズニーの行列など、バラエティに富んだ催しが各所で行われていました。
そのなかで、町の一角にミュージシャンが集って演奏する、
『ミニジャズストリート』という催しがありました。

いくかの会場で、時間を区切って、リレー的にバンドが曲を披露するというもので、
なかには、ポップスのバンドもあり、首をかしげることもあったのですが、
イベント自体は、とても楽しいもので、また、多くのお客さんもきていました。

ミニジャズストリート1

そのなかで、私としては、このバンドがお気に入りでした。
バンド名が出ておらず、情報がまったくないのですが、
ギターとパーカッション、コントラバスの三人で演奏されていました。

ジャズではないのですが、とてもバランスよく、
テクニックも秀逸で、まさに『聴かせる演奏』でした。
ギターの奏者の方は、けっこう年配のように見受けられ、
また、曲の合間のMCもほとんどなく
寡黙な演奏職人、といった感もありましたが、
そこがまた、よかったかもしれません。

私はこのバンドの前に、別の場所で、ほかのバンドの演奏を聴いていたのですが、
最初から、こちらの演奏を聴いてもみたかったです。

ミニジャズストリート2

翌日も別のバンドが演奏しており、こちらもまた、拝聴させていただきました。

さて、話は、ソフコイ祭りに戻ります。
コンサート会場は、ソフトピアジャパンの建物の中庭のようなところで、
コンクリートで仕切られた、浅い池の中央にあるステージでした。
ソフトピアジャパンには、すでに何度か行っていますが、こんな場所があるとは、
まったく知りませんでした。

昼間は暑いほどだったのですが、夜になると急に冷え込み、
このときも、かなり肌寒い状態になりました。
上着があったのでまだよかったですが、そうでなければ、
もう、震えていたと思います。

コンサート開始

バンドはちょうど休憩中で、私たちが会場についてほどなくして、
演奏がはじまりました。

前後に巨大なコンクリートの建物が鎮座しているためか、
音が散ってしまうことがなく、コンサートを行うには、
この場所は最適かもしれません。
曲は沢田研二の『危険な二人』でした。
この曲をジャズ風にアレンジし、軽快に演奏していました。

途中からボーカルが入ります

2曲ほど、インストゥルメンタル状態で演奏し、そのあと、
ボーカルの女性が登場し、オフコースの『言葉にできない』を、
歌いました。

満月

夜空はよく晴れていて、この日はまさに満月。
秋の空に、透き通るような声がこだましていきます。
もちろん、会場は大盛況でした。

このバンドは、去年もこの場所でコンサートをしているそうで、
そのときは、アニメソングをジャズにアレンジしての演奏をしたとのことです。
バンドの名は、とくにはなかったそうですが、アニソンを演奏するということで、
ジャズとアニメのふたつの言葉を合成して、
急遽、自らのバンド名をジャジームとしたそうです。
(去年は、ソフコイ祭りの存在さえ知りませんでした)

こうして、すべての演奏が終わり、それでも拍手は鳴りやまず、
ちょっとお決まりの感はありますが、アンコールに…。
このアンコールに限っては、昭和歌謡曲ではなく、
ジャズの定番である、フライミートゥザムーンを演奏してくれました。

満月の下で聴くフライミートゥザムーンは格別。
関ヶ原古戦場の陣跡巡りでクタクタの私ですが、
この演奏で、おおいにリフレッシュできました。

そのあと、もう一曲、演奏をしてくれましたが、
すみません、曲名がわかりませんでした。
(おそらくオンザサニーサイドオブザストリートだと思いますが)

ソフトピアの小径

こうして、誕生日の夜を、とても有意義に過ごすことができました。
それにしても、一日かけて、関ヶ原を歩きに歩き、
足はマメだらけで、もはや歩くのもぎこちなく、
それでいて夜はコンサートと、なんだか、とても慌ただしくもあった一日でした。

そして翌日もまた、関ヶ原を巡ります。
その模様は、次回に、くわしくご紹介したいと思います。



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JAZZCM0. TB0 TOP▲
天下分け目の関ヶ原

慶長五年九月十五日、徳川家康を将とする東軍と、
石田三成を事実上の将とする西軍とが、豊臣秀吉亡き後の天下の覇権を争った、
いわゆる『関ヶ原の戦い』が勃発しました。
先週の土日、日の本を二つに分けた、
この大いくさの部隊となった岐阜県関ヶ原町で、
合戦をテーマにした『関ヶ原合戦祭り2016』が開催されました。
関ヶ原町は、私がいま拠点にしている岐阜市から、クルマで40分ほどの距離で、
しかもここ数年来、こうした歴史の現場を訪ねることに、
熱を上げていることもあり、二日間にわたって、
この祭を見に行くことにしました。

なにしろ、ほんの少し前、司馬遼太郎の『関ヶ原』全三巻を読み終えたばかりで、
いやがうえにも、関ヶ原に強く惹かれてもいました。
(この『関ヶ原』のブックレビューと、関ヶ原の戦いに至る簡単ないきさつなども、
 近々、アップしたいと思います)
さらに、土日はこれ以上はないほどの好天に恵まれ、
まさに絶好の祭日和となりました。

というわけで、土曜日の朝、ヨメにクルマで関ヶ原町の駅まで送ってもらい、
そこから、各所を回ってみることにしました。
今回は、祭ということで、さまざまな場所で、
お店が出たり、イベントがあったりするようですが、
私にとっての第一の目的は、西軍、東軍の各武将の布陣跡を訪ねることにありました。

関ヶ原町の駅前には、関ヶ原駅前観光交流館という施設があり、
まずはここで、観光マップを手に入れ、モデルコースをもとに、
できるだけ効率よく、各陣を回ってみようと思いました。

井伊直政の陣跡

まず、駅のすぐそばにあるのは、井伊直政、松平忠吉の陣跡です。
あたりはたいへんにぎやかですが、この陣跡を訪れる人はまばらで、
なんだかちょっと拍子抜けししまいました。
また、この陣のとなりには『東首塚』という士卒の首を葬った場所があり、
こちらはもう、ほとんど人影はありません。
ですが、今回は、戦の場所を巡る旅ゆえ、
死力を尽くして戦った東西両軍のもののふに、まずは、
哀悼の意をこめて、手を合わせました。

細川忠興陣跡

その次に行ってみたのは、細川忠興の陣跡です。
こちらも祭の喧噪がうそのように、静かでひっそりとしていました。
細川忠興の妻は、玉といい、
本能寺で織田信長を討った謀反人、明智光秀の娘です。
ゆえに玉は、幽閉の憂き目に遭うなど、数奇な運命に翻弄されますが、
そうした苦難からの救いを求めてか、
デウスに帰依し、ガラシャという洗礼名を授かりました。

関ヶ原の戦いの前、西軍の事実上の将となった石田三成は、
各武将を自らの陣営に引き込むため、
ガラシャら名だたる武将の妻を人質に取ろうとします。
しかしガラシャは、人質になる前に、家臣に自らの胸を突かせ、死を選んだといいます。
細川忠興は、本能寺の変のあと、ガラシャには、
どこか屈折した愛情をもっていたように思われますが、
いずにれにしろ、この事件は、忠興の胸にある、
三成憎しの思いを倍加させたことでしょう。

黒田長政・竹中重門陣跡

次に足を運んだのは、黒田長政、竹中重門、両武将の陣跡です。
こちらは小高い山のうえにあり、関ヶ原の地を一望に見渡せます。
しかもこのとき、JRのさわやかウォーキングの人たちが大挙して詰めかけており、
さほど広くはない陣跡は、たいへんなにぎわいでした。

黒田長政は、秀吉を天下人へと導いた黒田官兵衛の嫡男であり、
竹中重門は、秀吉に三顧の礼で家臣に迎えられた、竹中半兵衛の子です。
黒田長政は早くから徳川方につき、西軍の諸将の調略に尽力しました。
また、竹中重門は、当初は西軍についており、犬山城に入っていましたが、
東軍の切り崩し工作に応じて東軍側に寝返り、関ヶ原合戦の折りには、
この場所に陣を張りました。
竹中重門は、関ヶ原周辺には土地勘があり、黒田隊を含めた東軍諸隊の、
道案内的な役目もつとめています。

決戦地

次に目指したのは『激戦地』と呼ばれる場所です。
東軍諸将は、どうせ敵の首をとるなら、
西軍の事実上の将である三成の首を、と意気込み、
三成の陣地である笹尾山を目指して、殺到したといいます。

この地での戦闘が苛烈を極めたのは、おそらく、
西軍が総崩れとなったあとではないかと思います。
いわばここは、関ヶ原の戦いの終盤の舞台、といえるかもしれなのですが、
効率的に名所を回ろうと思うと、どうしても、
早い時点で、この場所に立ち寄ることになってしまいます。

島左近陣跡

そして、歩くこと数分、
笹尾山の石田三成本陣まえの、島左近陣地へと入ります。
島左近の陣地は、今回、とくに訪れてみたかった場所のひとつですが、
左近は、さすがに三成の懐刀の武将ということで、
その陣は、三成の本陣のすぐ眼の前でした。

島左近は、主君である三成とほぼ同等の大禄を食む、
この時代きっての武将です。
関ヶ原合戦の前、
五大老の筆頭である徳川家康に媚をうってへつらう者があとをたたないなか、
三成はわずか十九万石ながら家康に敢然と立ち向かい、
島左近も、自分より年若の主君三成を最後まで忠実に支えます。
そして、戦にあっては、だれよりも勇敢で、
この島隊に攻めかかった東軍の黒田長政隊は、何度も押し返されてしまいました。
黒田家の家臣は、島左近の「かかれえぇ〜!」という怒声が、
戦後何年経っても耳についてはなれず、
夜にうなされて飛び起きるほどだったといいます。

『三成に、すぎたるものが二つある。島の左近と、佐和山の城』と、
謳われたほど、島左近の名は、
当時、他家にも広く知られる存在でした。

笹尾山石田三成陣跡

そしてこちらが、笹尾山の三成の本陣です。
ここからは、戦場となった関ヶ原一帯が一望のもとに見渡せます。
明治時代に、大日本帝国陸軍は、軍の近代化をするにあたって、
ドイツから、メッケルという将校を招きますが、
そのメッケルが、関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣を見たさい、
西軍の勝利を断言したといいます。
実際には、西軍は破れるわけですが、それほどまでに、西軍の布陣と、
この笹尾山陣地は、理想的なものだったのかもしれません。

この場に立って、416年前、眼下に見えたであろう、
東西両軍の軍勢の姿を…、こだましたであろう鬨の声を、ふと夢想し、
当時の三成の心持ちを心に思い描いたりしてみたりしました。

その後は、お昼ご飯を食べるために、イベント会場となっている、
関ヶ原ふれあいセンターへと戻ることにしました。

徳川家康最終陣跡

このふれあいセンターの近くにある、陣場野公園というところが、
徳川家康の陣地であった場所です。
もともと家康は、この陣場野からずっと東にある、
桃配山 - ももくばりやま - というところに、陣を張っていました。
ですが、桃配山は戦場から離れすぎていること、また、
合戦当初は西軍が優勢で、家康の率いる東軍は劣勢となっており、
その状況を打開する意味で、家康は陣を前進させ、ここ陣場野に移したといいます。

この日はお祭りということで、広場では生け花バトル、のような催しが開かれていました。

ともえ組

ふれあい公園のステージでは、アイドル三人組のショーが行われていました。
巴組というそうです。
向かって右端の女の子が織田秀信 (三法師) 、
左側の子が小早川秀秋、中央が宇喜多秀家だそうです。
なんちゅう組み合わせか…、と思ったのですが、
織田秀信は岐阜中納言、小早川は金吾中納言、宇喜多秀家は宇喜多中納言、ということで、
中納言つながりなのだそうです。

ここで、露店のカレー『勝鬨カレー』を食べて、そのあとは、
怒濤の各陣巡りに突入です。
(勝鬨カレーは300円税込み。とってもリーズナブルでした)

藤堂高虎・京極高知陣跡

まずは、西首塚に立ち寄り、こちらでもひとしきり手を合わせ、
次いで、東軍の藤堂高虎、京極高知の陣地跡に立ち寄ります。
なんとここは、中学校の敷地内でした。

福島正則陣跡

そしてこちらは、福島正則の陣跡です。
福島正則は、関ヶ原の戦いのキーパーソンのひとりといっていいでしょう。
賤ヶ岳の七本槍のひとりで、豊臣恩顧の武将の代表格のような人物ですが、
石田三成を極端に嫌っており、ゆえに徳川家康に与しました。
結果的に政則は、家康にさんざん利用され、最後は空しい結果となりました。

脇坂安治陣跡

こちらは脇坂安治の陣跡です。
西軍についていた武将ですが、もとより家康に内通しており、
合戦のさなか、西軍第二の戦力を誇った小早川秀秋の軍勢が東軍に寝返ると同時に、
見方を裏切りました。

平塚為広石碑

こちらは平塚為広の碑です、
為広は、大谷吉継とともに、敵に寝返った諸隊と戦いました。

大谷吉継陣跡

そしてこちらは、関ヶ原合戦において西軍の雄ともいうべき、
大谷吉継の陣跡です。
吉継は、三成と同じように、秀吉に小性として使え、賤ヶ岳の戦いで頭角を現し、
文禄慶長の役では、三成とともに兵站を担当するなど、
武勇、知略に優れた人物だったといいます。
関ヶ原合戦のさいには、当初、家康側につくかのようでしたが、
かねてからの友人である三成の説得を受け、西軍につくこととなりました。

大谷吉継は、西軍第二の戦力を有する小早川秀秋が、
家康側に寝返る可能性を察知し、陣の位置を変更。
もし万が一、小早川秀秋が裏切ったとしても、それに対応できるよう、
手をうちました。

そして、案の定、徳川家康の誘いにより、小早川秀秋は、いきなり、
味方である大谷隊を攻撃し始めたのです。

が、少ない兵力で大谷吉継は見事に秀秋を撃退し、松尾山に追い返してしまいます。
ところが、秀秋の裏切りに触発された他隊が雪崩を打って寝返り、
ついに、大谷隊も防ぎきれなくなり、ひいては、それまで優勢に戦いをすすめていた、
西軍そのものが総崩れとなってしまうのです。

敗北を悟った大谷吉継は、この山中で自刃します。
関ヶ原で自ら腹を切ったのは、この大谷吉継だけではなかったかと思います。
皮膚の病を患い、このときすでに失明に近い状態だった彼は、
そもそも、死に場所を捜していたのかもしれません。

大谷吉継の墓へ

陣跡の奥には、大谷吉継の墓と、
彼の首を命がけで守った五助という士卒の墓があります。
慶長の世から平成にまで、彼の武名は響き渡っています。

宇喜多秀家陣跡

こちらは宇喜多秀家の陣です。
宇喜多隊の士気は旺盛で、東軍先方の福島正則の軍勢を叩きにたたき、
壊滅寸前まで追い込みました。
もしかすると、五大老のなかで、もっとも反徳川だったのかもしれません。

西軍の戦力は、数のうえでは徳川の東軍を上回っていますが、
実際に戦っていたのは、その2割から3割だったといいます。
それでも、地理的な条件もあるのか、最初は優勢な戦いをしていたのですから、
ある意味、たいしたものです。

小西行長陣跡

こちらは小西行長の陣地です。
このあたりまで、ずっと徒歩行軍してきましたが、いよいよ疲れてきました。
足は豆だらけ。
右足の薬指の爪が青黒く変色してしまいました。
歩くと、もう、いたくて、いたくて。

開戦地

こちらは戦いがはじまった場所です。
戦いの時間的経緯を優先すれば、ここから各陣を回りたい気持ちですが、
広い戦場を効率よく回るためには、なかなかそうもいきません。

島津維新入道陣跡

こちらは、薩摩の島津維新入道義弘の陣跡です。
文禄慶長の役では、劇的な戦果をあげた島津勢ですが、
関ヶ原においては、消極的なかたちで西軍につくこととなり、
合戦の最中も、さしたる戦いはしないまま、いわば傍観状態でした。
かといって、敵に寝返ることもなかったわけですが…。

そうこうするうちに、西軍は瓦解。
島津のまわりは敵だらけになってしまい、このときになって、
初めて島津は、撤退のための戦いをはじめます。

撤退といえば、ふつうは後に退くのですが、島津は前に出て、
激闘しつつ、道を切り開いて逃げるのです。
それがまた、ものすごく強いわけで、多くの士卒を失いはしたものの、
結局、的中突破して、薩摩まで帰ってしまいます。

その後は、ふたたび笹尾山の石田三成の陣に戻り、
そこから、ふれあいセンターを経由して、駅に戻ってきました。

が、ここで、徳川の家臣である本多忠勝の陣へ行くこと忘れていることに気づき、
急遽、足をひきづるようにして、訪ねることにしました。
(こうなると、もう意地です)

本多平八郎忠勝陣跡

というわけで、夕日のなか、やっと到着。
本多忠勝の陣跡は、民家の庭みたいなところにありました。
これにて、関ヶ原合戦祭り第一の徒歩行軍は、終えることにしました。

パンフレットによると、各陣を効率よく回れば、総距離は13キロだそうですが、
途中、ご飯を食べにいったり、道に迷ったり、と、ホントにいろいろなことがあったので、
おそらくは、17〜18キロは歩いていると思います。
もう、ホントにたいへんでした。

が、それでも、関ヶ原の南西にある小早川秀秋の陣地『松尾山』には、
時間的な問題から、行くことができませんでした。
また、東軍の武将、田中吉政の陣地に立ち寄ることを、失念していました。
これらは、翌日に回ることにしました。
ふだん運動不足の私には、とてもこたえる陣地巡りでしたが、
司馬遼太郎の関ヶ原で読んだその場所を、目の当たりにできるのは、
まさに感動的でした。

というわけで、次回に続きます。ご期待ください。




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掲載ページ1

先月、朝日新聞出版さまより発売された、
『さする&伸ばすで痛みを解消! 筋膜ストレッチ』という書籍の、
イラスト (全12点) を担当させていただきました。
この書籍は、いわゆる筋トレを指南するといったものではなく、
肩こり、腰痛、また、ひざや腕の痛みなどを、
それぞれに対応した簡単な体操 (筋膜リリースメソッド) を行うことにより、
解消させることを目的としたものとなっています。

本書は、それら体操の方法などを、モデルさんを使った写真によって、
詳しく、しかも、やさしく解説しており、老若男女を問わず、
どなたでもご利用いただけるものとなっています。

今回、私が担当させていただいたのは、
写真では解説ができない、全身の筋の詳細図です。
このような筋肉の解説図については、各種の医学書、
筋肉トレーニング解説書において、すでに何度も描いているので、
とりたてて悩むこともなく、スムーズに作業できました。
また、手元には資料もほぼそろっており、
こうした点に置いても、迅速に対応ができました。

正面人体

ただ、同様のイラストを、各所で多数描いており、
それらはどれも似たり寄ったりになってしまい、
できれば、少しタッチを変えて描きたいところなのですが、
そのあたりは、なかなか難しいところです。
(同じ人間が、同じアングルの同一画を描くわけですから、
 似るのはあたりまえといえば、当たり前なのですが…)

背面人体

かといって、自分らしい色の使い方や、グロテスクにならない表現方法などは、
積極的に出したい部分でもありますし、なにかと悩ましい部分です。

また今回は、あらかじめ輪郭線をひいておく、
という描き方で、作画しました。
本来であれば、輪郭線は引かず、
筋そのものの陰影を描くことによって、立体感を表現したいところなのですが、
その方法は、リアル感は出せるものの、作画には時間がかかってしまい、
今回は納期や予算の都合で、輪郭線方式をとることになりました。

頭部の筋肉

筋表面に走る微妙なライン状の凹凸は、いつも表現に苦労する部分でもあります。
今回は、ここ最近多用している、いったん引いたラインを指先ツールでぼかす、
という方法で、描画しています。
このあたりの作画方法は、まだまだ試行錯誤が続いており、
今後も変わっていくかと思います。

本書はすでに本屋さんの店頭に並んでいますので、
ぜひ、お手に取っていただいて、中身を確かめていただければ、と思っています。

筋膜ストレッチ

詳しい情報は、コチラでもご覧いただけます。
肩こりや腰痛に悩む方にとっては、お役たてていただけると思います。

筋膜ストレッチ中面

○ 朝日新聞出版 / さする&伸ばすで痛みを解消 筋膜ストレッチ

もちろん、amazonなどのネット書店でも発売されていますので、
そちらもご覧いただければ、うれしいです。
また、本ブログに掲載の各イラストには著作権があります。
無断使用はご遠慮くださいますよう、お願い申し上げます。

最後になりましたが、今回、出版社、編集制作会社のみなさまには、
たいへんお世話になりました。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。



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入り組んだ海岸

さて、ちょっと間が空いてしまいましたが、前回の『お伊勢参り』の続きです。
篠突く雨にさらされ、足下がベタベタに濡れながらも、
無事、伊勢神宮参り、猿田彦神社参りを終え、
ふたたび、ホテルへと戻ってきました。
そして、翌日。旅の最終日を迎えたわけですが…。
この日は、雨の降ることはなかったものの、
やはりというべきか、またしても曇りがちな空模様。
今回の旅では、結局、一日も天候に恵まれることはありませんでした。
ひょっとすると、このようなことは、はじめてかもしれません。

それでも、気を取り直して、ホテルを出発!。
屋根付き駐車場は、このようなとき、とても便利ですね。

そして、まずはホテルのそばにある、
伊勢神宮の別宮『伊雑宮』- いぞうぐう / いざわのみや - に、
参拝に行ってきました。
いままで、伊勢神宮には何度か参拝をしていますが、
この伊雑宮への参拝は、今回が初めてとなります。

伊雑宮へ

お天気はイマイチですが、雨が降っていないだけ、ありがたいです。
しかも、この参拝のときだけは、ほんの少しですが、
雲間から日が差すこともありました。
そのあと歩いて、近くにある『秋葉堂』『倭姫命の旧跡地』にまで、
行ってみました。
秋葉堂の脇には、小さな池がありましたが、
たまたま防災訓練などをされていたご近所の方の話によると、
この池はいつもはただの窪地で、
こうして池になっていることは極めて珍しいとのことです。
つまり、それだけ、前日までの雨が激しかったということのようです。

そのあともさらに進んで『上之郷の石神』と呼ばれるを参拝してきました。
こちらは、路上から離れた森のなかにあり、小径を通って向かいます。
ここで、私もヨメも虫にさされてしまいました。
なにしろ、上之郷の石神へと向かう小径は、前日の雨のために、湿気もたっぷり。
いかにも虫にさされそうな気配があり、まさに予感的中という感がありましたが、
が、どういうわけか、その後、かゆみもはれもすぐに収まりました。
不幸中の幸いです。

御料田

その後ふたたび、伊雑宮まで戻り、すぐ南にある、御料田へと行ってみました。
この地域にはほかにも『おみた館』と呼ばれる資料館や御師の家といった、
見所があるようですが、それらに立ち寄ることを忘れてしまいました。
次回、もし機会があれば、行ってみたいものです。

伊勢志摩ドライブ

そのあとは、志摩のあたりにドライブにいってみようということになり、
南に向かって走ってみました。
途中、わずかながら雨がぱらついたりして、
空模様はなんともすっきりとしませんでしたが、
今年行われた伊勢志摩サミットの会場である賢島や、
ともやま公園というところにある、展望台などに行ってみました。

リアス式海岸

こちらが、そのともやま公園の展望台からの眺めです。
このあたりから、天候も少しずつ回復してきて、
ときおり、青空も覗くようになりました。
入り江が続く、いわゆるリアス式海岸で、やはり美しい景色ですね。

そして、帰り際、赤福餅をまた食べたいということで、
二見にある、赤福のお店にいってみることにしました。

二見にある赤福のお店には今回が始めてです。
というわけで、またしても赤福をいただいちゃいました。
やっぱり、何度食べても、どこで食べても、おいしいですよね。

赤福のお店でくつろいだあと、外に出てみると、
青空が見えるようになっていました。
いよいよ帰る頃になって、天候が回復するなんて、
なんとも皮肉なものです。

というわけで、晴れた空につられて、ふたたび、
二見興玉神社 - ふたみおきたまじんじゃ - へと、
行ってみることにしました。

またしても、興玉神社はたいへんなにぎわい。
しかも、前回同様、やはりスマホに眼を落としている人ばかりで、
神社そのもののにぎわいとは少し違うことに、変わりはないようでした。
いずれにしても、無事お伊勢参りができたことを、
興玉神社に報告しました。

青空と二見岩

やっぱり、夫婦岩は青空が似合うように思います。

参拝を終えて駐車場まで戻るとき、
さきほど赤福をいただいたお店のさらに先に『お福餅』のお店を発見!。
このお福餅、見た目は赤福餅にそっくりなのですが、
そっくりゆえに、なんだか、興味をひかれてしまいました。

お福餅

というわけで、お福餅を自分たち自身のお土産として買ってきました。
味は、ほとんど赤福と同じなのですが、餡子は、
赤福よりも少しざらつきを感じ、わずかに粒餡テイストという感もありました。
こちらも、赤福に負けずとも劣らないおいしさでした。

こうして、土砂降りの雨のなかの伊勢神宮参りを、
どうにか無事に終えて、岐阜に帰ってきました。
それにしても、今年の九月は、雨ばっかりで、
終日晴れた日は、なかったのではないかと思うほどです。

ピロティ形式のホテル

MINIも雨にさらしてしまい、ほんとうにかわいそうなことをしました。
できれは、秋晴れの日に、また、MINIでドライブに行きたいものです。




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