オール讀物10月号

さて、九月ももう終わりということで、
早いもので、今年もあと三ヶ月ほどとなってしましました。
なんだか今年もあっという間で、きっと、気がついたらもう年末、
などということになってしまうのではと、ちょっと心配したりしています。
とはいえ、一年を振り返るのは、さすがにまだ早い…。
2018年はまだ三ヶ月も残されているのだと思いながら、
なんとか、いまという時間を、最大限、有意義に過ごしたいと思っています。
(といいつつ、ムダに時間を浪費することも多いんですが)

さて、今回は、今年の六月二十日に応募締め切りとなった、
小説公募『オール讀物新人賞』について、少し書いてみたいと思います。

娯楽性の強い文芸雑誌『オール讀物』が主催する公募小説といえば、
昔は、このオール讀物新人賞のほかに、もうひとつ、
オール讀物推理小説新人賞という賞がありました。

このオール讀物推理小説新人賞には、私も、かつて、
(といっても、かなり昔のことで、三十代の半ばくらいだったかと思いますが)
何度か挑戦をしたことがあり、そのさいには、二次選考通過まで、
駒を進めることができたかと記憶しています。

もっともその後、仕事が忙しくなったりと、いろいろとあって、
すっかり、小説の執筆から縁遠くなってしまいましたが、
三年前の岐阜県文芸祭で大賞をいただいてから、またふたたび、
文章を書く楽しさに目覚め、仕事に追われながらも、少しづつ、
書き始めるようになりました。

というわけで、今年、このオール讀物新人賞をターゲットにして、
小説を書き、応募をしてみようと思い立ったわけなのですが、
オール讀物新人賞の応募総数は、昨今、2,000を超えるとのことで、
かつて存在したオール讀物推理小説新人賞が、
応募総数500~600くらいであったことを思うと、
オール讀物新人賞は、極めて、競争率の高い公募賞といっていいと思います。

しかし、エンターテインメント系の短編小説という部門において、
(規定は原稿用紙50枚から100枚となっています)
私の思いつく限り、このオール讀物新人賞がもっとも知名度があるように思います。
ですので、極めて狭き門とはいえ、やはり、この公募賞への応募に、
大いに魅力を感じ、一念発起したわけです。

今回の小説では、岐阜文芸祭に応募した作品の設定などを流用しました。
というのも、岐阜文芸祭の規定は原稿用紙60枚と比較的短めとなっており、
そのために、説明が過多となってしまい、思うようなかたちで書き進めることができず、
大いに心残りだったからです。
ですが、文章の流用はまったくなく、すべて一から書き直し、
終盤部分では話の筋に重複はあるものの、別の作品になっています。

取材ノート

また、今回は資料の調べ込みにも、多くの労力をつぎ込みました。
それらは要点をノートに記してまとめましたが、
こうして調べた事柄をすべて作品内に生かすことができたかといえば、
決してそうではなく、その多くは切り捨てざるを得ないことになりました。
調べたことを生かせないのは残念ですが、そのために、
退屈な説明の連続になってしまっては、元も子もないのではないかと思います。
(ちなみに私は、プロットの構築も資料のメモも、すべて手書きでやっています)

いずれにしろ、充分な下ごしらえをして書き始めたわけですが、
どうしても、原稿用紙100枚をわずかに超えてしまい、そこから、
削りつつ、また加筆、ということを繰り返していきました。

ところが、この過程で、致命的なミスをしてしまい、
ストーリーの辻褄が、一部、合わないところが出てきてしまいました。
なのに、そんな重要なことに気づかず、結局、
応募作品を郵送した後になって、あらためて自分の作品を俯瞰して、
愕然としたという次第です。

推敲をしていると、つい描写の的確さやセリフの言い回しばかりに気を取られて、
近視眼的な状態になってしまい『木を見て森を見ない』状態に陥ってしまう、
ということなのでしょうか……。
あるいは、一番最初のプロット構築の段階で、
充分な目配り、吟味が足りなかったせいかもしれません。

そんなわけで、こりゃダメだ、と、その後はすっかり意気消沈してしまし、
書く気力も少々萎えてしまったわけですが…。

オール讀物新人賞中間発表

とはいいつつも、選考の中間発表が掲載されるオール読み物10月号が
22日に発売されると、なんとも気になってしまい…。
そんなものを見に行っても、がっかりするだけ、と、なかなか、
本屋さんにも行けませんでした。

しかし、もやもやとした気持ちはもうどうしようないわけで、
先日、本屋さんの店頭へと、結局、行ってみることにしました。

通過者氏名

店頭で平積みになったオール讀物を手に取り、
掲載ページを恐る恐る開くと、応募総数は、なんと2,170だったそうです。
ネットでの作品応募も可能となったためか、応募数は去年を200以上もうわまわっています。
そのうちの予選通過者が112ということなので、予選を突破できるものは、
5パーセント程度ということになるでしょうか。
ますますこりゃダメだ感が強くなったわけですが……。

名前がありました

な……、なんと、私の名前と作品名が、載っているではないですか!!。
ええっっ、ほんとうですか??。
というわけで、何度も見直したのですが、名前も作品名も、たしかに私のものです。

途端に意気があがりましたが、私の名は次の選考まで進める太字では、
印字されていませんでした。
予選通過112のうちには入りましたが、そこで終わりです。

しかし、辻褄の合わないところがある欠陥小説ですから、
次に進めるわけはないのです。
そんな作品でありながら、予選通過できたことは、このうえない喜びです。
が、次に駒を進めることができなかったことは、やはりたいへん残念です。

ただ、15年以上も出版社の公募から遠ざかっていたので、
この結果は、むしろ歓迎すべきことかもしれませんし、また、
学んだことも多かったのではないかと思います。

いずれにしても、私にとってのゲームはこれで終わりです。
来月には、新人賞の受賞者が誌面にて発表されます。
その発表を、一読者として、楽しみにしたいと思います。

また、これに懲りず、次回も、応募すべきターゲットを絞って、
地道に書いていきたいと思います。



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高鷲でのMINI

八月はあれほど暑かったのに、九月にはいると、いきなり涼しくなり、
いまでは、先月の猛暑が嘘のように過ごしやすくなりました。
こうした気候になると、夏のあいだはほとんど動かすことができなかったMINIに乗って、
(なにしろ、我がMINIには、エアコンも電動ファンもありませんので、
夏場の快適なドライブはほとんど不可能でした)
また、どこかに出かけたいなと思ってしまいます。

とはいえ、そのまえに、まずはMINIのオイル交換をしなければ、ということで、
先々週の土曜、いつものように、ガレージ内で黙々と作業に勤しみました。
もっとも、規定走行距離として定めた3000キロを、まだ消化してはいませんが、
前回のオイル交換は三月で、すでに半年が経過しており、
今月のうちには替えてしまわなければなりません。
もっとも、今回は、エレメントの交換は行わず、オイル交換と、
グリスアップのみにとどめています。
(毎度の作業なので、写真はありません。すみません)

こうして作業も無事終わり、これで思い切りMINIに乗れる……、というわけで、
先週の月曜(敬老の日)、岐阜県高鷲村にある、
満州開拓団の展示施設『たかす開拓記念館』に行ってみました。

この施設の存在は、昨年、京都府舞鶴市の『舞鶴引揚記念館』に見学にいったさい、
案内の方から教えていただいたのですが、同じ岐阜県ながら、
たかす開拓記念館にはなかなかに行く機会がなく、
ようやくにして、先週、念願の訪問を果たしました。

しかし出発した時刻は遅く、気がつけばほぼお昼。
さらに岐阜市内を通過するのに思いのほか時間を使ってしまい、
高鷲村についたのは、午後2時半を少し回ったくらいでした。
(もう少し、出発を早めるべきでしたが、後の祭りです)
さらには、午前中は天気がよかったものの、だんだんと雲行きも怪しくなり、
気がつくと、雨こそ降らなかったものの、空はすっかり鈍色になっていました。

たかす町民センター

こちらがたかす開拓記念館の建物です。
もっとも、この建物は、たかす町民センターというらしく、
たかす記念館は、この建物の一部を利用して、設けられているそうです。

それにしても、この日は休日にもかかわらず、駐車場に来客のクルマはなく、
(一台だけ、SUV車が止まっていましたが、駐車位置から察するに、
おそらくは施設の人のクルマだと思われます)
建物もひっそりとしていました。
実際、営業しているのかな、と、思ったほどです。
とはいえ、建物は比較的新しく、たいへん立派なものでした。

広い室内

足を踏み入れると、外観同様、施設内も立派なもので、とても清潔な印象でした。
が、人影はまったくなく、施設が広いぶん、寂しい印象も拭えません。
トイレに行くと明かりがつきませんでした。

入り口付近に、係りの人の詰所のような部屋があり、ここに、
男性の方がいらっしゃいました。
この方は、たかす開拓記念館のスタッフというわけではなく、
町民センターの当番といった様子に見受けられました。
来意を告げると、部屋のすぐ横にある展示施設を示されました。
というわけで、さっそく見学をさせていただきました。

展示室へ

展示室は、パネル展示が中心となっており、
私の当初の想像よりも、充実していましたが、内容については、
開拓団の送出の記録という感が強く、比較的淡白な印象を持ちました。

ここ高鷲村を含め、岐阜県の郡上、ひるがの、などの地域は、
かなり多くの開拓移民団を、満州各地に送り出していたといいます。
郡上からの開拓団送出については、
現地の『凌霜塾』という組織が、大きな役割を果たしたそうです。
この凌霜塾というのは、幕末期、佐幕派側についた『凌霜隊』という部隊を、
ルーツとするそうで、各地で新政府軍と交戦しながら、会津への到達を目指したそうです。
(郡上藩自体は、新政府軍側についたそうです)
しかし、合図の鶴ヶ城は新政府軍の攻撃により陥ちてしまい、凌霜隊の隊士らは、
罪人として郡上に返送され、以後、投獄の憂き目にあったといいます。

この『凌霜』の名を冠した組織が、郡上群の満州開拓団の送出に大きな力を発揮し、
岐阜県内最多の開拓団を送り出したといいます。
郡上の開拓団は、蛟河の北、ハルビンの南のあたりに入植したそうです。

パネル展示によると、この郡上開拓団は、1945年の8月9日のソ連参戦後であっても、
また、日本降伏後においても、平穏に過ごしたとのことで、
しかも、現地の人が危害を及ぼすこともなかったのだといいます。
事実とすれば、極めて稀有なことかと思います。
満州での逃亡記を多数目にしてきた私には、にわかには信じらませんでした。

また、開拓団のほかに、満蒙開拓青少年義勇軍に参加し、大陸に渡った人たちも、
開拓団ほどの人数ではないにせよ、多数存在しました。

高鷲村の開拓団は、琿春の南に入植したといいます。
琿春は、現在の北朝鮮との国境沿いで、また、延吉という街にも近い位置です。
私の祖母、母、ともに、戦時中は満州に行っていましたが、
そのさいには、延吉に住んでいたといいますから、この琿春の開拓団とは、
比較的、近い位置にいたということになります。

また、和良村の開拓団は、満州の北部に入植しており、
(斉々哈爾よりもさらに北ですから、あきらかに、対ソ戦の防壁的な意味で、
開拓団を入れたのではないでしょうか)
ただそれだけで、敗戦後の苦労がしのばれます。

語り部の記録

そのほかに、語り部のかたたちの証言を文書化したものや、
インタビューの模様を録画した資料などがあり、
それらも一通り、拝見をさせていただきました。

階下にも展示室があり、こちらは、満州だけでなく、高鷲村の先人が行ったという、
北海道開拓についての展示などもありました。

ひるがの開拓団のジオラマ

こちらは、ひるがの開拓団のジオラマです。
このジオラマを見る限り、ひるがの開拓団は極めて困窮していたかのような印象を持ちます。
家屋は藁葺きの小屋のようなもので、家畜小屋と大差がありません。

こうして、一時間半ほどをかけて、
くまなく、施設内を見学させていただきました。

ただ、長野県飯田市の満蒙開拓平和記念館、
京都府舞鶴市の引揚記念館にいったあとということもあってか、
どうしても、施設内のさみしさのようなものは否めませんでした。

施設の規模の大小とかそういうことではなく、
満州棄民の悲劇を後世に伝えていこう、という、
気概や迫力のようなものは、美しく整然と展示されたパネルからは、
さほどには感じられませんでした。

比較すること自体、意味がないかもしれませんが、
休日にもかかわらず、案内の方もだれもおらず、
また、語り部の方を招いて体験談を聞くという催しの予定もないようで、
このあたりも、ものたりなさを感じた次第です。

ただ、いずれにしても、常設展示で、
このようなスペースを設けていただいているということは、
大いに意義のあることではないかと思います。

今後も、たかす開拓記念館のさらなる発展と、
展示、資料の充実を願うばかりです。

広い駐車場

というわけで、ひさしぶりのMINIでのドライブを兼ねて、
高鷲村まで行ってきました。
次回もまた、機会があれば行ってみたいものです。



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