島左近陣跡

一昨年、去年と、岐阜県関ヶ原町で行われる、関ヶ原合戦祭に行ってきましたが、
今年も、いつものように、出陣してみることにしました。
もっとも、過去に二回も行き、各武将の陣も回っていますので、
(といっても、まだ南宮山の、毛利秀元、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、吉川元春、
の各陣には、いまに至るも、まだ行ってないままなのですが……)
さすがの古戦場好きの私でも、もう、今年は遠慮しておこうかな、と、
当初は思っていました。

ところが今年は、この関ヶ原合戦祭が、10月21日(日曜)に行われるとのことで、
それならばぜひ、行ってみなくては、考えを改めました。
というのも、関ヶ原の合戦が行われたのは、慶長五年の九月十五日で、
これを今の暦に直すと、西暦1600年10月21日になるはずです。
ということは、今年の関ヶ原合戦祭の日は、まさに、関ヶ原の戦いがあったその日であり、
この戦場でただひとり腹を召した大谷吉継公にとっては、418年目の命日ということに、
あたるわけです。

となれば、気分も盛り上がるかも、ということで、
10月21日、私も、いざ、出陣することにしました。
といっても、午前中は野暮用などをしていて、関ヶ原に着いたのはお昼近く。
ちょっと遅がけの出陣となりましたが、それでも、
意を決して、各陣を回ってみることにします。

そのまえに、まずは陣場野そばに出ているお店で、例年のように、勝鬨カレーを食べます。
ちなみにこのとき、ひとりで屋外に座ってカレーを食べていると、
若い女の子が「いっしょに座ってもいいですか」といってきたので、
「ええっ、どうぞどうぞ」といったのですが、単に、食事する席が無いだけでした。
オジサン、ひとりで舞い上がってしましました。

そのあとは、さっそく各地を回ってみます。

井伊直政陣跡

というわけで、まず最初に行ったのが、井伊直政と松平忠吉の陣です。

関ヶ原合戦のさいの東軍の先鋒は、福島正則と決まっていたようですが、
徳川方としては、福島のような豊臣恩顧の武将に、先鋒で手柄を立てられることを、
できれば避けたいと考えていました。
というのも、福島正則は、石田三成憎しの感情で東軍に与していましたが、
亡き太閤の息子、豊臣秀頼への忠誠心は、旺盛なものがありましたし、
同時に、このとき、徳川方の主力である徳川秀忠率いる軍が、
関ヶ原の予定戦場に到着できず、
徳川家康は、豊臣恩顧の武将ばかりを率いて戦うという、番狂わせも生じていました。
このまま福島正則が手柄を立ててしまうと、戦後世界における自らの権力掌握について、
徳川方は、思惑と違う展開を強いられるかもしれなかったのです。

そのあたりの事情をわかりつつ、うまく対応したのが井伊直政です。
井伊直政は、後見という立場で預かっていた徳川家康の四男、松平忠吉を伴って、
戦場の見物と称して、朝霧のなか、
福島正則の陣に迷い込んで入り込むかたちにとりながら、
成り行きのような展開を装って、先陣を切ることに成功しました。

抜け駆けによる先鋒破りは唾棄すべき行為とであったといいますが、
直政は、この成り行きの展開を装うことで、福島正則の逆鱗にも触れず、同時に、
先鋒の武勲を立てるという、きわどい政治的行動を成功させたといいます。

ちなみに、この陣跡のすぐそばには、討ち取られた将兵の首塚があります。
物見遊山で戦場を回るわけですから、礼儀として、亡き将兵の獅子奮迅の働きに敬意を表し、
お参りをさせていただきました。

というわけで、その後は、陣馬野を経由し
途中、田中吉政の陣跡などにも寄りつつ、
石田三成陣跡である笹尾山へと向かいました。

笹尾山ではイベントの真っ最中。
コスプレした各武将隊が、旗指物のまえで、槍や太刀をかまえ、ポーズを決めていました。

石田三成隊

こちらは、石田三成隊です。
石田三成を演じている人は、おそらく、去年と同じ人かと思います。

大谷吉継隊

大谷吉継隊は、いちばん人気があるようでした。
大谷吉継は、関ヶ原合戦のさい、重い病のため、たちあがることもままならず、
輿のうえで采配を振るったといいますが、こうして、堂々と立ち上がる吉継公は、
いかにもかっこいいです。白い頭巾がかっこいいです。

小早川秀秋隊

この鎌の旗指物は、小早川秀秋隊ですね。
関ヶ原では、大いなる裏切り者として、名を馳せていますが、
そこがダークヒーロー的な感じなのか、意外と人気があるようでした。
まあ、良くも悪くも、関ヶ原合戦のキーマンですから……。

笹尾山台上

こちらは笹尾山台上です。
418年前の同じ日、この大地のうえには、鬨の声が、響き渡っていたのでしょうね。
そう考えると、なんだか不思議な気がします。

笹尾山では、その後も武将隊によるパフォーマンスが行われていましたが、
私はひとり、各陣を回るため、この場をあとにしました。

島津義弘陣跡

次に行ったのは、薩摩の島津義弘の陣跡です。
一時は徳川方に与しようと思っていたのに、伏見城の鳥居元忠から拒絶されたりして、
成り行き的に西軍に加わることになった薩摩勢ですが、
石田三成からの冷たい処遇などもあり、合戦当日には、
陣を構えながらも積極的に戦うことなく、いよいよ西軍が総崩れになると、
薩摩勢は撤退を決意します。

が、撤退するといっても、周囲は敵だらけ。
とはいえ、伊勢街道に出て薩摩まで逃げ帰りたい島津義弘は、
なんと、徳川方に向かって、前進して戦って撤退する、という、
奇策に打って出ます。
薩摩勢、すごい。

宇喜多秀家陣跡

そのあと行ってみたのは、宇喜多秀家の陣跡です。
福島正則隊を大いに叩いた宇喜多勢ですが、小早川の裏切りで潮目が変わってしまった戦を、
ふたたび反転させることはできませんでした。

大谷吉継墓

そして、次に行ったのは、自分としては、今回の目玉といっていい、大谷吉継の墓参りです。
これまで、各陣を巡ってきましたが、小西行長の陣跡に人がいたのみで、
ほかの場所では、誰ひとりいませんでした。

ですが、大谷吉継のお墓のある場所には、次から次へと人が現れ、手を合わせていました。
吉継公の人気の高さを、ふと思い知る気がしました。
というわけで、私も、しっかりとお参りをさせていただきました。

ちなみに、お墓に不用意にカメラを向けるのは、不謹慎というか、
なんとなくためらわましたので、墓の写真はありません。すみません。

藤堂高虎陣跡

こちらは、藤堂高虎と京極高知の陣跡です。
前回はこなかったので、ひさしぶりの訪問です。
ちなみにこちらは、学校の敷地内にあります。

福島正則陣跡

福島正則の陣跡にも寄ってみました。
なにしろ、藤堂勢の陣跡から近いですし。

松尾山へ

そして、今回もいきます、松尾山の小早川秀秋の陣跡へ。
ここからはきつ〜〜い道のりになりますが、やっぱり、
関ヶ原にきたからには、いっておかないと。

坂道を登る

ひたすら山道を登ります。
このあたりはまだ傾斜もなだらかですが、終盤になると、
階段状になった道もあって、きついです。

松尾山小早川秀秋陣跡

でも、ヘロヘロになりながら、たどり着きました。
もちろん、誰もいません。
小早川秀秋の陣跡、独り占めです。

そのあとも、延々と、延々と歩いて、
薩摩勢が最後の決戦をしたという、鳥頭坂に向かいます。
これが長かった。

島津豊久墓

こちらも、なんとかたどり着きました。

徳川勢に向かって前進して撤退する道を選んだ島津義弘ですが、
当然のことながら、かなりの苦戦をしいられました。
薩摩勢は、要所要所に兵がとどまり、その兵が命を捨てる覚悟で、
追っ手と戦っているあいだに、本隊が逃げる、という戦法を、何度もとったといいます。
この戦法はステガマリと呼ばたといいますが、
実際に島津義弘は薩摩まで逃げ帰っていますので、
十分な効果を上げた戦法といえるかもしれません。
ただ、その犠牲は甚だしく、ともに戦っていた島津豊久は、
この地で討ち死にしたともいわれています。

ちなみに、このすぐそばに、立派な豊久公の墓碑があります。

その後は、関ヶ原の駅に向かいつつ、途中、本多忠勝の陣跡に寄ったりしてきました。

結局、今年も、ものすごく歩きました。
その結果、またしても、足の爪をひとつ剥がしてしまいました。
でも、こういうことでもない限り、長距離を歩く機会がありません。

健康のためにも、関ヶ原ハードウォーキングは、続けたほうがいいのかもしれません。



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三千院庭園

10月になってから、比較的おだやかな天候が続いているかと思います。
それにしても、気がつけばすでに今月も半ば過ぎ……。
なんだかあっという間という感じですね。
さて、そんなおだやかな秋の日に、京都の大原まで行ってみました。

行ってみたのは先週末の日曜です。
このときの出動車はヨメのプジョーでしたが、じつはそのまえの週にも、
MINIで京都大原方面まで行こうとしていました。
が、この日は、出発の時間がとても遅くなってしまい、結局、
琵琶湖西岸の朽木のあたりまで行けませんでした。

しかも、朽木で、信長の隠れ岩なる場所に行ってみようとしたのですが、
クルマを停められる場所をみつけられず、
(看板のある路肩は、段差が激しくて、MINIだと入れない気がしたので)
結局、素通りしてしまうことに…。

この信長の隠れ岩なるものですが……。
元亀元年、織田信長が、越前の朝倉氏討伐のため、敦賀の金ヶ崎城を攻めましたが、
そのさい、信長と同盟関係にあった近江浅井氏が朝倉方に寝返り、
朝倉軍とともに信長を包囲しようとしました。

優勢に戦いを進めていた信長でしたが、浅井の寝返りで形勢は逆転。
信長は同盟軍の徳川家康や自軍を取り残し、京へと逃げかえろうとします。
そのさい、浅井の支配地域を避け、琵琶湖西岸の急峻な山道を通ったといいます。

信長の隠れ岩とは、そのさいに、追っ手をかわすため、
信長が身を潜めた場所のようです。

朽木資料館

そのあと、朽木の資料館へと行ってみたのですが、
こちらはなんと、予約しないと開館してくれないそうです。
そんなことは当然ながら知りませんでしたので、建物のまえで、
途方に暮れてしまいました。

ただ、この資料館のある場所は、朽木陣屋跡と呼ばれる公園となっており、
お散歩するには、ちょうどよい場所になっていました。
(ちょっと草ぼうほうで荒れた感じでしたが)

朽木にて

とにもかくにも、MINIは琵琶湖東岸の道を軽快に走り抜け、
好天のなか、楽しいドライブになりましたが、さすがに、
この日は、京都まで足を延ばすことはできませんでした。

というわけでその次の週、今度はヨメのプジョーで、
再度、琵琶湖西岸を通って京都に至るルートを辿ってみることにしました。
この日は、前週の日曜ほどではありませんでしたが、まあまあのお天気で、
しかも、渋滞などにも出くわすことなく、すんなりと、
京都の大原に到着することができました。

三千院駐車場

なにしろ、大原といえば、三千院などの有名寺院があり、
もしかすると、駐車場にクルマを止めるのに、
かなり難儀するのではないかと思いましたが、
意外と簡単に、しかも三千院に最も近い場所に、駐車することができました。

というわけで、さっそく三千院に行ってみます。
私にとっては、人生初の三千院見学です。

坂道を登って

駐車場から三千院に行くには、この細い坂道を上へ上へと登っていきます。
観光客は多くいましたが、ひどく混み合うこともなく、すいすいと、
歩くことができました。
ただ、これからは紅葉シーズンとなるため、このような、
快適な状態ではなく、大きく混雑するのではないかと思います。

紅葉が本格的になったら、また、この地を訪れたいとは思いますが、
あまりに混雑するようなら、ちょっと難しいかも…。

三千院

こちらが、三千院の山門です。
というわけで、拝観料700円を払って、いざ、三千院見学です。
といっても、院内の撮影は許されておらず、庭園や、一部の許可ポイントしか、
撮影できませんでしたが‥。

外に出て

院内の見学を終えると、庭園を通り抜け、次は往生極楽院を参拝し、
ついで、わらべ地蔵を見にいきました。

わらべ地蔵

こちらがわらべ地蔵です。
かわいいお地蔵さんがいつくも並んでいました。
カメラ女子のみなさんが、競って写真を撮っていました。

庭園で撮影

それにしても、この苔むした感じの庭園は、心が落ち着きます。
いい雰囲気ですね。
(ちなみにこちらは、わらべ地蔵ではありません)

というわけで、三千院をあとにして、今度は、
寂光院まで歩いて行ってみることにしました。
来た道を戻ります。

2018_10_14h.jpg

とりあえず、三千院そばのお店で買ったお土産を、
駐車場に止めてあるプジョーに置き、ふたたび歩いて出発です。
この駐車場から寂光院までは、少しばかり距離がありますが、
充分に徒歩圏内です。

田舎らしい風景

このあたりは、ほんとうに田舎で、川の水もとてもきれいです。
空は少し雲がかかることもありましたが、しだいに晴れてきました。

入館料を払って

こちらが寂光院の入り口です。
石段がいい感じですね。拝観料は600円でした。

寂光院は、平清盛の娘で、高倉天皇の妃であった建礼門院徳子が、
源平合戦の後、隠棲した寺ということで知られています。
(建礼門院徳子といえば、大河ドラマ『平清盛』で、
二階堂ふみさんが演じられていたかと思います)

清盛の娘ということで、この世の絶頂を味わい、
しかし、源平合戦では、敗戦の憂き目にさらされ、入水して自害しようとしたものの、
不本意ながら源氏側に助けられ、子である安徳天皇を失い、
失意のなか京に連行され、ここ寂光院で晩年を暮らしたといいます。
この世の喜び、悲しみ、すべてを経験した女性と言われています。

こちらは、三千院よりもさらに観光客が少なく、そのぶん、
静かな雰囲気がより味わえました。

ちなみに、三千院は、平成12年に、何者かの放火により焼失したといいます。
私はその事実を知らずに、ここにきて初めて、本堂が再建されたものと知りました。
犯人はいまだ捕まっていないということですが、ずいぶんと罰当たりな、
かつ、歴史的遺物に対する冒涜行為をしたものです。
建礼門院徳子の像も、このとき、焼けてしまったといいます。
徳子も草葉の陰からさぞ悲しんだことでしょう。

南蛮灯篭

こちらは、南蛮灯篭と称される金属製の灯篭です。
立て札には伏見城から持って来たものだとか……。
伏見城といえば、関ヶ原合戦の前に、西軍に包囲され、
徳川方の重臣鳥居元忠の奮戦虚しく、落城した城ですね。

建礼門院徳子墓陵へ

こちらは、建礼門院徳子のお墓に通じる石段です。
しっかりとお参りをしてきました。

というわけで、秋の一日、京都大原を思いっきり堪能してきました。
できれば、また、このあたりを散策したいものです。
(でも、やっぱり、混雑する紅葉の時期は避けたほうがいいかも)



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