作業を終えて

前々回のブログで『お盆を過ぎたら秋らしく、少し涼しくなりました』などと、
書いてしまいましたが、九月に入ってから、急に暑くなってしまい、
一週間前の日曜 (9月8日) などは、もう真夏顔負けの暑さでした。
そうそう簡単には秋になってくれないようですネ。
そんなあつ~いこの日、恒例のMINIのオイル交換を行うことにしました。
こちらのブログを見てくださっている方のなかには、
『またMINIのオイル交換ネタか!』と、思われるかもしれませんが、
MINIのメンテナンスにまつわる事柄を、ブログに書いておくと、
クルマのコンディションを知るうえで、都合のいいことが多々ありますので、
顰蹙を覚悟で、記事をアップさせていただきます。

さて、前回のオイル交換は、三月末の土曜日だったのですが、
今回は、九月初旬と、少し早めのオイル交換となりました。
というのも、この秋、車検があり、
かねてからお世話になっている富山のスペシャルショップに、
整備点検をお願いしようかと考えています。
そうなると、かなりの長距離走行をすることとなり、
ならばそのまえに、オイルを一新しておこうと思ったのです。

というわけで、いつものように、ビバホームでバルボリンのオイルを購入。
以前買った未開封のものが一本残っていたため、今回は五本を購入しました。
店頭にはきちんと五本が在庫されており、オイル調達は難なくできました。
今回は、ここで廃油パックも購入しましたが、こちらのパック、
ちょっと背が高くて、MINIのエンジン下に入るかどうか、不安です。
まあ、入らなかったら、ちょっとだけジャッキアップすればいいのでしょうが。

ボンネットを開けていざ開始

今回は、車検時にグリスアップをしてもらう予定なので、グリスアップはオミットし、
また、前回、オイルエレメントを交換しているので、こちらも今回は見送ることにしました。
なにしろ、走行距離が少ないですから、エレメントを交換してしまうのは、
ちょっともったいないかなと思った次第です。

オイルパンとアンダーガードの隙間

まず、ドレンボルトを外します。
このドレンボルト外しに、いつも四苦八苦するのですが、
(とっても固いため)
今回は、すんなりと外れてくれました。
が、あまりにすんなりと外れてくれると、なんだか、締め付けが甘かったのでは、
と、いろいろと心配になってしまいます。
とはいえ、MINIのオイルパンはアルミだとのことで、強すぎる締め付けは厳禁です。
このあたりの力加減は、難しいですね。

そして、いつものように、オイルパンとアンダーガードのあいだに、
丸めたキッチンペーパーをしっかりと押し込んでおきます。
この作業は、我がMINIのオイル交換においては、とても重要です。
この『キッチンペーパー押し込み』を忘れると、垂れた廃油がアンダーガードの上面に落ち、
そしてアンダーガードの端から床に落ちるということになってしまいます。

今回初使用の廃油パック

そして、廃油パックを設置。
やっぱり、この廃油パックは、背が高過ぎて、MINIのしたにははいりませんでした。
いたしかたなく、ちょっとだけジャッキアップして、対応します。

15分ほど暖気し、タペットカバーのオイルキャップを外し、ドレンボルトを抜きます。
勢いよくオイルが排出されますが、このとき、廃油パックからはみ出さないよう、
しっかりと監視しておきます。

オイルが充分に抜けきったら、
(いつまでも廃油の滴がポタポタと落ちてくるので、抜けきったと判断できませんが)
ドレンボルトを締め付け、オイルを入れていきます。

いつものバルボリン20w-50

今回はエレメントを交換しないので、オイル量は総計4.7リットルで事足りるはずです。
バルボリンのオイルは、一本が1クォートという容量となっているため、
1リットルにはほんの少し足りません。
1クォートをリットルに換算すると、0.946リットルだそうです。
すなわち、5クォートを入れれば、4.73リットルとなり、ほぼ、規定量になるはずです。

MINIのエンジン

もっとも、入れ過ぎちゃうのも怖いので、バルボリンのオイルを4.5本分入れたところで、
いったん、オイルレベルゲージでオイル量をチェックします。
このときは、レベルゲージでほぼMINIのところをさしていました。

MINIのオイルレベルゲージのMINIからMAXまでは、およそ0.5リットルとのことですので、
残りのオイルを入れてしまいます。
これで、もう一度オイルチェックをすると、レベルゲージのMAXのところまで、
オイルを確認することができました。

これでオーケー。再度、ドレンボルトの締め付け具合を確認し、
ゴミを片付け、作業は完了です。

そのあとは、テストドライブしてみました。
あいかわらず、MINIは快調です。
ただ、オイル交換したからといって、とくに調子に変化はありません。
いつものように、快調という感じです。

というわけで、楽しくドライブ……、のはずが、もうこの日は暑い、暑い。
信号で止まると汗が吹き出てきます。
もちろん水温計も上がってくるわけで、なんとも不気味な予感。
いたしかたなく、恒例の『夏のヒーターON』を実行します。
これで、なんとか、水温計を中央に維持させます。

オイル交換後のテストドライブ

というわけで、岐阜市の西にある関ヶ原まで行ってみましたが、
途中で何度もコンビニに寄って飲み物を買い、水分補給をするといった状態でした。
ヒーターがかけっぱなしのけっこうハードなドライブとなりましたが、
MINIは全く問題なく快調で、しかも気持ちのいい快晴で、その意味では、
楽しいドライブとなりました。

ガレージは熱気ムンムン

おそらく、車検を受けたあとは、気温も落ち着いてくるかと思いますので、
その折には、また、ドライブに出かけたいものです。



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講演会会場

先週の土曜 (9月7日)、岐阜市の西隣にある瑞穂市という街で
朝日大学公開講座2019 2020放送予定大河ドラマ『麒麟がくる - 明智光秀を学ぶ』
と題された、講演会が行われました。
場所は、瑞穂市の瑞穂市総合センターで、講師を勤めるのは、
テレビなどでおなじみの、東京大学史料編纂所教授の本郷和人先生です。
本郷先生は、歴史系のバラエティ番組にも広く出演しており、
また、NHK BSの『偉人たちの健康診断』では司会も勤めていますので、
歴史に興味がない方でも、お顔を拝見したことがあるのではないかと思います。
(歴史の先生というと、この本郷先生をはじめ、磯田先生、小和田先生、
そして城郭研究家の千田先生が有名かなと思います)

この公開講座は、受講は無料ですが、会場のキャパシティの関係で、
入場希望者は事前に申し込みが必要で、受講者にはハガキで通知するとのことでした。
申し込みがちょっと遅かったので、受講できるかどうか、ちょっと不安だったのですが、
八月末、無事、受講者通知が届き、晴れて会場に入れることとなりました。
(ただ、300人余りが抽選に漏れたそうです)

というわけで、7日当日、ヨメに会場まで送ってもらいましたが、
開演30分前にも関わらず、会場はすでに人でいっぱい。
一階の席はもうほとんどが埋まっている状態でした。

というわけで、講座資料をいただいたあと、仕方なく二階へ。
二階席があるのならさほど困らないのでは、と思われるかもしれませんが、
上階の席というのは、ステージからちょっと距離があるんですよね。

会場風景

でもまあ、仕方がないのでこちらでガマンします。
……と思っていた矢先、それまで封鎖されていた、
同じ二階にある左右の席が解放されたので、急遽、そちらに移ることにしました。

会場内移動

この席は、桟敷席のような状態で、なかなかに見晴らしがいいです。
ただ、講演者が手前の側 (向かって左側) に立つと、あまり見えないんですが……。
いずれにしても、席が一列しかなく、前後に人がいないので、けっこう楽な感じですね。

そうこうするうちに、開演時間となり、まずは朝日大学の学長が挨拶に立ちました。
講演が始まると、撮影は禁止となっていますので、
この先は、画像はありません。すみません。
学長の挨拶は、簡潔ながらもユーモアを交えていて、とてもよかったです。

そのあと、いよいよ本郷先生が登壇し、講演が始まりました。
(ただ、席の場所が影響したのか、ちょっと音声が聞き取りづらい部分がありました)
とはいえ先生は、壇上に立っても、すぐ本題に入るわけではなく、
まずはツカミにあたる小話をして、会場の笑いを大いにとって、
充分に場を和ませたところで、講義に入りました。
(さすが先生、お話することにとても慣れている感じです)

先生は、まず『歴史的事実とフィックションとは分けて考える必要がある」と、
おっしゃっていました。
明智光秀は、誰もが知るたいへんな有名人ですが、
じつは、多くの部分がまだわかっていないとのことです。
年齢ひとつをとっても、正確なところは、いまだに不明だそうです。
もちろん、本能寺の変をなぜ起こしたか、などということは、わかるわけがありません。

ただ、先生のおっしゃるお話のなかで、とくに興味深かったのは、
信長と光秀の関係が、ある女性を介することで良好な状態を保っていた、というくだりです。
この女性は、当時の文献によると『御ツマキ』と称されていて、
光秀の義理の妹と推察されています。
(光秀の正室である妻木煕子の妹か……)
同時に、この御ツマキは、信長の側室ではなかったかというのです。

この『ふたりの実力者がひとりの女性を調整役として良好な関係を維持する』というのは、
平清盛と後白河法皇の関係を彷彿とさせます。
平清盛は、後白河法皇と昵懇で、後白河の庇護を受けるかたちで、位人臣を極めます。
後白河は平氏一門の滋子を女御としており、この滋子を調整役とすることで、
清盛は、後白河との良好な関係を維持していたといいます。

信長と光秀も、おそらくこの清盛と後白河のように、
御ツマキを調整役として、良好な関係を築いていたのではないか……、
そう考えられなくもないというのです。

ところが、御ツマキは、天正九年八月に亡くなります。
天正九年といえば、本能寺の変が起こる前年です。

滋子が亡くなったことで、清盛と後白河の関係が悪化したように、
(このあたりのいきさつは、大河ドラマ『平清盛』でも描かれていましたが)
御ツマキが亡くなることで、信長と光秀の関係も、
しだいにぎくしゃくしていったのではないか、というのです。

もしかすると、来年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、
このあたりのいきさつが、描かれるのかもしれません。

また、明智光秀は極めて優秀な人物であったと、本郷先生は考えているようです。
なにしろ、丹波をわずか四年で攻略した、という一点からも、
その優秀さは明らかだといいます。

武田信玄は信濃を攻略するのにかなりの時間を要しました。
なにしろ、この攻略の過程で、信玄は、北の上杉謙信を刺激することとなってしまい、
結局、謙信とは十年にも渡って戦うこととなりました。
戦の神様のように称される信玄ですが、そんな信玄であっても、
信濃攻略は、決して容易ではなかったわけです。
ゆえに、光秀が行なった『四年で丹波攻略』という功績は、
光秀の並外れた力量を示していると言わざるを得ないというのです。

資料冊子

本郷先生の講演の後は、巽昌子先生による、
古文書からみる分国支配という講演が行われました。
こちらは、とくに光秀とは関係なく、武田信玄の甲州法度や、
今川家の今川仮名目録などについて、お話しされていました。

その後は、高校生による作文コンクールの表彰などが行われ、
特に優秀と判断された三つの作文が、作者本人によって朗読されました。
私は、高校生の頃は、歴史にまるで興味がなかったですから、
ただただ感心するばかりでした。

受講証明書

ちなみに、この講演の資料の中に、受講修了証が入っていました。
しかも名前入りです。
こんなの、もらえるんですね。

というわけで、土曜の午後を有意義に過ごすことができました。
今後も、同様の講演会や催しがあれば、また、出かけてみたいと思っています。



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