ジョージ・オーウェル 一九八四年

さて、今回は、前回予告しましたように、
ジョージ・オーウェルのディストピア小説『一九八四年』を、取り上げたいと思います。
この小説は、たいへん有名で、村上春樹の長編小説『1Q84』も、その題名が示す通り、
オーウェルの一九八四年に大きく影響を受けていると思われます。
実際、1Q84には、オーウェルについて言及する場面も、何度か登場したかと思います。
この1Q84を読んだ当時、いっしょにオーウェルの一九八四年も読んでおくべきでしたが、
時の経つの早いもので、今年にまで、ずれこんでしまいました。
(まあ、ズボラということですネ)

さて、本作品の背景となる時代は、いうまでもなく西暦1984年です。
1984年といえば、いまから30年以上もまえで、
日本の元号でいえば、いわゆる『昭和』の時代になりますが、
本作品は、1948年に発表された、とのことですので、
当時としては、いわば、30年以上先の世界を描いた、近未来SF小説でもあったわけです。

物語の舞台はロンドン……。
ですが、ロンドンは、もはやイギリスの首都ではなく、
それどころか、イギリスという単独の国家も存在しません。
この物語におけるロンドンは『オセアニア』という巨大国家の一都市となっています。
主人公は、ウインストン・スミスという三十代の男性です。
スミスは、真理省記録課という部署に勤めていますが、
行なっている仕事は、文書の改竄であり、歴史の書き換えです。
(真理とは程遠い、というか、真逆のことをやってるわけです)
オセアニアを支配する『党』は、絶対に間違いを犯すことがなく、
そのため、党に都合の悪い事実は、日々、片っ端から書き換えられるのです。

党は『テレスクリーン』という送受信可能なテレビのような機械で、
党員を二十四時間監視しており、
彼らの動向にわずかでも不穏な動きがあれば、思考警察を使って摘発します。
また、密告が奨励されており、みな、隣人や同僚を監視し、子供は親を常に監視し、
党への忠誠に揺るぎがないか、チェックしています。

街中には党を指導する『ビッグブラザー』という人物のポスターが所狭しと貼られ、
誰であれその肖像の視線から逃れるすべはありません。
男女間の恋愛は禁止され、互いに好意を持つがゆえの結婚も許されず、
セックスは子供を作るための『党に対する義務』として許されているといった状態です。

一九八四年 文面

スミスは、この社会のありように疑問を感じ、テレスクリーンの目を盗んで、
密かに日記をつけることを始めます。
一個人が日記をつけることは、この社会においては、重大な犯罪です。

なぜ、スミスは、このような危険な行為に及んだのか……。
それは、党の中枢にいるオブライエンという人物が、
自分と同じ、社会に対する『疑問』を持っているのではないかと感じたからです。
やがてスミスは、オブライエンに敬愛の情を抱くようになり、
オブライエンに対する私信のような気持ちで、日記を書き続けます。
また、時を同じくして、スミスは、ジュリアという若い女性と知り合い、
激しい恋に落ちていきます。

恋愛もまた、日記をつけるのと同様に、命にかかわるとてつもなく危険な行為です。
ジュリアとの関係が深まるなか、スミスは、オブライエンからのコンタクトを受けます。
案の定、オブライエンは、党の中枢に属する身にありながら、
党の破壊を目論むレジスタンス組織『ブラザー同盟』のメンバーでした。
スミスは、オブライエンの手引きで、ジュリアとともに、ブラザー同盟の一員となります。

ところが、スミスは、ジュリア共々、思考警察によって逮捕されます。
政治犯を拷問して矯正する『愛情省』に連行されたスミスは、
そこで、盟友であるオブライエンと再開します。
スミスは、思考警察の手がオブライエンにも及んだのかと考えますが、
そうではなく、スミスを逮捕したのは、このオブライエンの命令でした。
オブライエンは、レジスタンスのふりをしただけで、実際には、党に忠実な男であり、
しかも、七年もの間、ずっとスミスの行動を監視していたのです。

愛情省の一室で、オブライエンは、
考えるだけで身がすくむ恐ろしい拷問を、スミスに加えていくのですが……。

一九八四年 背面

ええと……、読み終えると、疲れます……。もう、グッタリです。
あまりに救いがない結末に、目の前が真っ暗になる思いです。
とくに、三章の拷問の場面は、気が滅入ってしまって、夜、悪夢を見ます。(体験談)

この物語は、1948年に発表されたとのことですから、当然、オーウェルは、
ナチス・ドイツのレーム粛清『長いナイフの夜』や、スターリンのトゥハチェフスキー粛清、
トロツキー批判などを詳しく知っていたでしょうし、物語の下敷きにしたかと思います。
スターリンによる粛清は、この一九八四年の残酷描写を上回るものだったかと思います。

そうした実際の出来事をふまえつつも、
オーウェルは、じつに奇抜で理にかなったアイデアを本作の設定に入れています。
それが『ニュースピーク』です。
このニュースピークというのは、党が作った『新製英語』のようなものです。
本作の末尾には、このニュースピークの言語説明が、付属資料として入れられています。
ニュースピークの極めてユニークな特徴は、年々、
語彙を減らしていくというところにあります。

党が、党員をすべからく支配するためには、些細な不満でさえ、
抱かせないようにする必要があります。
そのためには、不満そのものを『言語化』することを放棄させなくてはなりません。
ゆえに、党は、単語そのものの意味を厳格に規定し、
ひとつの言葉に複数の意味を持たせることを、まず排除します。
そして、同じ意味合いをもつ単語をすべて整理し、集約します。
「free」という単語は排除され、freeがもっている「免れる」という別の意味は、
他の単語をあて、その意味を完全に厳正なものとするのです。
また、動詞にも容赦のない削除を行います。
「bad」-悪い-という単語も消滅させ、
その代わりは、ungood -よくない- というかたちに集約させます。

つまり人々は、党に対し不満や疑問を感じても、
それを正確に言葉にし、情報を伝達、共有することが、
できなくなってしまうというわけなのです。
オーウェルが考え出した『人から言葉を取り上げることで思考を奪う』
という独裁システムの設定は、とてもリアリティがあるように思います。
このニュースピークにより、物語は、より現実味のあるものに、また、
空恐ろしいものになっているかと思います。

一九八四年 帯

また、歴史の修正も、肌に粟を生じる描写のひとつです。
党が政策決定を行い、後に、その変更を行うとします。
当然、決定が変わるわけですから、そのまえの決定は破棄されます。
しかし、党は、絶対に間違いを犯さない存在ですから、
そもそも、決定が変更されること自体、
あってはならないことになるわけです。

そうすると、真理省は、前回の決定を報じた新聞、公文書、書籍、をすべて改竄します。
もっとも、改竄される前の記憶は、人に頭の中に残るでしょう。
ですが、立証するものが、きれいさっぱり抹消されてしまうのです。
とどのつまり、真実は、妄想と化してしまうわけです。
この、文書改竄という手を使えば、党はありとあらゆることができます。
特定の人間を貶めたり、常に生産物がノルマを上回っているということになります。
党は、法も、市民も、歴史も、すべて恣意的に操作できるというわけです。

作品に描かれた世界は、極端にディフォルメされたディストピアではあるかもしれませんが、
個々のディティールには、まったくの絵空事といえないところもあるのかなと思わせます。

○ ハヤカワepi文庫『一九八四年』ジョージ・オーウェル著 ~

物語は、救いようのないラストを迎えますが、ほんとうに暗黒の結末なのか……、
というと、そうではないのかもしれません。
というのも、この物語は、ラストを迎えたあと『ニュースピークの諸原理』という附録が、
エピローグ的な意味合い(?)で、ついています。
このニュースピークの諸原理は、ニュースピークなる言語が、
どのような意図をもって導入され、また、言語の体系がどうなっているのかについて、
語彙群などを交えて、詳しく説明したものです。
本書の解説文にも記されていますが、このニュースピークの諸原理は、
すべて過去形で書かれています。
しかも『今日では想像しがたい盲目的、熱狂的な受容を含意していた』とも記されており、
あたかも、過去の政治体制を批判するトーンで書かれています。
ならば、1984年よりさらに未来の世界には、
ビッグブラザーは過去のものとなっているのかもしれません。
スミスやジュリアは、激しい拷問によって人格を破壊され、人間の尊厳を失いますが、
この体制は、ニュースピークの諸原理が書かれる頃には、崩壊しているのです。

オーウェルは、アメリカにおける『一九八四年』出版に際し、
この附録部分の削除を提案されたといいますが、
オーウェルは、その提案を拒否したといいます。
附録『ニュースピークの諸原理』は、作者にとって、必要不可欠なものだったのでしょう。

いずれにしても、前回のザ・ロード同様、こちらも、とても印象深い作品でした。
これからも、ハヤカワepi文庫を、読んでみたいと思います。



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ハヤカワepi文庫

ここ二ヶ月ほど、コロナ渦でお出かけもままなりませんでしたが、
ようやく、我が岐阜県の緊急事態宣言は、今月15日をもって解除となりました。
ここのところ、県下での新たな感染者の確認はされておらず、
それゆえに、解除という判断になったらしいですが、
まだまだ、油断はできないのかなと、思っています。
そうはいっても、やはり解除というと、気持ち的には、なんだか楽になりますよね。
これからは、人混みなどは避けつつも、少しは、出かけたりできるようになるかなあ、
などと、思っています。
まあ、そんなわけですので、今回も、お出かけやドライブに関するネタはなく、
前回に引き続き、本ネタをやってみたいと思います。
(コロナが続くと、もともとお出かけ記事がメインだった当ブログが、
プラモと読書のブログになってしまいそうで、それもちょっと心配しています)

今回は、ハヤカワepi文庫から、ディストピア系小説を二冊、取り上げたいと思います。
一冊目は、コーマック・マッカーシーという作家の『ザ・ロード』という作品で、
もうひとつは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』です。
一九八四年は、非常に有名な小説ですが、私は、この歳になるまで読んだことがなく、
(ですから、なにをいまさらって感じなのですが……)
この二〇二〇年になって、はじめて完読しました。

epi文庫の黒い背表紙

ハヤカワ文庫というと、海外翻訳物のSF小説、冒険小説、ミステリー小説ばかりが、
思い浮かぶのですが、このepi文庫というのは、海外の文学作品を、
専門に扱うレーベルだそうです。
epi文庫は2001年より始まったそうですが、じつは、私、いままで知りませんでした。
(ちなみにSF好きの私としては、ハヤカワ文庫には、若い頃、ほんとうにお世話になりました)

ザ・ロード

まず、『ザ・ロード』についてですが、
こちらは、荒廃した世界をさまよう父と子の物語です。
この小説、文体がちょっと特殊で、ごく一部を除き、句読点がありません。
なのに、翻訳小説の常で、センテンスはとても長く、もう、最初は読みにくくて……。
読んではつっかえ、読んではつっかえ、また読み直して、なんてことを繰り返していました。
この作品は、翻訳小説なので、原文の特徴を句読点を省く形で表現しているのだと思いますが、
ならば原文ではいったいどういう状態になっているんだろうと、そのあたりに、
ちょっと興味をひかれました。
(といっても、いずれにしろ、私には、原文、読めませんけど)

とはいえ、しだいに、この句読点がないセンテンスの長い文体に慣れてくると、
さほど、読みにくさを感じなくなってきます。

また会話には、鉤括弧がありません。
描写と会話は完全に切り離れていて、会話のなかに描写が入ることもありません。
一定のリズムを持って、描写と会話が繰り返され、物語が進行していきます。

文面

物語は、先にも述べましたが、文明が崩壊し荒廃した世界を旅する親子のお話です。
しかし、いったいなにが起きて、世界がこのような有様になったのかは書かれていません。
隕石の衝突といった未曾有の自然災害なのか、核戦争のような人災なのか、
そのあたりについての描写は省かれています。
ただ、もはや青空は臨めず、空は常に灰色で、陽光も弱々しい灰色であること、
なんらかの高熱が発生したらしいこと、
大量の灰が降り注いでおり、世界が寒冷化に向かっているらしいこと、
人口が激減し、国家も社会も消滅していること、などがわかるだけです。
主人公である父にも、その子供も、名前は明かされず、
ただ『彼』『少年』と表現されるだけです。

ふたりは、まだいくらかは温暖であろう南を目指してひたすら旅をします。
そして、死んだ街や、黒く焼けた森、灰に覆われた大地をつぶさに見ていきます。
その描写は極めて丹念でありながら、どこか乾いた感があって、
幻想的な美しさや、妙な憧れすら感じます。
自分も灰色の世界を旅しているような気持ちになります。

○ ハヤカワepi文庫『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー著 ~

静寂が支配するこの世界ですが、じつはたいへんな脅威が潜んでいます。
それは、彼ら親子と同様『生き残った人間たち』です。
生き残った人たちのあいだには、協調も協力も相互扶助もありません。
すでに食糧生産が断たれたこの世界では、わずかな食料の奪い合いはもちろん、
人間同士の共食いさえ横行しているのです。

そんな世界にあって、父は息子を懸命に守ろうとします。
そのため、ときには、非道徳的で暴力的な手段に訴えなくてはならないことも多々あります。
しかし少年は、その考えには沿えません。
少年は他者の存在に怯えつつも、関わる相手の救済を父に求めます。
助けたい、食べ物を与えたい、いっしょに連れて行きたい……。
純粋な少年の願いは切ないです。
こうして親子は、強い愛情とともに軋轢を抱えつつ、旅をしていきます。

が、やがて、行先にも希望がないことがわかってきます。
苦労して行き着いた先の海もまた灰色で、暖かさはなく、
父の体力は次第に衰え、激しい咳に見舞われていきます。

すでに人の時代は終わったのであり、
親子の旅は、消えた火の余熱のようなものでしかないのかもしれません。
あらゆる文明の痕跡はすべて灰に覆われてなくなり、人もやがて死に絶える……。
この親子の愛は、そんな真夜中に向かう薄暗がりの中に灯る、
ささやかな輝きのようなものです。

物語の最後は涙を禁じ得ないものです。
ネタバレになるので、多くは申せませんが、
しかし、希望を感じさせるラストとなっています。
すぐれた小説ですので、もし、興味を感じた方がいらっしゃいましたら、
ご一読をお勧めいたします。

epi文庫背面

というわけで、次に、ジョージ・オーウェルの一九八四年について、
続けて書こうかと思っていましたが、
さすがに、ザ・ロードの紹介だけで、ちょっと長くなっちゃいましたので、
一九八四年については、また次回、詳しく書きたいと思います。

それにしても、梅雨入りの前に、どこかに出かけたいものです。


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