一乗谷到着

梅雨時に入り、新型コロナの蔓延も、少し小康状態となったような気がします。
まだまだ油断はできない状況ですが、緊急事態宣言も五月下旬に解除され、
また、この六月の半ばからは、県をまたいだ移動も、許されるようになりました。
というわけで、すでに一週間以上前のことになりますが、
先々週の日曜 (21日) 、ひさしぶりに、MINIでロングドライブに行ってみました。
今回の行く先は、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡としました。
岐阜県から滋賀県に入り、その後北上して福井県に入るというコースを辿ってみました。

もっとも、この朝倉氏遺跡は、以前にも何回か行ったことがあります。
(初めて行ったのは、いまから十年前の2010年だったかと思います)
ですが、大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智十兵衛光秀の落ち延び先として取り上げられ、
また、ブラタモリでも取り上げられるなど、いま、話題の場所となっている印象があります。
しかも、ロングドライブの行く先としては、距離的にちょうどいいという感覚もあり、
今回の目的地に選んでみました。
しかも、日曜日(6月21日)はお天気も上々。
梅雨に入ったというのに、意外と、ここのところ、好天が多いようにも思います。

辿ったコースは、まず、国道21号線を西に向かって走り、関ヶ原を通過したところで、
国道365号線にスイッチし、滋賀県へと入ります。
このあたりは、関ヶ原を筆頭に、姉川合戦場、浅井長政の小谷城、と、
古戦場跡を相次いでかすめるかたちになります。
そのまま、滋賀県長浜市木之本に入り、今度は、北の余呉湖方面を目指します。
この余呉湖は、柴田勝家と羽柴秀吉が激突した賤ヶ岳の戦いが行われたあたりです。

このまま国道365号線を北上します。
途中、かなりの山道になりますが、もともと、そうした道にはある程度慣れていますので、
難なく通過します。
その後、北陸の大動脈である国道8号線に乗り換え、今度は福井市を目指します。
さすがに、国道8号線に入ると、
車も、信号も多くなり、それほど軽快に走ることはできません。
(ヨメは、この8号線で、ちょっと飽きていました)

一乗谷のMINI

福井市でちょっと道に迷ってしまいしたが、
以後、国道158号線に乗り換え、スムーズに一乗谷へ。
この日は父の日でしたので、ヨメのご実家に
少しお邪魔をさせていただいたりしていましたので、
出発がやや遅くなったのですが、それでも、午後2時半ごろには、
無事、現地一乗谷に到着しました。

県をまたいだ移動が許されたせいで、一乗谷は大にぎわいです。
ですが、少し離れた駐車場であれば、なんとか駐車できました。
MINIでの久しぶりのドライブは、やっぱり、楽しいものです。

晴天の一乗谷

ここ一乗谷は、戦国大名である朝倉氏の拠点だった場所です。
朝倉氏は応仁の乱で勢力を拡張し、守護斯波氏に取って代わって、越前国守護になります。
その後、一乗谷を整備し、領国経営の拠点としたといいます。
一乗谷は、山に囲まれた谷間にあり、東西に渡って伸びるようなかたちになっています。
西には足羽川という川が流れていて、この川を使って、物資の搬入ができたといいます。
また、足羽川の東側の一乗谷入り口を閉じてしまえば、他の地域は、
ほぼ山に囲まれていますので、防御の意味で、
非常に優れている地帯といえるかもしれません。

朝倉氏はここで五代、およそ百年に渡って栄えます。
また、織田信長から攻められた金ヶ崎の戦いでは、浅井長政の加勢(織田からの離反)もあり、
織田軍を撤退に追い込み、また、姉川合戦では、浅井に対して大量の援軍を送り込み、
信長を窮地に追い込みました。
しかし、最終的には、浅井と同様、織田に滅ぼされてしまいます。

司馬遼太郎の国盗り物語では、五代朝倉義景は、
貴族趣味の優柔不断な人物として、描かれていたかと思います。
将軍足利義昭を擁しながらも上洛に二の足を踏み、結局、
織田に先を越されてしまいます。

現在の大河ドラマ『麒麟がくる』においても、
朝倉義景は、同様のイメージで、描かれているかと思います。
ユースケ・サンタマリア演じる義景は、騒乱に巻き込まれる面倒をひたすらに避け、
蹴鞠などの遊びに興じる『平時の趣味人』という人物として描かれています。

今回、現地で歴史案内ボランティアを勤めている方は、
初代である朝倉孝景については、世襲を禁ずる先進的な法度を制定するなど、
その功績を高く評価しているようでしたが、五代義景は、
あまり評価をしていないような、そんな印象を受けました。

ここ一乗谷は、五代およそ百年にわたって栄華を極めた朝倉氏の遺構が、広く残っています。
朝倉氏の居館、家臣の武家屋敷、町人の家々の礎石の跡などを見ることができます。
しかも、一部の町並みが復元されており、見学することができるようになっています。
入場料は220円ととてもリーズナブル。
ただ、このコロナの時期なので、体温測定や住所氏名の記入などがあります。

復元町並

こちらが、復元された町並みです。
写真では、あまり人影がないように見えるかもしれませんが、
県をまたぐ移動が許された最初の週末ですので、実際には、
もっとたくさんの行楽客がいた印象です。

当時の工具

家の内部には、当時使用された工具類などの展示もありました。
この時代にはまだカンナというものはなかったようで、そのかわりに、こうした工具が、
使われたといいます。

町民の家

町民の家はどれも同じ大きさ。屋根は板を葺いて、
風に飛ばされないように石を置く、というかたちになっています。
地面をアスファルトにしなければ、もっと当時の雰囲気が出たかもしれません。

屋敷跡へ

その次に、朝倉氏の居館である朝倉館跡に行ってみました。
それにしても、青空が広がっていて、歩いていて、とても気持ちがいいです。

江戸時代に再建された門

こちらが居館に通じる門ですが、当時のものではなく、江戸時代に作られたものだそうです。
この門、私は、関ヶ原後、徳川家康が建立したものと思っていましたが、
観光ボランティアさんによると、越前松平家によって再建されたとの説明を受けました。
もっとも、秀吉が寄進したと記すサイトもあるようなので、
実際のところはどうなのか……。 ちょっと私にはわかりません。
(でも、もしそうなら、江戸時代ではなく、
天正か慶長の時代に寄進したということでしょうか)

広大な屋敷

居館の礎石跡です。建物の大きさが伺い知れます。
相当巨大なものであったかと思われます。
明智十兵衛光秀は、ここで朝倉義景に拝謁したのでしょうか……。

土塁と堀の跡

背後の丘にあがり、居館跡を見下ろしてみました。
堀と土塁の跡がはっきりと見て取れます。

素晴らしい眺め

一乗谷のあたりは、民家も少なく、自然環境が昔のままに残っている雰囲気です。
それにしても、梅雨とは思えないほどの好天!。しかも、湿度はさほど高くなく、
とても過ごしやすい一日でした。
一帯は戦国時代の遺構ではありますが、広大な公園という状態になっています。
そこかしこに遊歩道がありますし、緑も豊富で
歴史に興味がなくとも、お散歩コースとして、楽しめるかと思います。
(その美しさをご紹介したくて、画像をちょっと大きく掲載しました)

資料館へ

そのあとは、歴史資料館に行ってみました。
この日、歴史資料館は無料開放日ということで、さっそく行ってみました。

資料館開放日

こちらも、以前(2010年)に入ったことがあるのですが、その当時、私は、
歴史に関して、知識も興味もまったくなく『越前朝倉氏』と聞いても、
なんだそれ?、って感じでした、なにも知りませんでした。
ですが、以後、司馬遼太郎をはじめとする歴史小説を読むようになり、
また、大河ドラマや歴史番組を見るようになるなど、歴史マニアとはとてもいえないまでも、
当時とは、段違いに知識を得るようになりました。
ですので、同じ資料館を見学するのも、ずいぶん意味合いが違うかと思います。

展示品は、朝倉氏遺跡から出土した什器や、書状(複製品)、パネル、など多数あります。
また、朝倉氏以前の歴史についての説明もなされています。
ただ、朝倉氏が織田と戦った「金ヶ崎の戦い」「姉川の戦い」「一向一揆」などについては、
とくに詳しい展示物があるわけではありませんでした。

一乗谷ジオラマ

この展示館で、なにより圧巻なのは、一乗谷や、当時の朝倉館を再現した、
ジオラマではないかと思います。
とにかく、朝倉氏の遺構を見学したその直後に見るわけですから、
現在の一乗谷の様子と、戦後時代の同じ場所が、うまくリンクします。
つまり、一乗谷の姿というのは、当時から大きく変わっていないということでしょうか。

朝倉館模型

また、こちらは、朝倉館の模型です。
これだけの施設が一乗谷に存在したというだけでも驚きです。
いまは静かなこの山あいの地が、当時は、北陸最大の都だったわけですね。

ちなみに、この資料館では、大河ドラマで使用された衣装やパネル展示が行われていました。
こちらも無料で見学できました。

というわけで、梅雨時の晴れ間のなか、北陸一乗谷を満喫してきました。
北陸はドライブコースがたくさんありますので、また、ぜひ、出かけてみたいです。



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桔梗塚の幟

緊急事態宣言が解除され、全国的に、しだいに普段の生活に戻りつつあるようですが、
それでも、まだまだ、元通りというには程遠い状態です。
なにしろ、気温上昇の六月に入っても、自分も含め、道行く人たちはマスク姿。
この先どんどん暑くなるというのに、先が思いやられる感じですね。

それにしても、今年は、おそらく、一年中このコロナを話題にすることになりそうです。
しかも、毎週楽しみにしている大河ドラマ『麒麟がくる』も、
前回の「決戦!、桶狭間」の放送をもって、一時中断になるとのことで、
もう、とってもガッカリです。
しかも、桶狭間というチョー盛り上がりの場面で中断なんて……。
(逆に、ここで中断というのはキリがいいのか……)
今度は三週にわたって、戦国大河名場面スペシャルという番組を放送するようですが、
とにもかくにも、一刻も早い放送復活を願うばかりです。

さて、そんな大河の話題とリンクしますが、緊急事態宣言が解除された先月、
県内にある、明智光秀ゆかりのスポットのひとつに、行ってみました。
その場所は、岐阜市の北方にある『山県市』というところにあります。

先月18日に放送された、NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』という番組で、
明智光秀の墓という説もある『桔梗塚』という場所が、ドラマで帰蝶を演じる、
川口春奈さんによって詳細されていました。
というわけで、ミーハーな私たち夫婦は、近場ということもあり、さっそく、
この桔梗塚にドライブがてら行ってみることにしました。

案内看板

なにしろ、岐阜市の隣町というところなので、一時間もかからず、現場についてしまいます。
しかも、案内看板や幟も立っていて、迷うことなくすぐに見つけることができました。
が、案の定というべきなのか、現場はかなりの混雑。
交通整理の人が出ていて、駐車場もほぼ満杯。
運良く駐車できましたが、かなりの山奥にもかかわらず、
駐車場はタダというわけにはいきませんでした。
やっぱり、テレビの効果というのは、すごいんですね。
おそるべし、NHKという感じです。

産湯

こちらは、明智光秀産湯の井戸跡と言い伝えられているものです。
歴史人物の産湯の井戸って、けっこうあちこちにありますよね。
以前にいった岡崎城には、家康の産湯の井戸ってありましたし……。

白山神社

というわけで、桔梗塚を参るまえに、まずはすぐ近くの白山神社に行ってみます。
こちらには、前出の番組の中で、川口春奈さんが絵馬を書いた場面があったのですが、
その絵馬は、なんと、額に入れて飾ってありました。
(写真が撮ってなくて、すみません)
解説のボランティアさんもいたりして、あたりはかなりの賑わいです。

神社への道

神社はこの長い隘路の先にあります。
写真で見ると、長く険しそうに見えますが、実際には、たいしたことはありません。
すぐに、お宮に着いてしまいます。
(美濃金山城の登山道『うらじろの径』に比べたら、ごくごく短いものです)

いよいよ桔梗塚へ

こうして、参拝を終えてから、いよいよ、桔梗塚に行ってみます。

桔梗塚というのは、明智光秀の墓とされるものだそうです。
もっとも、明智光秀は、本能寺の変後、
有名な『中国大返し』で備中から引き上げてきた羽柴秀吉と、山崎で戦い、
そして破れ、近江坂本に敗走するさいに、
落ち武者狩りにあって討たれた(もしくは、その後自害した)はずです。

なのに、なんで、この地に墓があるのでしょうか……・

この地にある看板を見ると、明智光秀は、山崎の戦いのあとも生き延び、
名を変えて、この地でずっと生きていたというのです。
そして、慶長五年の関ヶ原の合戦のさいに、東軍に与するべく出陣したというのですが、
その途上で、事故死した……、らしいです。

関ヶ原の合戦のあった慶長五年というと、本能寺の変から18年後になるかと思います。
光秀が本能寺の変後も生き延びていたなどというのは、とても信じられません。
これは、いわゆる都市伝説みたいなものでしょうか……。

もし、光秀が、本能寺の変後も生き延びたとしたら、
その後の秀吉の台頭をどんな思いで、みたでしょうか。
謀反人の娘として不遇をかこった娘、玉のことをどう思っていたでしょうか。
盟友細川藤孝に文のひとつでも出そうとは思わなかったでしょうか。

明智光秀が本能寺の変後二十年近くも山の中で隠棲していたなどということは、
私の個人的な考えですが、ちょっとありえないのかなって思います。

塚への道

などといいつつも、しっかり桔梗塚を参拝してきました。
大河ドラマのおかげで、この墓も、たいへんな脚光をあびることになったわけですね。
もしかすると、とてもきれいに整備されたこの道も、大河ドラマの放送に合わせて、
整備されたのかもしれません。

このあと、明智光秀が生まれたとされる『庵の庭』という場所に行こうとしましたが、
かなり遠かったので、途中で断念してしまいました。

山道ドライブ

というわけで、そのあとは、ヨメのプジョー(運転ももちろんヨメです)で、
県内の山道をドライブをしてみました。
いままでまったく通ったことのない道で、なかかなに新鮮な気持ちでした。
ハンドルを握るヨメも、久しぶりの山道に、大いに盛り上がっている感じでした。

というわけで、その後、岐阜市内に帰ってきたのですが、
今の季節、まだ陽が高いので、今度は、真偽不明な都市伝説的スポットではなく、
正当(?)な岐阜の歴史スポットにちょっと立ち寄ってみることにしました。

道三塚

それがこちら。斎藤道三を祀った塚『道三塚』です。
斎藤道三は、長良川合戦において、息子である斎藤義竜に敗北します。
熾烈を極めたこの戦いのあと、討ち死にした道三を偲んだ常在寺の住職が、
建立したものだと言います。
(当時と現在とでは、塚の場所は違うそうです)

この塚は、岐阜市の住宅街の中にあります。
大河ドラマの観光案内でもこの塚を取り上げており、
私も、司馬遼太郎の『国盗り物語』を読んで以後、この塚を探していたのですが、
ようやく、発見することができました。

道三塚案内看板

案内看板には、当時の長良川の流れと、現在のながれとを比較した地図が描かれています。
この地図によると、長良川合戦の起きた現場は、現在の岐阜メモリアルセンターのあたり、
ということがわかります。

大河ドラマ効果か、私のほかにも、初老の夫婦が塚を見学にきていました。
もっくんも、ここにきたのでしょうか……。

とにかく、やっぱりお出かけはいいですね。
気持ちも晴れます。
今後、コロナがどのような影響を及ぼしていくのかわかりませんが、
マスクの着用などを心がけつつ、許される範囲で、お出かけしたいと思います。


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