
さて、昨日に引き続き、明治村のレポートです。
こちらは、明治村に移設された旧帝国ホテルの中に展示されている、
ポーツマス講和会議の時に使われたテーブルです。
もちろん、本物のテーブルです。
すなわち、このテーブルから、あの有名な「ポーツマス条約」は生まれたのです。
日本は、この条約によって、ロシアから樺太の南半分を割譲され、
満鉄の経営権や、朝鮮半島の単独支配を勝ち取りました。
こうして日本は、世界に、日露戦争の勝利者として、その名を知らしめました。
同時に、東洋初の列強国として、欧米に認められることとなりました。
それは、明治維新以来目指してきた、国家としての完成の瞬間だったはずです。
いまから104年前、この頑丈そうなテーブルを挟んで、
日本の全権である小村寿太郎と、ロシアのウイッテとが、
激しい外交戦の火花を散らせました。
奉天会戦でかたちばかりの勝利を収めた日本軍は、その後、
対馬沖の日本海で、バルチック艦隊を完膚なきまでに叩き、
ロシアの制海権を消滅させました。
しかし、大国ロシアにはまだまだ継戦能力が残されており、
一方の日本は、すでに作戦の限界にきていました。
そうした状況下での講和会議は、一筋縄では行かなかったはずです。
当時の日本の世論は、戦時賠償金が獲得できなかったということで、
この条約に満足はしませでしたが、日本の国力を考えれば、
確かな外交成果をあげたといって過言ではないと、私自身は感じています。

そんな近代国家日本の誕生の場面にかかせない、貴重な歴史的遺物が、
このようにひっそりと展示されていることに、
私は、なにかしら寂寥感を憶えてしまいます。
折しも、いま、NHKでは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の放送が始まりました。
多くの人が、このドラマの放映を機に、明治の日本人の健気さに触れ、
国を賭した日露の戦いにも、目を向けることになるかもしれません。
そうなれば、この展示物も、いまより、ずっとずっと脚光を浴びるかもしれません。
このテーブルには、当時、日本を国家として形作ろうとした人々の、
営々たる血潮が宿っているように、私には思えてしまいます。

さて、同じ坂の上の雲ネタですが、こちらは、日露戦役時の陸軍大臣西郷従道の邸宅です。
西郷従道は、いうまでもなく、あの西郷隆盛の弟です。
よけいなことに口出しをせず、ただ黙って事の成り行きを見守り、
有能な部下にすべてをまかせ、責任は自分が取る、
そんな「うどさぁ」としての西郷従道の様子が、坂の上の雲には描かれていました。
また、日露戦役当時、
満州軍総司令官を勤めた大山巌は、西郷隆盛、西郷従道兄弟の従兄弟でした。
大山巌も、西郷の血を引いた、立派な「うどさぁ」だったといいます。
(遼陽会戦の激戦のときも、まったく動じない大山の姿は、微笑ましくユーモラスでした)
が、この西郷従道邸を訪れた頃には、すでに夕方。
案内の人の説明もすでに終わっていて、とても残念でした。
なにしろ、明治村に西郷従道の邸宅があるなんて、まったく知りませんでしたから。

そしてこちらは三重県庁。
館内では、宮廷家具の展示などもされていました。
県庁内の木造階段は、
その昔、飛騨高山にあった、日赤病院のそれを思い起こさせました。
ああ、なつかしい。
が、このあたりでタイムアウト。
もう、閉園時間となってしまいました。
閉園時間は意外と早く、四時半だったと思います。
とはいえ、今の時期、この時刻だと、しだいに薄暗くなり始めます。
まだまだ、見ていない箇所がたくさんあり、やはり、
早い時間にこないと、明治村をくまなく回るのは、とても無理のようです。
(すべてお寝坊が悪いんです)
というわけで、早足に明治村を横断して、駐車場に向かいましたが、
さすがに園内は広く、移動にも時間がかかります。
その間にも、あっちも見たかった、こっちも見たかったと、
悔やまれるばかり…。
次回こそは、もっと早起きをして、この明治村に、やってきたいものです。
コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking
- 関連記事
-
- 金沢ハードウォーキング(1)
- 博物館「明治村」巡り-その2
- 博物館「明治村」巡り-その1