大坂城

というわけで、前回にひきつづき、
大阪出張のさいの出来事などを、今回も綴ってみたいと思います。

大阪で一泊し、朝のうちに打ち合わせを終え、
そのあとは、いよいよ大阪観光に出向きました。
まず最初に向かった先は、あの『大阪城』です。
というのも、打ち合わせ先から、大阪城は目と鼻の先で、
徒歩でもすぐに行けるからです。

私は、歴史についてあまり知識はないのですが、
大阪城といえば、信長と長く対立関係にあった石山本願寺があった場所であり、
また、大坂冬の陣、夏の陣にさいしては、秀吉の嫡男であった豊臣秀頼と、
豊臣方に与した浪人衆が最後まで抗戦した城、と記憶しています。

戦国期最後の戦である大坂夏の陣は、
結局、大軍で攻めた徳川方の勝利に終わり、
秀頼と、彼の母であり父秀吉の側室であった淀は、
ともに自刃するという悲劇を生みました。

さらにこの大坂城は、幕末期に、
長州征討の指揮にあたっていた徳川家茂が亡くなった場所でもあり、
大政奉還後においては、最後の将軍徳川慶喜が入城したものの、
鳥羽伏見の戦いでの幕府軍敗退を知って敵前逃亡するという
そんな歴史の一場面の舞台となった城でもあったかと思います。

いずれにしても、大阪城は、日本史の重大な局面で登場する、
数々のドラマを秘めた城ではないかと思います。
私にとっては、貴重な現存天守よりも、
このような、天守こそすでに失われていても、
歴史を刻んだ現場といった場所に、とても惹かれます。

大坂城に入城

そんなわけで、期待に胸を膨らませつつ、大阪城へ。
堀を越えて、城内へと入ります。

門を巡る

こちらは、大手門を抜けたすぐのところにある門です。
パンフレットによると、大手口枡形と記されています。
さすがに重厚な作りで、圧倒されます。
歴史的にも価値の高い建造物ですが、当然のことながら、
豊臣時代のものではなく、このあたりは、ちょっと残念かもしれません。
ですが、今後、豊臣時代の大坂城石垣が見られるとのことで、
その公開が楽しみでもあります。

大坂城天守

こちらは天守閣です。
とても立派で美しいのですが、
昭和に入ってから再建されたもので、かなり新しいモノです。
大坂夏の陣のあと、豊臣時代の大坂城天守は焼失し、その後、
徳川の時代になってから、豊臣時代の石垣のうえにさらにかさ上げをし、
新たな天守を築いたそうですが、その城は、落雷によって焼失し、
以後、天守のない時代が長く続いたそうです。

天守には近代的なエレベーターが取り付けられていたりして、
そのミスマッチな姿に、けっこう興ざめします。
なにしろこの城は、昭和に再建された城ですし、
結局、内部には入りませんでした。
(ですが、この昭和天守が、各時代の天守より最も長命らしいです)

その後、観光ボランティアさんなどに道を聞き、
淀と秀頼自刃の地へと行ってみました。

淀と秀頼 自刃の地

自刃の地には石碑があり、また看板も建てられています。
ですが、周辺には多くの観光客がいるにもかかわらず、
この場所はほぼスルーされています。
当初からこの場に来たかった私としては、かなり意外な気がしました。

関ヶ原の戦い以降、天下人の座は実質的に徳川家康、徳川秀忠となり、
豊臣方は、秀吉時代のかつての威光を失っていきました。
徳川の専横はしだいに強く、そして大きくなり、
ついには、秀頼ら豊臣方が再建した『方広寺』の梵鐘に、
徳川を呪う不吉な文字を刻んだと、豊臣にクレームをつけるまでになります。
この『鐘銘事件』をきっかけに、
徳川は、豊臣方に戦までをも仕掛けていくのです。
これがいわゆる大坂冬の陣であり、その後の夏の陣に繋がっていきます。

このときすでに、かつての豊臣恩顧の大名はすべて徳川に与しており、
豊臣を救おうとする大名は誰もいませんでした。
豊臣方は、仕官先を失った浪人集をたよりに戦うほかはなく、
やがて城の外堀は埋められ、真田信繁の決死の活躍も、結局は実を結ばず、
千姫の助命嘆願も受け入れられず、
秀頼と淀は自ら命を断つ他なくなったのです。

その無念の思いはいかばかりだったのか…と、そう思わずにはいられません。
本来であれば、秀頼こそが天下人だったはずなのです。
そんな秀頼に思いを馳せつつ、石碑の前ではしっかりと手を合わせてきました。
同時に、秀頼と淀の悲劇だけではなく、さまざまな時代で、
この城を巡って流された、あまたの血涙の存在を知っておくことも、
また意味のあることなのではないかと思いました。

こうして、大坂城巡りを終え、次は、真田信繁 (真田幸村) が、
大阪冬の陣のさいに、徳川軍を要撃するために築いた、
真田丸のあとを捜しに出掛けてみました。
なにしろ来年の大河ドラマは「真田丸」であり、
この先、真田信繁ゆかりの場所は大混雑になると思います。
(なんていうと、ちょっとおおげさでしょうか…)
というわけで、ドラマが始まる前に行ってみようと思いました。

真田丸というのは大坂城の南にあったといわれていて、
(当時の大坂城はもっと敷地が大きく、
 真田丸の設けられたあたりも大坂城だったそうですが)
いまの三光神社の近辺といわれているそうです。

ただ、観光ガイドさんによると、
真田丸の正確な位置はいまでもわからないそうで、
おそらくは三光神社がそうなんじゃないか、とのことでした。

三光神社鳥居

観光ガイドさんに聞いた道を歩き、
途中、玉造稲荷神社に寄ったりしつつ、ついに三光神社に到着。
といっても、あたりは普通の街の風景で、
かつての真田丸を想像されるようなものは、なんにもありません。

真田信繁(真田幸村)像

たくましい真田信繁の像が立っています。
まさに、日ノ本一のもののふにふさわしい、堂々とした出で立ちです。
来年の大河では、堺雅人が真田信繁を演じるそうですが、
この像の信繁はかなりがっちりした体格で、
細身の堺雅人とは、かなりイメージが違いますね。

抜け穴

こちらは、抜け穴の跡だそうです。
穴は六文銭をあしらった門で閉じられていて、
内部に入ることはできませんでした。

その後もしっかりと三光神社を堪能してきました。

ピースおおさか

その次に寄ってみたところはこちら。
ピースおおさかという、大阪大空襲をテーマにした資料館です。

内部の撮影には申請書の提出が必要ということで、
なにかと面倒なので撮影はしてきませんでしたが、施設はとても立派で、
日清日露戦争から太平洋戦争に至る過程や、戦時下の大阪の庶民の暮らし、
大阪大空襲の遺構やジオラマ展示など、わかりやすく、
しかもかなり徹底的に、大阪大空襲について紹介しています。

真田信繁の活躍や、淀や秀頼の自刃といった時代から、
昭和へと一気に時を隔てたわけですが、
慶長の時代の戦よりも、昭和の戦は、当然のことですが、
規模も死傷者数も桁違いで、
人間の破壊衝動はとどまるところをしらないというか、
さまざまな意味で、唖然とする思いでした。

それにしても、私は、大阪大空襲について、まったく何も知りませんでした。
今回、このピースおおさかを見学して、大阪大空襲の規模や回数、
また、大阪に模擬原爆が投下されたことなどを知りました。

その後はふたたび大坂城まで歩いて戻り、
天満寺駅のコインロッカーで手荷物を回収し、天王寺のあべのハルカスへ。
あべのハルカスをぶらぶらしたあと、通天閣に行ってみました。

通天閣

テレビなどで、大阪というと、たいていこのあたりが紹介されると思います。
ここにくると、ああ、大阪に来たんだなあ、なんて、
あらためて思ってしまいました。

というわけで、大阪をきままに楽しんできました。
できれば、またゆっくりと行ってみたいです。



コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
FC2 Blog Ranking

関連記事
  
コメント
コメントする












 管理者にだけ表示を許可する?

トラックバック
トラックバックURL
→http://nobayashi.blog66.fc2.com/tb.php/506-b967de70
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)