
慶長五年九月十五日、徳川家康を将とする東軍と、
石田三成を事実上の将とする西軍とが、豊臣秀吉亡き後の天下の覇権を争った、
いわゆる『関ヶ原の戦い』が勃発しました。
先週の土日、日の本を二つに分けた、
この大いくさの部隊となった岐阜県関ヶ原町で、
合戦をテーマにした『関ヶ原合戦祭り2016』が開催されました。
関ヶ原町は、私がいま拠点にしている岐阜市から、クルマで40分ほどの距離で、
しかもここ数年来、こうした歴史の現場を訪ねることに、
熱を上げていることもあり、二日間にわたって、
この祭を見に行くことにしました。
なにしろ、ほんの少し前、司馬遼太郎の『関ヶ原』全三巻を読み終えたばかりで、
いやがうえにも、関ヶ原に強く惹かれてもいました。
(この『関ヶ原』のブックレビューと、関ヶ原の戦いに至る簡単ないきさつなども、
近々、アップしたいと思います)
さらに、土日はこれ以上はないほどの好天に恵まれ、
まさに絶好の祭日和となりました。
というわけで、土曜日の朝、ヨメにクルマで関ヶ原町の駅まで送ってもらい、
そこから、各所を回ってみることにしました。
今回は、祭ということで、さまざまな場所で、
お店が出たり、イベントがあったりするようですが、
私にとっての第一の目的は、西軍、東軍の各武将の布陣跡を訪ねることにありました。
関ヶ原町の駅前には、関ヶ原駅前観光交流館という施設があり、
まずはここで、観光マップを手に入れ、モデルコースをもとに、
できるだけ効率よく、各陣を回ってみようと思いました。

まず、駅のすぐそばにあるのは、井伊直政、松平忠吉の陣跡です。
あたりはたいへんにぎやかですが、この陣跡を訪れる人はまばらで、
なんだかちょっと拍子抜けししまいました。
また、この陣のとなりには『東首塚』という士卒の首を葬った場所があり、
こちらはもう、ほとんど人影はありません。
ですが、今回は、戦の場所を巡る旅ゆえ、
死力を尽くして戦った東西両軍のもののふに、まずは、
哀悼の意をこめて、手を合わせました。

その次に行ってみたのは、細川忠興の陣跡です。
こちらも祭の喧噪がうそのように、静かでひっそりとしていました。
細川忠興の妻は、玉といい、
本能寺で織田信長を討った謀反人、明智光秀の娘です。
ゆえに玉は、幽閉の憂き目に遭うなど、数奇な運命に翻弄されますが、
そうした苦難からの救いを求めてか、
デウスに帰依し、ガラシャという洗礼名を授かりました。
関ヶ原の戦いの前、西軍の事実上の将となった石田三成は、
各武将を自らの陣営に引き込むため、
ガラシャら名だたる武将の妻を人質に取ろうとします。
しかしガラシャは、人質になる前に、家臣に自らの胸を突かせ、死を選んだといいます。
細川忠興は、本能寺の変のあと、ガラシャには、
どこか屈折した愛情をもっていたように思われますが、
いずにれにしろ、この事件は、忠興の胸にある、
三成憎しの思いを倍加させたことでしょう。

次に足を運んだのは、黒田長政、竹中重門、両武将の陣跡です。
こちらは小高い山のうえにあり、関ヶ原の地を一望に見渡せます。
しかもこのとき、JRのさわやかウォーキングの人たちが大挙して詰めかけており、
さほど広くはない陣跡は、たいへんなにぎわいでした。
黒田長政は、秀吉を天下人へと導いた黒田官兵衛の嫡男であり、
竹中重門は、秀吉に三顧の礼で家臣に迎えられた、竹中半兵衛の子です。
黒田長政は早くから徳川方につき、西軍の諸将の調略に尽力しました。
また、竹中重門は、当初は西軍についており、犬山城に入っていましたが、
東軍の切り崩し工作に応じて東軍側に寝返り、関ヶ原合戦の折りには、
この場所に陣を張りました。
竹中重門は、関ヶ原周辺には土地勘があり、黒田隊を含めた東軍諸隊の、
道案内的な役目もつとめています。

次に目指したのは『激戦地』と呼ばれる場所です。
東軍諸将は、どうせ敵の首をとるなら、
西軍の事実上の将である三成の首を、と意気込み、
三成の陣地である笹尾山を目指して、殺到したといいます。
この地での戦闘が苛烈を極めたのは、おそらく、
西軍が総崩れとなったあとではないかと思います。
いわばここは、関ヶ原の戦いの終盤の舞台、といえるかもしれなのですが、
効率的に名所を回ろうと思うと、どうしても、
早い時点で、この場所に立ち寄ることになってしまいます。

そして、歩くこと数分、
笹尾山の石田三成本陣まえの、島左近陣地へと入ります。
島左近の陣地は、今回、とくに訪れてみたかった場所のひとつですが、
左近は、さすがに三成の懐刀の武将ということで、
その陣は、三成の本陣のすぐ眼の前でした。
島左近は、主君である三成とほぼ同等の大禄を食む、
この時代きっての武将です。
関ヶ原合戦の前、
五大老の筆頭である徳川家康に媚をうってへつらう者があとをたたないなか、
三成はわずか十九万石ながら家康に敢然と立ち向かい、
島左近も、自分より年若の主君三成を最後まで忠実に支えます。
そして、戦にあっては、だれよりも勇敢で、
この島隊に攻めかかった東軍の黒田長政隊は、何度も押し返されてしまいました。
黒田家の家臣は、島左近の「かかれえぇ〜!」という怒声が、
戦後何年経っても耳についてはなれず、
夜にうなされて飛び起きるほどだったといいます。
『三成に、すぎたるものが二つある。島の左近と、佐和山の城』と、
謳われたほど、島左近の名は、
当時、他家にも広く知られる存在でした。

そしてこちらが、笹尾山の三成の本陣です。
ここからは、戦場となった関ヶ原一帯が一望のもとに見渡せます。
明治時代に、大日本帝国陸軍は、軍の近代化をするにあたって、
ドイツから、メッケルという将校を招きますが、
そのメッケルが、関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣を見たさい、
西軍の勝利を断言したといいます。
実際には、西軍は破れるわけですが、それほどまでに、西軍の布陣と、
この笹尾山陣地は、理想的なものだったのかもしれません。
この場に立って、416年前、眼下に見えたであろう、
東西両軍の軍勢の姿を…、こだましたであろう鬨の声を、ふと夢想し、
当時の三成の心持ちを心に思い描いたりしてみたりしました。
その後は、お昼ご飯を食べるために、イベント会場となっている、
関ヶ原ふれあいセンターへと戻ることにしました。

このふれあいセンターの近くにある、陣場野公園というところが、
徳川家康の陣地であった場所です。
もともと家康は、この陣場野からずっと東にある、
桃配山 - ももくばりやま - というところに、陣を張っていました。
ですが、桃配山は戦場から離れすぎていること、また、
合戦当初は西軍が優勢で、家康の率いる東軍は劣勢となっており、
その状況を打開する意味で、家康は陣を前進させ、ここ陣場野に移したといいます。
この日はお祭りということで、広場では生け花バトル、のような催しが開かれていました。

ふれあい公園のステージでは、アイドル三人組のショーが行われていました。
巴組というそうです。
向かって右端の女の子が織田秀信 (三法師) 、
左側の子が小早川秀秋、中央が宇喜多秀家だそうです。
なんちゅう組み合わせか…、と思ったのですが、
織田秀信は岐阜中納言、小早川は金吾中納言、宇喜多秀家は宇喜多中納言、ということで、
中納言つながりなのだそうです。
ここで、露店のカレー『勝鬨カレー』を食べて、そのあとは、
怒濤の各陣巡りに突入です。
(勝鬨カレーは300円税込み。とってもリーズナブルでした)

まずは、西首塚に立ち寄り、こちらでもひとしきり手を合わせ、
次いで、東軍の藤堂高虎、京極高知の陣地跡に立ち寄ります。
なんとここは、中学校の敷地内でした。

そしてこちらは、福島正則の陣跡です。
福島正則は、関ヶ原の戦いのキーパーソンのひとりといっていいでしょう。
賤ヶ岳の七本槍のひとりで、豊臣恩顧の武将の代表格のような人物ですが、
石田三成を極端に嫌っており、ゆえに徳川家康に与しました。
結果的に政則は、家康にさんざん利用され、最後は空しい結果となりました。

こちらは脇坂安治の陣跡です。
西軍についていた武将ですが、もとより家康に内通しており、
合戦のさなか、西軍第二の戦力を誇った小早川秀秋の軍勢が東軍に寝返ると同時に、
見方を裏切りました。

こちらは平塚為広の碑です、
為広は、大谷吉継とともに、敵に寝返った諸隊と戦いました。

そしてこちらは、関ヶ原合戦において西軍の雄ともいうべき、
大谷吉継の陣跡です。
吉継は、三成と同じように、秀吉に小性として使え、賤ヶ岳の戦いで頭角を現し、
文禄慶長の役では、三成とともに兵站を担当するなど、
武勇、知略に優れた人物だったといいます。
関ヶ原合戦のさいには、当初、家康側につくかのようでしたが、
かねてからの友人である三成の説得を受け、西軍につくこととなりました。
大谷吉継は、西軍第二の戦力を有する小早川秀秋が、
家康側に寝返る可能性を察知し、陣の位置を変更。
もし万が一、小早川秀秋が裏切ったとしても、それに対応できるよう、
手をうちました。
そして、案の定、徳川家康の誘いにより、小早川秀秋は、いきなり、
味方である大谷隊を攻撃し始めたのです。
が、少ない兵力で大谷吉継は見事に秀秋を撃退し、松尾山に追い返してしまいます。
ところが、秀秋の裏切りに触発された他隊が雪崩を打って寝返り、
ついに、大谷隊も防ぎきれなくなり、ひいては、それまで優勢に戦いをすすめていた、
西軍そのものが総崩れとなってしまうのです。
敗北を悟った大谷吉継は、この山中で自刃します。
関ヶ原で自ら腹を切ったのは、この大谷吉継だけではなかったかと思います。
皮膚の病を患い、このときすでに失明に近い状態だった彼は、
そもそも、死に場所を捜していたのかもしれません。

陣跡の奥には、大谷吉継の墓と、
彼の首を命がけで守った五助という士卒の墓があります。
慶長の世から平成にまで、彼の武名は響き渡っています。

こちらは宇喜多秀家の陣です。
宇喜多隊の士気は旺盛で、東軍先方の福島正則の軍勢を叩きにたたき、
壊滅寸前まで追い込みました。
もしかすると、五大老のなかで、もっとも反徳川だったのかもしれません。
西軍の戦力は、数のうえでは徳川の東軍を上回っていますが、
実際に戦っていたのは、その2割から3割だったといいます。
それでも、地理的な条件もあるのか、最初は優勢な戦いをしていたのですから、
ある意味、たいしたものです。

こちらは小西行長の陣地です。
このあたりまで、ずっと徒歩行軍してきましたが、いよいよ疲れてきました。
足は豆だらけ。
右足の薬指の爪が青黒く変色してしまいました。
歩くと、もう、いたくて、いたくて。

こちらは戦いがはじまった場所です。
戦いの時間的経緯を優先すれば、ここから各陣を回りたい気持ちですが、
広い戦場を効率よく回るためには、なかなかそうもいきません。

こちらは、薩摩の島津維新入道義弘の陣跡です。
文禄慶長の役では、劇的な戦果をあげた島津勢ですが、
関ヶ原においては、消極的なかたちで西軍につくこととなり、
合戦の最中も、さしたる戦いはしないまま、いわば傍観状態でした。
かといって、敵に寝返ることもなかったわけですが…。
そうこうするうちに、西軍は瓦解。
島津のまわりは敵だらけになってしまい、このときになって、
初めて島津は、撤退のための戦いをはじめます。
撤退といえば、ふつうは後に退くのですが、島津は前に出て、
激闘しつつ、道を切り開いて逃げるのです。
それがまた、ものすごく強いわけで、多くの士卒を失いはしたものの、
結局、的中突破して、薩摩まで帰ってしまいます。
その後は、ふたたび笹尾山の石田三成の陣に戻り、
そこから、ふれあいセンターを経由して、駅に戻ってきました。
が、ここで、徳川の家臣である本多忠勝の陣へ行くこと忘れていることに気づき、
急遽、足をひきづるようにして、訪ねることにしました。
(こうなると、もう意地です)

というわけで、夕日のなか、やっと到着。
本多忠勝の陣跡は、民家の庭みたいなところにありました。
これにて、関ヶ原合戦祭り第一の徒歩行軍は、終えることにしました。
パンフレットによると、各陣を効率よく回れば、総距離は13キロだそうですが、
途中、ご飯を食べにいったり、道に迷ったり、と、ホントにいろいろなことがあったので、
おそらくは、17〜18キロは歩いていると思います。
もう、ホントにたいへんでした。
が、それでも、関ヶ原の南西にある小早川秀秋の陣地『松尾山』には、
時間的な問題から、行くことができませんでした。
また、東軍の武将、田中吉政の陣地に立ち寄ることを、失念していました。
これらは、翌日に回ることにしました。
ふだん運動不足の私には、とてもこたえる陣地巡りでしたが、
司馬遼太郎の関ヶ原で読んだその場所を、目の当たりにできるのは、
まさに感動的でした。
というわけで、次回に続きます。ご期待ください。
コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
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