島左近隊の勇姿

前回、ジャズコンサートの話題を挟んでしまいましたが、
かねて予告していた通り、今回は、関ヶ原合戦祭り2016の、
第二日目の模様を、引き続き、ご紹介したいと思います。
この日 (16日) も、前日に引き続き、朝からさわやかな快晴となりました。
というわけで、前日と同じように、ふたたび、
ヨメに関ヶ原までクルマで送ってもらいました。

16日は日曜ということで、祭りの会場周辺は、
前日よりもさらに賑わっており、駐車場はどこも満杯。
道もすでにところどころ渋滞もしており、ヨメに送ってもらって正解でした。
ただ今回は、関ヶ原町の駅ではなく、直接、
石田三成が本陣を置いた、笹尾山近くまで行ってもらいました。
(歴史に興味のないヨメは、そのまま家に帰りました)

○ ちなみに、関ヶ原合戦祭り 2016(その1)はコチラです

時刻はすでに午前10時半。
このときすでに、笹尾山の祭り会場では、
今年の大河ドラマ『真田丸』で、石田三成を演じた、
山本耕史さんのトークショーがはじまっており、
そのためか、笹尾山周辺一帯は、もうたいへんな人だかりとなっていました。
ですがなんとか、トークショーの後半だけですが、見聞きすることができました。

山本耕史さん

そういえば、以前、NHKで放映された『鶴瓶の家族に乾杯』のロケでも、
山本耕史さんは、ここ笹尾山を訪れていました。
そのときは、観光にきていた一般の方が、堀北真希さんのファンということで、
堀北さんと結婚した山本さんに対して
「三成になって、やられちまえ、って思いました!」などと、いっていましたね。
そんなことを、トークショーを見ながら、ふと思い出してしまいました。
(もしかすると、このエピソードは、トークのなかでも語られたのかもしれません)

そのあとは、同じ会場で、火縄銃の空砲実演が行われるということで、
ひきつづき、カメラを構えて待機。
やがて、赤備えに六文銭の旗を掲げた具足姿の武者らと、
大一大万大吉の旗を掲げた一群の武者が、笹尾山手前の台上に現れました。
六文銭を掲げる武者らは、信州真田鉄砲隊の皆さんということで、
この日、上田から関ヶ原に駆けつけてくれたそうです。

火縄銃は、最初に銃口から火薬を入れ、棒を使って奥に押し込み、
玉を込め、火縄に火をつけ、と、発砲までにかなり時間がかかります。
この作業は立ったまま行うのが一番効率がよく、伏せた姿勢では不可能だそうです。
そのため、玉込め時には、敵に狙われやすくもあったといいます。

真田鉄砲隊

そして、かけ声とともに、射撃に移ります。
一斉射撃、連続射撃、と、立て続けに行い、また、
長篠の戦いで信長軍が行った、射手を交代をしつつの連続射撃も行われました。
発砲の音は凄まじく、戦場では、この音による威嚇効果もあったものと思われます。

火縄銃の射撃実演が終わると、ひきつづき、各武将隊の布陣パフォーマンスへと移ります。
手前の台上には、西軍の各諸将が、背後の広場には、東軍の各諸将が陣取ります。
そのあとは、床几タイムといい、各陣のあいだを自由に行き来できるようになります。

というわけで、さっそく、島左近隊、大谷吉継隊に行ってみようと思ったのですが、
意外というべきなのか、やはりというべきなのか、
敗北した側の西軍陣営のほうが人気が高いようで、なかなか近づけません。

黒田長政軍勢

というわけで、先に背後の東軍陣営に…。
まずは黒田長政隊を訪ねてみました。

逆行状態なので、ちょっと見づらいかもしれませんが、
配下の兵に扮している人のなかに、意外に多くの女の子がいるんですね。
いわゆる歴女の人なのでしょうか…。

黒田長政は、関ヶ原の戦いの前に起こった、石田三成襲撃事件にも参加していますが、
長政は、同じく徒党を組んだ仲間である、加藤清正、福島正則などとは違い、
かなりの智恵者という印象があります。
実際、黒田長政の調略がなかったら、
徳川方になびく諸将の数は、もっとずっと少なかったかもしれません。
このあたりは、さすがに、
父親である如水の血を引いているのかな、と思わせます。
それにしても、甲州殿の兜は、異様に大きいですね。

徳川家康布陣

こちらは、東軍の将である徳川家康の陣です。
赤備えの軍勢は井伊の隊でしょうか…。
よく見ると、外国の方も参加されているようでした。

…と、ほどなくすると、西軍の陣が少し空いてきたので、きびすをかえして、
反対側の台上へと向かってみました。

島左近軍勢

というわけで、まずはお目当ての島左近隊布陣の場所へ。
こちらも、他の隊と同じように、女の子が意外に多いです。
やっぱり、島隊はかっこいいですね。
島左近役の方も、まさに堂に入っている感じです。

宇喜多秀家隊

次は宇喜多隊です。
戦意旺盛で、東軍の先鋒である福島正則隊を痛撃した宇喜多隊ですが、
その獅子奮迅の活躍ぶりも、小早川秀秋の裏切りにより、
結局は無になってしまいます。
戦後、宇喜多秀家は八丈島に島流しになったといいますが、
なんと、彼の地で、八十過ぎまで生きたとか…。
家康も長生きでしたが、宇喜多秀家のほうが、もっと長生きだったんですね。

大谷吉継布陣

こちらは、大谷吉継の軍勢です。
この白頭巾が、なんかイカしていますね。
人気もすごく高かったです。
見物客のなかにいた初老の男性が「大谷はよくがんばった!」と、
叫ぶように声をかけると、隊の人たちからも、また取り囲む見物客からも、
ドッと笑いが起き、それでいて次の瞬間、そうだ!、といわんばかりに、
みなうなずく、みたいな感じになりました。

石田三成隊

そしてこちらは、西軍の事実上の将、石田治部少輔三成の陣です。
こちらは、島左近隊のさらに台上に位置していて、
しかも、馬防柵の向こう側ということで、あたりはせまく、
撮影はしづらく、しかも人気が高いために人は多く、というわけで、
カメラを向けるのにも、ちょっと苦労しました。

三成は、西軍が総崩れになったあと、単身、戦場を脱出し、落ち延びますが、
結局、田中吉政の手による捜索隊に発見され、
最終的には、家康の名により、京の六条河原で斬首されます。

無念の死を遂げた三成ですが、
豊臣政権を簒奪しようとする家康の横暴を臆することなくあばきたて、
内々に敵に寝返っている者もいたとはいえ、七万以上の兵を集め、
日本の中央で大決戦を挑むことができたのです。

佐和山十九万石の大名が、
関東二百五十五万石の大大名に正面切って挑み、
しかも、当初は優勢な戦いができたのです。

たとえ負けたとはいえ、この事実に、
三成は大いに満足であったかもしれませんし、
あの世で、堂々と太閤秀吉に、拝謁することができたでしょう。

福島正則隊

ふたたび東軍の陣に戻り、まずは福島正則の隊を撮影。
豊臣恩顧の武将の最右翼でありながら、小山評定では真っ先に家康についた政則。
武勇はあるが、大酒飲みでたいへんな乱暴者、というイメージの武将ですが、
この人物が、後に、二代将軍秀忠からいろいろと難癖をつけられ、
大幅な減封、転封されることを思うと、なんとも哀れを感じます。

小早川秀秋隊

さらにこちら。
もはや言わずと知れた裏切り者、小早川秀秋とその軍勢です。
おそらく、全軍勢のなかで、最も人気がなかったかもしれません。
コスプレしている方も、本意ではないのかもしれませんね。
ですが、関ヶ原の戦いにおいては、良くも悪くも、とても重要な人物ですので、
本イベントには、なくてはならない存在です。

細川忠興隊

最後に、細川忠興の陣を撮影して、全陣を撮影し終わりました。

今回のイベントは、多くの犠牲者を出した史実をテーマにしているわけですが、
会場は、なんともほのぼのとしていて、とても楽しい雰囲気でした。
おそらく、東西にわかれ戦った士卒も、あの世で、
あのときの御手前の戦いぶりは見事であった、
いやいや、御手前こそ、などと、
昔を懐かしんで談笑しているのかもしれません。

笹尾山は大盛況

さて、そのあと、各隊のパフォーマンスが行われるとのことでしたが、
昼食もとらなければなりませんし、前日に行くことができなかった、
小早川秀秋の陣である松尾山にも行きたいし、ということで、
とりあえず、この場をあとにし、ふれあい公園まで行ってみました。

が、こちらもすごい人出で、目当てにしていた勝鬨カレーはすでに完売。
仕方なく、東西巻という、いなり寿司と巻物のパックを買いました。

そのあとは、いよいよ小早川秀秋の陣、松尾山へと向かいます。
松尾山まではかなりの距離ですが、それでも、マメだらけの足をひきづって、
歩くことにしました。

小早川裏切りの地へ

松尾山は関ヶ原の南にあり、途中からは、まったくの山道になってしまいます。
しかも、祭り会場にはあれだけの人がいたのに、こちらはさみしいもので、
こんなところで、もし熊が出たら、どうしよう、などと、思ってしまいました。

が、松尾山への道は、想定していたほど険しいものでもなく、
また、さほど遠い気もしませんでした。
なんだか、すぐに着いてしまったようにも思いました。
過剰に覚悟を決めていたので、そんな感じがしたのかも知れません。

ただ、他の武将の陣に比べ、松尾山はやはり遠く、道も山道ですので、
もし、松尾山へ意向と思うなら、それなりの心構えはいるかもしれません。

松尾山小早川秀秋陣跡

こちらが、松尾山の台上です。
それにしても、こんなところに、
一万を越える兵が駐屯していたなんて、とても信じられません。
そんなに広い場所もないし、いったい、どんな状態だったのでしょうか…。

松尾山から遠く笹尾山を臨む。

松尾山台上からは、遠く笹尾山の三成の陣を臨むことができます。
関ヶ原の合戦当日、三成は、この台上に向かって、徳川を討て、と、
何度も狼煙を上げたといいます。

が、小早川秀秋は、それらをことごとく無視します。
とはいえ、秀秋は、徳川方への寝返りを完全に決定していたわけではないようで、
一時は、優勢に戦いを進めていた西軍の様子を見て、
寝返りをやめて三成側につくことも考えていたようです。

もし、秀秋が、三成側に立って参戦したなら、
西軍が勝利を収めていたことでしょう。
そうなれば、以後も豊臣政権は存続したのかもしれませんし、
ひいては、いまの日本の姿も、大きく様変わりしていたかもしれません。

こうして、小早川陣地をひとしきり見学したあと、
前日、立ち寄ることを失念してしまった、田中吉政陣跡に行ってみることにしました。

田中吉政陣跡

田中吉政は、三成と同じ近江の出身ということで、
三成とは不仲ではなく、むしろ三成のことを正しく評価していたと言います。
ですが、西軍には勝機はないと考え、自ら東軍に身を投じます。

この読みは正しかったわけですが、吉政は戦後、
先にも述べたように、逃亡した三成を捕らえるという、
東軍にしてみれば大功績を上げています。

田中吉政陣跡は、家康が陣を構えた陣場野に近く、
前日もこのあたりは通ったのですが、この石柱にはまったく気がつきませんでした。

さて次は、島津勢の脱出を成功に導いた、
島津豊久の戦功を讃えた碑を見学に行ってみることにしました。

が、この碑までが遠い…。
歩けど歩けど見えてこず、とうとう、関ヶ原町から出てしまい、
上石津町というところに入ってしまいました。

この上石津町に入ったところで、島津の旗を発見。
ようやくにして到着しました。

島津豊久の碑

島津は文禄慶長の役のさいに、朝鮮で多大の武功をあげ、
明や朝鮮の諸将は、島津兵を『石曼子』シーマンズーといって、
恐れたそうです。
そんな島津は、当初は、家康の東軍側に付く予定だったのですが、
さまざまな事情で、東軍に付きそびれてしまい、
その後、どこか煮え切らないままに、西軍側に与して出陣しました。
が、関ヶ原合戦のまえに起こった、福島正則らの岐阜城を攻めたおりには、
石田三成による大垣城防衛策のため、まるで捨て駒にされるように、
無情にも戦場に置いてきぼりにされてしまい、
さらには、夜襲の提案をしても、三成に一蹴されてしまったりと、
なんだか、冷遇されているかのような扱いを受けてしまいます。
(ただ、三成は、島津のために尽力したことも、この以前には多々あったのです)

そんなこともあってか、島津勢は、関ヶ原合戦が始まっても、
積極的に戦闘に参加せず、また、敵方も、島津を恐れて積極的に攻めることもなく、
やがて西軍は瓦解し、気がつけば、島津の周りは敵だらけになっていました。

このときになってはじめて、島津は撤退のための戦いに打って出るのですが、
そのさい、主君である島津義弘を逃がすため、決死の戦闘を行ったのが、
甥の島津豊久だったといいます。

看板によると、島津豊久の生死は不明とのことですが、
この周辺でなくなった可能性が高いとのことでした。
碑にも、島津豊久の墓と銘打たれていました。

島津は、800人から1000人ほどの軍勢だったとのことですが、
そのうち、無事、薩摩に帰り着いたのは、
わずか80人とも、50人ともいわれているそうです。

というわけで、この碑の見学をもって、私にとっての、
二日間にわたる『関ヶ原祭り』は、無事終了ということにしました。

とりあえず、ガイドマップに記されている各陣、各名所には、
奥平貞治の墓を除き、すべて行きました。

ただ、関ヶ原合戦場の東にある、徳川家康の最初の陣である桃配山や、
吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、長束正家、など、
傍観軍が陣取ったといわれる、南宮山にも行くことはできませんでした。

これらの陣跡には、いずれまた、日を改めて、行ってみたいと思います。
それにしても、この二日間の行軍で、ヘトヘトになってしまい、
ふだんの運動不足を、身をもって知ることになりました。

しかも、足にはマメどころか、
足の爪が皮下出血してしまい、たいへんなことに…。
新調した靴を履いていったことで、こんなことになってしまいました。
もう、大反省です。

それでも、これに懲りず、また、関ヶ原や各旧跡を、
巡ってみたいものです。



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