高鷲でのMINI

八月はあれほど暑かったのに、九月にはいると、いきなり涼しくなり、
いまでは、先月の猛暑が嘘のように過ごしやすくなりました。
こうした気候になると、夏のあいだはほとんど動かすことができなかったMINIに乗って、
(なにしろ、我がMINIには、エアコンも電動ファンもありませんので、
夏場の快適なドライブはほとんど不可能でした)
また、どこかに出かけたいなと思ってしまいます。

とはいえ、そのまえに、まずはMINIのオイル交換をしなければ、ということで、
先々週の土曜、いつものように、ガレージ内で黙々と作業に勤しみました。
もっとも、規定走行距離として定めた3000キロを、まだ消化してはいませんが、
前回のオイル交換は三月で、すでに半年が経過しており、
今月のうちには替えてしまわなければなりません。
もっとも、今回は、エレメントの交換は行わず、オイル交換と、
グリスアップのみにとどめています。
(毎度の作業なので、写真はありません。すみません)

こうして作業も無事終わり、これで思い切りMINIに乗れる……、というわけで、
先週の月曜(敬老の日)、岐阜県高鷲村にある、
満州開拓団の展示施設『たかす開拓記念館』に行ってみました。

この施設の存在は、昨年、京都府舞鶴市の『舞鶴引揚記念館』に見学にいったさい、
案内の方から教えていただいたのですが、同じ岐阜県ながら、
たかす開拓記念館にはなかなかに行く機会がなく、
ようやくにして、先週、念願の訪問を果たしました。

しかし出発した時刻は遅く、気がつけばほぼお昼。
さらに岐阜市内を通過するのに思いのほか時間を使ってしまい、
高鷲村についたのは、午後2時半を少し回ったくらいでした。
(もう少し、出発を早めるべきでしたが、後の祭りです)
さらには、午前中は天気がよかったものの、だんだんと雲行きも怪しくなり、
気がつくと、雨こそ降らなかったものの、空はすっかり鈍色になっていました。

たかす町民センター

こちらがたかす開拓記念館の建物です。
もっとも、この建物は、たかす町民センターというらしく、
たかす記念館は、この建物の一部を利用して、設けられているそうです。

それにしても、この日は休日にもかかわらず、駐車場に来客のクルマはなく、
(一台だけ、SUV車が止まっていましたが、駐車位置から察するに、
おそらくは施設の人のクルマだと思われます)
建物もひっそりとしていました。
実際、営業しているのかな、と、思ったほどです。
とはいえ、建物は比較的新しく、たいへん立派なものでした。

広い室内

足を踏み入れると、外観同様、施設内も立派なもので、とても清潔な印象でした。
が、人影はまったくなく、施設が広いぶん、寂しい印象も拭えません。
トイレに行くと明かりがつきませんでした。

入り口付近に、係りの人の詰所のような部屋があり、ここに、
男性の方がいらっしゃいました。
この方は、たかす開拓記念館のスタッフというわけではなく、
町民センターの当番といった様子に見受けられました。
来意を告げると、部屋のすぐ横にある展示施設を示されました。
というわけで、さっそく見学をさせていただきました。

展示室へ

展示室は、パネル展示が中心となっており、
私の当初の想像よりも、充実していましたが、内容については、
開拓団の送出の記録という感が強く、比較的淡白な印象を持ちました。

ここ高鷲村を含め、岐阜県の郡上、ひるがの、などの地域は、
かなり多くの開拓移民団を、満州各地に送り出していたといいます。
郡上からの開拓団送出については、
現地の『凌霜塾』という組織が、大きな役割を果たしたそうです。
この凌霜塾というのは、幕末期、佐幕派側についた『凌霜隊』という部隊を、
ルーツとするそうで、各地で新政府軍と交戦しながら、会津への到達を目指したそうです。
(郡上藩自体は、新政府軍側についたそうです)
しかし、合図の鶴ヶ城は新政府軍の攻撃により陥ちてしまい、凌霜隊の隊士らは、
罪人として郡上に返送され、以後、投獄の憂き目にあったといいます。

この『凌霜』の名を冠した組織が、郡上群の満州開拓団の送出に大きな力を発揮し、
岐阜県内最多の開拓団を送り出したといいます。
郡上の開拓団は、蛟河の北、ハルビンの南のあたりに入植したそうです。

パネル展示によると、この郡上開拓団は、1945年の8月9日のソ連参戦後であっても、
また、日本降伏後においても、平穏に過ごしたとのことで、
しかも、現地の人が危害を及ぼすこともなかったのだといいます。
事実とすれば、極めて稀有なことかと思います。
満州での逃亡記を多数目にしてきた私には、にわかには信じらませんでした。

また、開拓団のほかに、満蒙開拓青少年義勇軍に参加し、大陸に渡った人たちも、
開拓団ほどの人数ではないにせよ、多数存在しました。

高鷲村の開拓団は、琿春の南に入植したといいます。
琿春は、現在の北朝鮮との国境沿いで、また、延吉という街にも近い位置です。
私の祖母、母、ともに、戦時中は満州に行っていましたが、
そのさいには、延吉に住んでいたといいますから、この琿春の開拓団とは、
比較的、近い位置にいたということになります。

また、和良村の開拓団は、満州の北部に入植しており、
(斉々哈爾よりもさらに北ですから、あきらかに、対ソ戦の防壁的な意味で、
開拓団を入れたのではないでしょうか)
ただそれだけで、敗戦後の苦労がしのばれます。

語り部の記録

そのほかに、語り部のかたたちの証言を文書化したものや、
インタビューの模様を録画した資料などがあり、
それらも一通り、拝見をさせていただきました。

階下にも展示室があり、こちらは、満州だけでなく、高鷲村の先人が行ったという、
北海道開拓についての展示などもありました。

ひるがの開拓団のジオラマ

こちらは、ひるがの開拓団のジオラマです。
このジオラマを見る限り、ひるがの開拓団は極めて困窮していたかのような印象を持ちます。
家屋は藁葺きの小屋のようなもので、家畜小屋と大差がありません。

こうして、一時間半ほどをかけて、
くまなく、施設内を見学させていただきました。

ただ、長野県飯田市の満蒙開拓平和記念館、
京都府舞鶴市の引揚記念館にいったあとということもあってか、
どうしても、施設内のさみしさのようなものは否めませんでした。

施設の規模の大小とかそういうことではなく、
満州棄民の悲劇を後世に伝えていこう、という、
気概や迫力のようなものは、美しく整然と展示されたパネルからは、
さほどには感じられませんでした。

比較すること自体、意味がないかもしれませんが、
休日にもかかわらず、案内の方もだれもおらず、
また、語り部の方を招いて体験談を聞くという催しの予定もないようで、
このあたりも、ものたりなさを感じた次第です。

ただ、いずれにしても、常設展示で、
このようなスペースを設けていただいているということは、
大いに意義のあることではないかと思います。

今後も、たかす開拓記念館のさらなる発展と、
展示、資料の充実を願うばかりです。

広い駐車場

というわけで、ひさしぶりのMINIでのドライブを兼ねて、
高鷲村まで行ってきました。
次回もまた、機会があれば行ってみたいものです。



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