
今年の大河ドラマは『明智光秀』が主人公ということで、
光秀ゆかりの地が多数ある我が岐阜県は、放送がはじまるまえから、
さまざまなPR活動を展開しています。
市内のアーケードには、明智家の桔梗紋や、織田木瓜、二頭波頭などが、
垂れ幕として掲げられ、また、無数の小冊子、チラシなども発行しています。
ドラマは、出演女優の不祥事などで、開始が二週間も遅れるという、
前代未聞の事態になってしまいましたが、視聴率のほうは、好調だとも聞いています。
(まあ、前年のいだてんが極めて低かったので、高く感じるだけなのかもしれませんが)
そんな県下の光秀ブームにあやかって、私たちも、先々週の日曜(1月26日)、
明智光秀も居城したという可児市の明智長山城跡に行ってきました。
この城址は、麒麟が来る第一話の終わりの、旧跡案内でも取り上げられていました。
明智長山城も、犬山城同様、岐阜市からはさほど遠くなく、
一時間と少しで到着できました。
岐阜市のあたりは、西に走れば彦根城をはじめ、長浜城、小谷城址、などがあり、
また市内には岐阜城があり、東に行けば、今回の明智長山城をはじめ、美濃金山城、
岩村城があるという、まさに城に恵まれたところです。
(岩村城には、まだいったことはないんですが……)

というわけで、明智長山城のための無料駐車場に車を止めます。
この駐車場、明智長山城からはちょっと離れていますが、城のあるあたりは、
閑静な住宅街になっていますので、かならずここか、もしくは、
花フェスタ記念公園駐車場に車を止めるようにしていただきたいです。
城の近くの路上に車を止めると、近隣住民の迷惑になりますので……。

そして歩くこと十分弱。城の入り口に到達しました。
(もっとも、この道は、城の大手門側ではなく、裏手になるようです)
この日の天気予報は曇りだったのですが、青空が見える行楽日和となりました。

明智長山城の築城は、1300年代の半ばごろだったようです。
応仁の乱よりも100年以上もまえですね。
城は200年以上も存続したそうですが、斎藤道三と斎藤義竜とのあいだでおきた、
長良川合戦の後、義龍軍の攻撃を受け、落城したといいます。
(明智勢は道三側に与したためです)
この落城後、光秀は、越前に逃れたかと思います。
(たしか、国盗り物語ではそういう展開になっていたんじゃないかと思います)

大河の影響のおかげで、城址はかなりの賑わい。
写真ではあまり人が多く写っていないように見えるかと思いますが、
実際には、非常に多くの観光客が訪れていました。
テレビの影響ってすごいですね。やっぱり……。

こちらは、本丸跡だそうです。
山城というほど、険しい山のうえにあるわけではないので、
城巡りは比較的、容易にできるかと思います。
そのぶん、長時間の山歩きを覚悟していると、ちょっと拍子抜けするかもしれません

とはいうものの、各曲輪への行き来には、谷を登ったり降りたりしなくてはなりません。
こちらは、そのための道ですが、高低差が結構あります。

その道すがら、古い石垣跡を発見。
これは、光秀や、光秀の叔父の光安の時代の遺構なのでしょうか。
そう思うと、ちょっとワクワクするんですが。
そのあと、いったん下山し、今度は、大手門側から、再度、登城してみることにしました。

こちらが、城の大手門です。
路面は石畳城になっていて、とてもきれいに整備されています。
ただ、登るには、ちょっと息が切れるかも。
(ヨメはハアハアゼエゼエいっていました)
夫婦共々、もういい年ですしネ。

こうしてふたたび登城。
今度は、さきほどは行くことのなかった、別の曲輪などを見て回りました。
そのあと、またふたたび下山。
城を出ると、今度は、近隣にある『天龍寺』という、
曹洞宗のお寺へといってみました。

こちらには、明智光秀公像、また、とても大きな位牌があります。
また、寺の裏手側には、明智家代々の墓があります。
この墓が、苔むしたとても古い雰囲気で、独特の印象があるのですが、
カメラのレンズを向けるのが、なんとなく不謹慎な気がしてためらわれてしまいました。
ですので、写真がありません。すみません。

その後は、そのまま東に歩き、
花フェスタ記念公園の脇を通る県道381号線に出て南進。
最初に車を止めた駐車場まで戻ってきました。
ぐるっと一周したようなかたちになります。
花フェスタ記念公園には、大河ドラマ館が設置されているとのこですが、
今回は時間がなくなってしまったので、今度もし、機会があれば、
いってみたいです。
というわけで、二回連続でお城の話題を続けてしまいましたが、
これからもまた、県内の城巡りをしてみたいと思っています。
コチラをクリックしてくださるとうれしく思います。
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